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吉田は、筆頭執事の立場を忘れたかのように、慌てふためきながら男爵の元へ向かっている。
今の時間、男爵は、芳子とあんパンとお茶を嗜んでいる頃合いのはず。
そう読んだ吉田は、二人がいるであろう部屋のドアを勢いよくノックした。
確かに男爵は居るようで、返事が返ってくる。
「だ、旦那様!」
「どうしたね?」
吉田のらしくない慌て具合に男爵は、怪訝な顔を見せた。
「き、京介様がっ!!あの曲を!ショパンのセレナーデを演奏しておりますっ!!」
「なんですって!それは!本当なのっ!」
ガチャリと耳障りな音を立てて、ティーカップを受け皿に置くと、芳子が勢いよく立ち上がった。
「吉田、それは本当なのか?」
男爵も、驚きつつ、それでも平静を保ちながら吉田へ確認した。
「京一さん!呑気にあんパンを食べている場合じゃないですよ!」
「うん!そうだな!芳子も、演奏会用のドレス選びどころではないぞ!!ドレスは、ひとまず片付けなさい!」
男爵も立ち上がると、数々のドレスを手にしている女中達へ声をかけた。
「京一さん!」
「芳子!これは一大事だぞ!」
二人は顔をひきつらせ、吉田へ視線を定めた。
「どうやら、月子様へ演奏なさっているご様子で……」
ひっ!と、芳子が叫び、男爵は、吉田へ案内しろと言い放つ。
「こちらでございます!」
吉田の先導で、男爵夫妻は転がるように部屋を出た。
と、なにやらまたひともめありそうな動きがあるなど露知らず、岩崎は見事に演奏を終え、ついでに潜り込んで来た、お咲の唄声に、月子達は拍手喝采を送っていた。
「お咲ちゃん、桃太郎意外も上手だねぇ!」
梅子が、岩崎の演奏に合わせて即興で唄う様子に驚いている。
お咲は、先の岩崎の剣幕を恐れてか、ちらりとその姿を仰ぎ見た。
おどおどするお咲の様子に岩崎も吹き出しそうになるが、良かったと大きく頷いてみせる。
「お咲ちゃん、上手だったよ!」
月子も、懸命に拍手してお咲を誉めてやる。
「……あの」
そんな中、梅子が申し訳なさそうに言った。
「そろそろ、おやすみになられた方が……」
梅子は横になる月子の母を伺っていた。確かに息が荒くなっている。
「これは、申し訳ありません!御母上!私達は、これにて失礼いたします。ごゆっくりおやすみください。月子、少し席を外そう」
岩崎に言われた月子は頷き、母を見る。
「母さん、ゆっくり休んで」
うんと、母も頷いて月子達の言い分を素直に受け入れた。
長居しすぎたのだと月子は、少し落ち込んだ。
母と一緒にいられる、そして、岩崎の演奏を共に聞くことができると思うと、つい気が緩み、母の体力のことまで考えが及んでいなかった。
失敗したと顔を曇らす月子へ岩崎は、
「別の部屋にいればいい。茶でも飲んで、また、御母上の所へ来ればいいのだから……」
大丈夫だと、優しく声をかけてくれる。
「うむ。その間お咲は、桃太郎の練習というのもありだなぁ」
とぼける岩崎に、お咲が、ぎょっとする。
その、嫌がる姿に月子も、母も大笑いした。
疲れているとはいえ、まだ、母に笑う力は残っていると月子は、ほっとする。
「梅子さん。母のことをお願いします」
深々と頭を下げる月子へ、梅子は慌てるが、承知しましたと、にこやかに答えた。