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静かな朝の始まりだった。
将臣は、淡々と凪の手料理を口に運ぶ。だが、時折、伺うように凪へ視線を送っていた。
伏し目がちな凪はそれに気づかず、なかなか進まない自分の箸先ばかりを見つめている。
息が詰まりそうな居心地の悪さを抱えたまま、二人の朝餉はあまりにも静かに過ぎていった。
「……今日は、町へ往診に行く」
食後の茶を飲み干した将臣が、重い口を開くように呟いた。
凪は、お盆の上に皿を重ねていた手を止める。
「往診……ですか?」
(軍医少佐という方が、町で診察をするなんて……)
思わず目を瞬かせた。
「では、準備のお手伝いを」
「いや……一人で大丈夫だ」
「あっ……」
すかさず拒まれ、凪は一瞬、言葉を詰まらせる。
将臣はその声にはっとして顔を上げた。どこか慌てたように言葉を継ぎ足す。
「いやっ、すまない。休みの日は往診に行っているんだ。……もう慣れているからな」
「……そういうことですか。わかりました」
凪は無理に微笑みを作ることしかできなかった。
将臣は白いシャツと濃紺のズボンに着替えた。そして、使い慣れた診察鞄を手に取る。
足元では、結丸がじっと彼を見上げている。
将臣は苦い顔で口をへの字に結んだ。
「文句か? ……これでも、気を遣っているつもりなんだがな」
だが、俯いていた凪の切ない表情を思い出すと、将臣の顔が一気に暗く陰る。
「……私の言葉が、足りていないのだろうな」
結丸は丸い瞳でじっと彼を見つめた後、背を向けて部屋から出て行ってしまった。
「冷たいやつだな……」
いじけるように、将臣はぼそりと呟いた。
南向きの部屋には、心地よい日差しが燦々と降り注いでいた。
畳の上で、凪は古布を雑巾へと縫い合わせている。無心で動かしていた手がわずかにぶれ、針先が指先を深く刺した。 ぽつりと、赤い血が滲む。
「あっ……」
その真っ赤な色に、凪の瞳が細くなった。
途端に昨夜、軍刀の傷跡から流れ込んできた、血に染まった兄の姿が脳裏を過る。
「嫌っ……」
振り払うように、激しく頭を振った。
次に思い出されるのは、将臣の別人のような顔。
怒りと悲しみに歪み、今にも泣き出しそうだった、あの横顔。
(……あんなに悲しそうなお顔、初めてだったっ!)
「私が……いけなかったのよ。こんな力、なければよかったのに……」
自分が傷を読んだせいで、将臣様を苦しめてしまった。
凪は血の滲む指先を強く握りしめ、ぎゅっと目を伏せた。
その時だった。
廊下から、何かを引きずる小さな音が聞こえてくる。 少し開いていた障子の隙間から、結丸が口に何かを咥えて入ってきた。
「結丸……? 何を咥えているの?」
ぽとり、と畳の上に落とされたのは、使い込まれた小さな革張りの手帳だった。開いたページには、患者の細かい病状や薬の記録が几帳面な字でびっしりと書かれている。
「これ……将臣様の手帳じゃないの。返さないと、往診で困ってしまうわ」
結丸は凪の真横に座り込み、「みゃーん」と一度だけ鳴いた。
(……私に、届けて来いと言っているの……?)
不器用な二人を見かねて、間を取り持とうとしてくれているのだと悟る。
思わず、目頭が熱くなった。
凪は障子の向こうに広がる澄み切った空を見上げる。
(昨日は、本当におそろしかった。……けれど、この部屋を用意してくださったのも、庭の畑を耕してくださったのも、全部、将臣様なのよ)
「本当は……とても優しいお方なのよね」
じっと自分を見つめる結丸に、凪は愛おしそうに微笑みかけた。
「将臣様をお支えするのが、私の役目だもの。……逃げてちゃ駄目ね」
結丸の首元を撫でると、結丸は満足そうに目を細めた。
「ありがとう、結丸。私、行ってくるね」
手帳を抱え、凪はまっすぐ将臣の部屋へと向かった。
「将臣様。よろしいでしょうか」
「ああ」
鞄の中を焦った様子で探っていた将臣が手を止める。
敷居を跨いだ凪の手には、あの革の手帳が握られていた。
「ないと思っていたら……」
将臣が驚きで目を丸くする。
凪は足元にすり寄ってきた結丸を見やった。
「結丸が持ってきてくれました」
「……そうか」
将臣は深く安堵したように息を吐き、手帳を受け取った。
「これがないと本当に困るところだった。……猫に気を遣われるとはな」
「ふふ、ええ」
二人の視線が重なり、互いにふっと小さく笑みをこぼした。
昨夜の重苦しい澱が、少しだけ溶けた気がした。
「私も、往診のお手伝いをさせてください。人手があった方が診察も早く回りますわ」
「……雑用程度になるが、いいのか」
「はい」
「そうか。……では、頼む」
傷を抱えた将臣の頬が、穏やかな笑みを浮かべる。
その一言と柔らかな表情だけで、十分だった。
凪の張りつめていた心が、じんわりと温かくほどけていった。