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溺れそうなほどの雨の中、石造りの街の通りを駆け抜けて、ユカリたちが飛び込んだ雨宿り先は酒場だった。扉も窓も締め切って、沢山の蝋燭だけが灯る薄暗い店内だが、とても賑わっている様子だ。
ユカリたちの他にも沢山の客が雨降りから逃れてきたらしい。普段は酒場に寄りつくこともなさそうな若い娘や子供までもが逃げ込んできて、しとどに濡れた服を絞りながら、口々に今まで体験したことのない雨について話を弾ませていた。過去にない繁盛した店内を見て、酒場の主は不満げな顔でぶつぶつと呟いている。あとの掃除のことを考えているらしい。
そして、焚書官たちまでもがユカリたちに続いてこの店へと逃げ込んできた。
魔導書の気配があった。どういう理屈か分からないが、サイスは魔導書の気配を自在に現したり消したりできるのだろうか。
ユカリたちと焚書官たちが服の水気を絞りながら睨み合う。
「剣は鞘に納めたはずだ」サイスは子供ながら子供に言い聞かせるように言って、率いる焚書官たちの前に立つ。「ここは日々の疲れを吹き飛ばす喜びを飲み干す酒場じゃないか。それに今は女子供の目の前だ。血を見せるのは無しにしよう。我々にも聞きたいことはあるし、酒のつまみになりそうな面白い言い訳を聞かせてくれると言うんだ。殺し合いは雨が止んだ後にでもしようじゃないか」
「さすが首席」「とても寛大なことだ」「命拾いしたな」と焚書官たちが囃し立てる。
ユカリたちとサイス、ルキーナが同じ机を囲む。見えない蛇もそばにいるらしく、どこかの隙間から漏れてくるようなしゅうしゅうという音だけがユカリの耳に届く。
サイスはレモニカから最も遠い席に座った。もちろんレモニカの呪いの内容など知っているはずもない。単に蛇に化ける女から離れたのだ。
「見えない蛇見えてる?」とユカリはベルニージュの耳元で囁く。
ベルニージュは首を振って否定する。
「そっか」ユカリはサイス達の方に向き直り、少し身を乗り出して尋ねる。「そういえば、ノンネットは怒ってた? 怒ってたよね? 当然」
護女ノンネットのことはいつも、というわけではないが時折思い出していた。ノンネットのことを想うとユカリは少し胸が痛んだ。アルダニの大河ビトラに浮かぶ船の上で出会った護女は、少し変わってはいたが心優しい少女だった。成り行きとはいえ騙すことになり、弁解することもできずに逃げてきてしまったのだ。
「怒っていたというよりは悲しんでいたな。そして身を案じていた」サイスは冷たく宣告するように言った。「彼女とはあまり話していないがな。気にするな。彼女が君たちのことを同情しようが何しようが、君たちが悪党であることに変わりはないんだ」
雨は暴れ狂うように街を叩きつけ、酒場の中にまで激しい雨音が聞こえてくる。が、酔客の喧騒もまたそれに劣らない。雨の匂いと酒の匂いと蝋燭の匂いが混然一体となって、店そのものを酔わせる。
サイスはさらに続ける。「それで? エイカと名乗っていたな。ミーチオンでは珍しくない名だ。出身なのか?」
ユカリは重大な事実にようやく気づく。なぜ今まで忘れていたのだろう。ユカリが生家を焼かれた時、サイスがその場にいたかどうか分からないが、ルキーナはいた。その日の昼には見えない蛇に拘束されたのだから間違いない。たしかに焚書官は皆鉄仮面で顔が分からないし、サイスのような小柄な焚書官も覚えがない。しかしルキーナは間違いなくその場にいたし、その後も何度か会っている。
しかしサイスはそのことを知らない様子だ。彼らがチェスタと同じ第二局の焚書官で、しかし構成員はルキーナ以外全員別人なのだとしても、ルキーナはなぜそのことを彼らに教えないのだろう。自分たちに家を焼かれた哀れな狩人の娘の顔など忘れたのだろうか、とユカリは怒りがふつふつと沸いてくる。それとも自分が何かを見落としているのだろうか。
「ええ、まあ。近いところですね」とユカリは曖昧に答える。
「そういえば、雨乞いをしていたな」サイスはあまり興味無さそうに水を飲みながら言う。「この街に何か恨みでもあるのか? まさか僕たちの襲撃を予見していたなんて言わないよな?」
まさか魔導書を完成させるためとは言えない。
「魔法の研究実験ですよ、ね?」とユカリは呟き、ベルニージュの方を見る。
「うん。もちろん内容は話せないけどね」とベルニージュは同調する。
「ああ、なるほど」鵜呑みにするつもりはないようだが、サイスにとっては信じがたい嘘というわけでもないらしい。何かに気づいてサイスは舌打ちをする。「ああ、抜け殻もそうか。あの忌々しい蛇の。実験に使ったというわけだ」
「カーサですよ。早く覚えてください」と言ってルキーナは麦酒をぐいと呷る。「あ、こら! カーサ! 首席は餌じゃないよ!」
「やめろ! 馬鹿! 僕に近づけるな!」そう言ってサイスは見えない何かを退けるように腕をぶんぶんと振り回す。
「なんちゃって、冗談ですよ。首席ってば可愛いんだから」と言ってルキーナは麦酒をぐいと呷る。ぐいと呷る。ぐいと呷る。
サイスは今にも怒鳴りそうな顔色になったが、怒鳴り声を喉の奥にぐっと飲みこみ、ユカリたちを睨みつける。
「お前たちはそうやって反社会的な行為を繰り返しながら旅をして実験をしている魔法使いというわけか」
そういうことになってしまうが、魔導書を収集していると話すよりはましだろう。
「成り行きというか、不可抗力だったんです」ユカリは思い出しながら話す。「元々はこう、もっと平和的に、交渉とか……」
ユカリはふと思い出す。元々はサイスか透明蛇カーサのどちらかをさらおうとしていたのだった。むしろ成り行きのおかげで軽い罪になったともいえる。が、その通りに説明する訳にもいかず、口ごもる。
サイスは鼻を鳴らしてユカリたちを冷たい目で眺める「まあ、いいさ。お前たちのような小物など僕たちはいつだって処罰できるんだ。それより、僕たちは他にも反社会的な行為を繰り返しながら旅をして実験をしている魔法使いに心当たりがあるんだが。メヴュラツィエって知ってるか?」
前に食堂で遭遇した時にも出てきた名前だとユカリは覚えていた。
これにはベルニージュが答える。「常識的な範囲でなら知ってる。救済機構の尼僧であり、多くの革新的な魔術を開発した魔法使いだった。殉教した理由は知らない」
サイスとルキーナは鉄仮面の向こうからこちらを探るように見つめる。
ユカリとレモニカは首を横に振る。ベルニージュの説明以上のことは何も知らない。
「ではクオルについては?」とサイスが言った。
思わぬ名前が出て、ユカリは顔に出してしまった。透明蛇カーサのしゅうという声が、背後から聞こえ始めた。
「知ってるの?」とルキーナが堅い声で問う。
「知ってるというほどじゃないです。ちょっと迷惑しているだけで」
ユカリはクオルについて知っていることを頭の中に搔き集める。魔法使いで、魔法の道具の研究者であり、開発者。珍しい生物の取引もしているらしい。コドーズという見世物小屋の団長やボーニスという強力な戦士と取引している。慢性的に助手不足。言葉遣いは丁寧だけどお喋りで、いらないことを言ってしまう。別にこれらのことを話してしまっても特に問題はない、はずだ。
「洗いざらい話してもらえる?」とルキーナは強い口調で言う。
ユカリは負けじと言い返す。「まずは貴方がたから話すべきです。クオルがどういう人物なのか。なぜクオルのことが知りたいのか」