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ここは本館ではないので、西洋風の椅子は置いてないと言いながら、梅子は台所で使っている作業用の古びた丸椅子を申し訳なさそうに持って来た。
「ああ、別に腰かけられれば何でも構わんよ」
岩崎は、梅子から丸椅子を受けとると、腰を下ろしチェロを構えた。
「京介様!やっぱり月子様の為に恋歌ですかっ!」
梅子は色めきだっている。
「こ、恋歌……と言っても……それは……」
口ごもる岩崎へ梅子は粘る。
「えー!やっぱり、ここは、恋の歌ですよねー!月子様ー!」
一人、きゃっきゃっとはしゃいでいる梅子へ、岩崎は、月子の母が横になっているのだから静かにするようにと注意するが、当の月子の母も、実に楽しそうに西洋の恋歌が聞きたいと言い出した。
「えっ?!御母上まで?!梅子!御母上をそそのかしたのだろう?!」
などと、照れ隠しなのか、なんなのか、ブツブツ言いつつ顔をしかめて岩崎は考え込むと、ポツリと言う。
「……月子、聞きたいか?」
「え?!」
いきなり岩崎に振られ、月子は上手く返事が出来ない。
聞きたくないと言えば嘘になる。実は是非聞きたかったが、そう答えるのも、母の手前恥ずかしかった。
もじもじしている月子を見て、
「月子様ったら、遠慮なさって!京介様!やっぱり、ここは、恋歌ですよー!!」
梅子は、さらに押してくる。
「ああ、わかった。だから、梅子、静かにしなさい!」
はーいと、梅子は、調子良く答えると、パチパチ大袈裟に拍手した。
「うーん、では、フランツ・ペーター・シューベルト作曲、セレナーデを……」
岩崎が、弓を構えようとした所へ梅子が口を挟む。
「え?なんですか?恋の調べとか、そうゆうのじゃないのですか?その、せれなんでって?なんですか?」
梅子の屈託のない質問に岩崎は、ため息をつくと、曲について説明を始める。
「セレナーデだ。梅子。日本語にすると小夜曲と言うもので、恋する人へ気持ちを唄いながら演奏したものだ。元々は、リュート、つまり、もっと小ぶりな楽器で、夜、恋する人の部屋の窓の外から、相手へ向かって演奏した曲なのだが……」
「え!夜中に外で?!それじゃあ、ご近所に丸聞こえじゃないですかっ?!」
「いや、まあ、その流れて来る恋の歌を皆で楽しむということで……」
「え!それは、皆で覗き見するってことでしょ?!京介様は、人の恋路を邪魔なさるんですかっ?!」
信じられないと、梅子はご立腹だった。
これ以上、こじれるのも面倒だと、岩崎は、ではっ!!と、大声を張り上げる。
そして、チェロの音色が流れ始めた。
ゆっくりと、切々とした調べが紡ぎ出される。
確かに、恋する人を思い、そして、その気持ちを悩ましく思う心の叫びが聞こえているようで、月子の胸もきゅと締め付けられた。同時に、岩崎の腕に包まれ、優しく口付けを受けたことを思い出していた。
かっと、顔が火照った。
なんで、そんなことを思い出してしまったのだろうと月子はオロオロしつつ、流れる調べに耳を傾ける。
そして、襖越しに、その調べに驚く者がいた。
廊下で、お咲を連れた執事の吉田が、顔を引き締めている。
「お咲、月子様はこちらで演奏を楽しまれている。お咲は、曲が終わったら部屋へ入りなさい。私は、旦那様達にご報告へ行かねばなりません!」
吉田は、何か切羽詰まった様子で、お咲を置き去りにして、廊下を足早に去って行く。
練習に飽きたお咲は、月子の女中なんだと、ごね始めて仕方なく吉田が月子がいるであろう別宅へ連れて来たのだった。
が、何故か、岩崎の演奏するチェロの調べを耳にすると慌て、踵を返した。
残されたお咲は、吉田が居なくなった事を別段気にすることもなく、そおっと襖を開けると、チェロの調べに、にこりと笑い、るるーるーと、音に合わせ唄い始めた。