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静かな夜だった。時計の秒針が動く音が、やけに大きく聞こえた。
蓮司の気配は背後にある。だが、もうそれすらどうでもよかった。
遥は、目を伏せたまま、息を吐く。
(……なんで、こうなるんだろう)
胸の奥が、ついさっきまで燃えていたように熱かった。
怒り。恐怖。悲しみ。自己嫌悪。
そのすべてが混ざり合って、もうどれが何なのか、わからない。
ぽたり、と一滴、床に落ちた。
(涙……?)
いや、違う。あれは、ずっと前から流れていたのだ。
ずっと、誰にも見えない場所で。
思い出すのは、幼い日の記憶。
家に引き取られたあの日。
「愛人の子」として迎えられた自分を、
義母は、初めての夕飯の席で、無言で突き飛ばした。
「……邪魔なのよ」
あれが最初だった。
最初の拒絶。最初の痛み。
兄の晃司は、物心つく前から殴る蹴るを当たり前にしてきた。
台所の包丁を手にした晃司の手元を、何度見たことか。
玲央菜は、顔を歪めて笑いながら、髪を引きずり、布団に押し込めてきた。
沙耶香は笑わなかった。沈黙して、全部を見逃した。
弟の颯馬は、ただ後ろから真似をしてきた。
(誰にも、守られなかった)
でも──
(それでも、俺が……)
誰かに触れたくて。
誰かの言葉にすがりたくて。
“優しさ”を信じたことも、あった。
たとえば、学校で。
手を伸ばしてくれた誰かに、微笑んだこともある。
でも──それは、
「きもちわるい」
「媚びてる」
「触んなよ」
そんな言葉とともに、すぐに裏返された。
(結局……俺が触るから、壊れるんだよ)
自分から話しかけたから、無視されるようになった。
自分が笑ったから、陰口を言われた。
自分が寄りかかったから、相手が傷ついた。
──日下部だって、そうだ。
あいつは、たしかに優しかった。
手を差し伸べようとしてくれた。
でも俺がそれに、少しだけ期待した瞬間──
“なにもかも”が狂い出した。
(……全部、俺のせいだ)
自分が、存在しているせいで。
触れたいと願うたび、誰かの輪郭がひび割れる。
(俺が欲しがらなければ──)
あいつは壊れなかった。
あの瞬間は、汚れなかった。
この世界は、もっと綺麗だった。
──だから、もう、言い訳はいらない。
蓮司が壊した? 玲央菜たちが傷つけた?
ちがう。
俺が……壊したんだ。
何も守れなかった。
助けることなんかできなかった。
それどころか、近づくたび、愛しいと思うたび──
自分の存在が“毒”になっていった。
「……俺、壊してばっかだ」
それは静かな独白だった。
泣いているわけではなかった。
叫んでいるわけでもない。
ただ、すべてを受け入れてしまった顔で、
遥はそう呟いた。
蓮司の視線が、どこか遠くから突き刺さっていた。
だが、その熱も、もう遥の皮膚の下には届かない。
心の中では、
もう、何も残っていなかった。