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「もう無理! 全く会ってくれないし! 耐えられない! さようなら!」
たまたま時間が空き初めて入った喫茶店。一人でのんびりミルクティーを飲んでいたが、女の人の大きな声とバシャっと勢いよく水のこぼれる音が静かな喫茶店のジャズ音楽のBGMを掻き消すように響き渡る。
視線を音の先にずらすと頭から水を被って肩を丸めている男性の後ろ姿が目に入った。
悲しみが背中から滲み出ている。
なんとなく……ただなんとなく気になってしまいそっと席を立ち私はハンカチをその男性のテーブルにそっと置き「使ってください」とだけ言葉を残し喫茶店を後にした。
そんなインパクトのあった出来事から三日経った今日。
私、水野真紀(みずの まき)の働いている会社に数年ぶりに中途採用の新人が入るらしく、部内は騒ついている。
「ねぇ、新人男かなぁ、イケメンだったら最高だな〜」
椅子にもたれ掛かりながら私に話しかけてきたのは同期の櫻井涼子(さくらい りょうこ)だ。
入社した時は涼子の見た目に少し驚いてしまったくらいド派手な明るいミルクティー色の髪の毛をクルックルに巻いていて、目はバッサバサのつけ睫毛を付けていて失礼だけど、よくこの見た目で入れたな、なんて思ってしまった。けれどやはり人は見た目で判断してはいけないとすぐに思い知らされた。涼子はかなり仕事の出来る女だった。
涼子はもう結婚もしていて見た目も落ち着き、少し明るめのブラウンの髪色の前下がりボブ。化粧もかなり薄くなり昔の涼子はもう居ないと言えるくらいだ。子供も二人いて、順調な家庭だが、イケメンは別腹に大好きで見てるだけで幸せになるそうだ。
新人がイケメンかどうかウキウキしている。
「ん〜どうだろうね、全く情報ないもんね」
「だよね〜あ〜イケメン拝みたーい」
「本当涼子ってブレないね」
「まあねっ」
パソコンに向かいパチパチとデータの入力をし始めた所で島田(しまだ)部長の声が部内に響き渡った。
「はい、皆んな〜お待ちかねの新人がきたから紹介するので集まってくれ」
言われた通り島田部長の近くに向かうと島田部長の一歩下がった場所に立つ新人とバチッと目が合った。
(やだ、目が合っちゃった……)
高身長の新人はビシッとスーツを着こなし綺麗なアッシュブラウンの髪の毛もビシッとヘアセットしてある。
スッと通った鼻筋に薄い唇。お洒落な縁の丸い眼鏡の奥にある真っ黒で綺麗な瞳。その瞳にジッと見つめられている気がした。
「中途採用で今日からこの部に配属になった松田大雅君(まつだ たいが)だ、皆んなでフォローしてやってくれ、新人教育は……水野、お前に任せる」
「ええ!? 私ですか!?」
「ああ、頼むぞ」
「……分かりました」
なんて面倒……いや、大変な役割を任されてしまった。
でも島田部長の頼みだ……断れる訳がない。任された仕事をこなすのみ。
松田くんの元により簡単に挨拶を済ませた。
「じゃ、じゃあ松田君、水野真紀です、これから指導していくので分からないことがあればどんどん聞いてくださいね」
「はい、水野さん宜しくお願いします」
深々とお辞儀をする松田の声は低音だが濁りのない聞きやすい声だった。
「じゃあまず松田君のデスクは……」
ど、何処なんだろうと島田部長に視線をずらすと、
“お前の隣だ”と口パクで伝えてくる。
確かに私の隣のデスクはずっと空席のままだったので納得だ。
「あ、私の隣のデスクを使って下さい。
まずは一通りデスクを綺麗にしちゃって」
「分かりました」
松田はニコリと笑みを浮かべデスクに荷物を並べ始めた。
私は素直に言う事を聞く良い子だな、と率直に思った。
椅子に座り時々松田の様子を見ながらデータ入力を進める。
「……あの、水野さん」
「松田君、何か?」
「ちょっと聞きたいことがあって、向こうで話せますか?」
「分かったわ」
わざわざ呼び出して聞きたい事って何だろう。
場所を移動するって事は人に聞かれたくないような話なのだろうか。
ま、まさか入社初日に辞めたいとか!?
ドキドキしながら松田の後をついて行く。
なんだろう……この後ろ姿、彼の事をどこかで見たような気がして、でも思い出せなくてモヤッとする。
ガチャッと会議室の鍵を開け二人で中に入ると少し重々しい空気が私達を包み込んだ。
向かい合い、何を言われるのかとドキドキする。
「あの、俺、あの日からずっと水野さんの事を探してて、運命かと思いました」
「……は、はい?」
頭がぽかんと白くなる。この子は何を言い出したんだろう?
全く理解できない内容だったが次の瞬間ハッと鮮明に記憶が蘇った。
「これ、ずっと返そうと思って洗って持ち歩いてました、あの時は本当にありがとうございました」
そう言って差し出して来たのは先日、私が喫茶店で水をかけられた男性に渡したハンカチだった。
丁寧にアイロン掛けまでされている。
「あぁ、あの時の! こんな偶然あるのね、わざわざありがとう」
サッと受け取りその場を立ち去ろうとした瞬間、グッと腕を引かれバランスを崩し、ドサっと倒れるように私は彼の腕の中にいた。
一瞬の事すぎて何も反応が出来なかった。
「あ、あの、松田君、仕事に戻るので手を離してもらえるかしら?」
「……俺、水野さんが好きなんです、付き合ってください」
「はっ、ええ? じょ、上司をからかうのも程々にしなさい!」
意味が分からない。急に運命だの好きだのって……
「俺本気です、あの日からずっと水野さんの事が忘れられなくて……」
更に彼のグッと抱きしめる力が強くなり身動きが取れなくなる。
自分自身男の人に抱きしめられるなんて……告白されるなんて何年ぶりだろう……
もう一生独身で仕事に生きていくと思っていた私の女の部分が少し疼く。
こんな事言われて嬉しくない訳がない。ないけれど……その思いに飛び込む勇気はない。
「どうしたら信じてくれますか?」
私を抱きしめたまま子犬のような瞳でジィっと上から見つめてくる。
そんな風に見られたら可愛くて信じなくなるけど、いやいや、それはないでしょう!
「いや、信じる信じないの話じゃないのよ、私は松田君の事を全く知らない訳だし、ましてや今日から上司と部下の関係になるのよ? この前の喫茶店の彼女はどーしたのよ!」
「あぁ、あの人は勝手に勘違いしてただけですよ、付き合った覚えもなければ、デートもしてない。てか一切手も出してないのに水かけられたとか人生で初めてでしたよ、あんなヒステリックな女性初めて見ました」
ハハハと笑いながらなかなか腕を離してくれない彼の顔をキッと睨みつけ「離しなさい」と強く言い放った。
「その目……グッときます……」
そうボソッと呟いた瞬間私の唇は彼の唇に奪われていた。
「っつ……んん!!」
何とか引き剥がそうともがくがやはり相手は男。
全く動じず私の唇を奪い続ける。
久しぶりの柔らかい感触に戸惑いを隠せない。
キスなんて何年ぶりだろう……キスの仕方さえ忘れていた。
「俺本気ですからね、これからガンガン攻めていきますよ。真紀さん」