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春の午前。構内に咲く桜は、誰に対しても平等に美しかった。
――なのに、自分だけが、この風景にまっすぐ触れてはいけない気がしていた。
講義棟へと向かう道すがら、俺はいつも通り、目立たないように歩く。目を合わせず、匂いも残さず、空気みたいに。
その努力は、もう習慣になっていた。
「α優位社会」――教科書にも載る当たり前。
どれだけ時代が進んだって、根底は変わらない。
強くて、安定してて、社会的にも価値があるとされるのは、いつだってα(アルファ)。
β(ベータ)はその間にいる、平穏な存在。
そして、Ω(オメガ)は……本能のままに発情する、不安定な存在。
抑制剤さえ飲んでいれば、日常は“普通”に送れる。
誰にも迷惑をかけず、誰の興味も引かず、ただ静かに、生きていける。
――それが、康二の理想だった。
高校時代、1度だけ抑制剤が効かなくなったことがある。
フェロモンが漏れて、教室がざわついて、αの男子に詰め寄られて。
気づけば保健室に担ぎ込まれて、噂は一気に広がった。
「うわ、あいつΩだったの?」
「やっぱフェロモンやばいな」
「無理。怖……」
そんな声が、今でも耳の奥に残ってる。
だから大学では、絶対にバレないって決めた。
サークルにも入らない。飲み会にも出ない。αが多い授業も避ける。
恋愛なんてもってのほか。
誰かに近づけば近づくほど、自分が“普通”じゃないことが浮き彫りになるから。
「俺は、俺でいたいだけやのに……」
誰かに優しくされると、つい心が揺れる。
けど、そのたびに思い出す。
Ωである自分は、特別じゃない。
ただ、“選ばれる側”だって、世間が勝手にラベルを貼る。
……それでも時々、考えてしまう。
本当の“自分”を、誰かに受け止めてもらえる日は来るんやろかって。
そっと胸元を押さえ、深く息を吐いた。
風が少し強くなって、桜の花びらがひとひら、手元に舞い落ちた。
美しいはずのその花が、どこか切なく見えた。
――――昼休み。人が行き交うキャンパスの広場。
俺は購買で買ったパンと紙パックのカフェオレを片手に、人混みを避けるように隅のベンチに腰を下ろした。
陽射しは暖かく、風は心地いい。それなのに、心の奥にはいつも小さな緊張が残っている。
――誰にも気づかれず、今日も無事に終わりますように。
そんな祈りを込めて、ぼんやりと視線を上げたときだった。
ふと、広場の中心あたりがざわついているのが目に入る。
「あ、目黒くんじゃん」
「かっこよすぎん?あれで頭もいいとかさぁ……」
「てか、あのαの余裕感、やば……」
そんな声がすぐ近くの女子たちから聞こえてくる。
康二も、無意識のままそちらに視線を向けていた。
数人の友人たちに囲まれて、自然に中心にいる男――目黒 蓮。
高身長でスタイルが良く、遠目にも整った顔立ちがわかる。
笑ったり、軽口をたたいたり、時には真面目な顔で誰かの話を聞いていたり。
そのひとつひとつの仕草に、周囲の視線が集まっていく。
――ああ、まさに“α”って感じや。
圧倒的な存在感。そこにいるだけで空気が変わるような、人を惹きつける何か。
俺が最も警戒し、そして一番遠ざけてきた存在。
(ああいう人とは、関わることなんて一生ない)
そう思った。思い込むように、視線をすぐにそらした。
あの光の中にいる人たちは、康二のように身を潜めて生きる必要なんてない。
好きに笑って、誰かに近づいて、堂々と恋をして、触れあって、選び、選ばれる。
俺は、その輪の外。
フェロモンを隠して、気配を殺して、それでも“普通”を装うのに必死な日々。
――同じ大学にいるのに、同じ世界にいる気がしない。
カフェオレの味が少しだけ苦く感じた。
それが本当に飲み物のせいなのか、自分の胸の奥の感情なのかはわからなかった。
その日の午後、気温は少しずつ上がり、校舎内はどこかぼんやりとした空気に包まれていた。
康二は、早めに終わった講義を抜けると、そのままキャンパスの裏手にある静かな渡り廊下へと足を運んだ。
人目を避けて、誰も通らない場所で息をつくのは、康二の“習慣”だった。
けれど今日は、身体の芯が妙に熱を帯びていた。
視界の端が少し揺れて、喉が渇いて仕方ない。
――抑制剤、たしかに今朝飲んだはずなのに。
(おかしいな……効き目、切れてきてる? まだ、そんな時期じゃ……)
いやな汗が背中を伝い、鼓動がどんどん速くなっていく。
まずい、まずい――このままじゃ、匂いが漏れる。
康二は焦りながら、小さなボトルをポケットから取り出す。予備の抑制スプレー。
震える手でそれを握りしめ、すぐに人気のないトイレに駆け込もうとした、そのときだった。
「……おい、大丈夫?」
その声が、後ろからかけられた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは――目黒 蓮。
高い背と、端正な顔立ち。けれど表情はどこか心配そうで、康二をまっすぐに見ていた。
「顔、すごい青いけど。動ける?」
「っ……だ、大丈夫やから」
反射的に答える声は、かすれていた。
抑え込んでるはずの本能が、警鐘のように鳴り響く。
この距離、この空気、――この匂い。
αである目黒に、何かを悟られてしまう気がして怖かった。
けど、そんな俺の不安なんて知らない目黒は、ふと小さく鼻を動かしてつぶやいた。
「……君の匂い、なんか……落ち着く」
その言葉に、心臓が跳ねた。
“匂い”。その一言が、鋭く胸を刺す。
(あかん……漏れてる……)
身体の中で、ずっと閉じ込めていたものが今にも暴れ出しそうだった。
このままじゃ駄目だ。逃げなきゃ。
「ありがとう。でも……もう大丈夫やから」
なんとか笑ってごまかすと、目黒の前をすり抜けて歩き出す。
その背中に、何も追いかけてこなかったのが、逆に痛かった。
心臓の音だけが、自分の中でやけに大きく鳴り響いていた。
フォームの始まり
――――――――――
講義中、教授の声がどこか遠く聞こえていた。
ホワイトボードの文字は視界に入ってるのに、頭に入ってこない。
体の奥がじんわり熱を帯びて、背中を伝う汗がやけに重たく感じる。
(……やっぱ、切れてきてる)
朝飲んだはずの抑制剤。
本来ならまだ効いているはずなのに、どうにもフェロモンが身体の内側でじわじわと滲み出してくるような感覚があった。
自分で自分の匂いはわからないけど、空気が変わってるのはなんとなくわかる。
αが近くにいたら、きっと気づかれてしまう。
(やばいな……でも、騒がれるわけにはいかん)
手のひらに力を入れて、震えを止めようとする。
講義中に抜け出すなんて目立つ行動はできない。
目立ったら最後だ。誰かに“気づかれる”のが一番怖い。
“Ωのくせに”、そう言われるのが、もうこりごりや。
(俺は誰にも迷惑かけへん。誰にも何も残さず、生きるって決めたんや)
そう言い聞かせて、うつむく。
隣に座るβの男子が、何の違和感もなくノートを取っているのが羨ましかった。
“普通”って、こんなふうに呼吸して、こんなふうに座って、こんなふうに日常を過ごせることなのに。
――俺は、ただ普通に生きたいだけやのに。
胸の奥で、じんわりと熱がくすぶる。
これは本能じゃない。
叫びたいのに叫べへん、無理して押し殺してる“声”のほうや。
(……せめて、今日だけでも)
そう願って、俺はもう一度拳を握る。
フェロモンなんかに負けへん。
俺は“Ωじゃないふり”して、ここまで来たんやから。
それでも、心のどこかでうすうす感じていた。
――もう、限界が近いって。
夕方、キャンパスの空気がほんの少し冷たくなりはじめる頃。
康二は人目を避けるように、図書館裏の中庭にあるベンチに座っていた。
まだ授業は残っていたけど、集中できる状態じゃなかった。
(もうあかん。体の芯がずっと熱い)
抑制剤は完全に切れてる。けど、予備も持ってない。
明日までは耐えられると思ってたのに、身体の奥がずっと疼いてる。
(誰にも気づかれへん場所で、じっとしてたら……なんとかなる)
そう思って、ひと気のないこの場所まで来た。
深呼吸するたびに、自分の中から何かが漏れている気がして怖かった。
誰かが通りかかったらすぐに逃げよう――そう思っていた、そのとき。
「……君、また調子悪いの?」
唐突にかけられた声に、心臓が跳ねた。
振り向かなくても、声でわかる。
この前、自分に声をかけてきたα――目黒 蓮。
「……目黒…くん」
咄嗟に立ち上がろうとするけど、足元がふらつく。
すぐに目黒が駆け寄ってきて、肩を支えられた。
「無理すんなって。顔、やっぱ真っ青じゃん」
(あかん、近い。今の俺、絶対に……)
この距離じゃ、フェロモンが届く。
ほんの少しでも香りが漏れていたら、αの感覚は鋭い。
「なあ……今日、君の匂い、なんか変じゃね?」
目黒がそう言ったとき、背筋が凍った。
(……やっぱり、バレてる)
「……ごめん。ちょっと、風邪っぽいだけやから」
声が震えていた。何もかも隠し通せる自信が、どんどん崩れていく。
けど、目黒はそれ以上問い詰めることも、詮索することもなかった。
ただ、そっと俺の肩に手を置いて、真っ直ぐに言った。
「俺さ、なんか君の匂い……落ち着くんだよな。不思議と」
その言葉に、俺は息を詰めた。
“落ち着く”なんて、αがΩに対して言う言葉じゃない。
でもそこに侮蔑も、下心も、優越感もなかった。
ただ素直に、そう感じたから言った。
そんな目黒の声に、ほんの少しだけ――心が揺れた。
(なんで……あかん。期待したらあかんって、わかってるのに)
「……ごめんな。俺、先帰るわ」
無理やり笑ってその場を離れた康二は、自分の背中に目黒の視線が刺さるのを感じていた。
気づいてほしくないのに。
けど、どこかで――気づいてほしいと思ってしまった自分が、いちばん怖かった。
それは、思ってたよりも突然やってきた。
夜、帰宅途中の人気のない裏道。
少し肌寒い風が吹いていたはずなのに、俺の体は異常なほど火照ってた。
脚がふらついて、電柱に手をついたとき、自分の身体の中で何かが「もう止まらへん」って叫んでるのがわかった。
(……発情期や。最悪のタイミング)
抑制剤、切れてる。スプレーもない。
家まではまだ距離がある。人に会いたくない。誰にも近づかれたくない。
何より――誰かに“俺”を知られるわけにはいかへん。
(俺はΩや。けど、それを知られたら終わりや)
体がずきずき疼いて、喉から変な声が漏れそうになるのを、なんとか唇を噛んで堪えた。
こんな場所で座り込むわけにはいかん。けど、立てへん。
「っ、くそ……情けない」
誰にも迷惑かけたくなかった。
黙って、誰にも知られずにやり過ごすつもりやった。
ただ普通に、何もなく、今日という日が終わってくれるだけでよかったのに。
「康二?」
その声が聞こえた瞬間、血の気が引いた。
最悪のタイミングで、最も出会ってはいけない相手が目の前にいた。
目黒 蓮――α。
「……なんで、こんなとこに……」
俺の声はうわずってて、自分でも聞き取れんくらいやった。
「お前こそ、顔真っ赤だし、歩けてないじゃん。大丈夫かよ……って、おい!」
支えようと近づいてくる目黒を、本能が拒否しようとするのに、心が逆らえなかった。
その匂い――αのそれが近づくたびに、俺の身体は勝手に反応する。
(あかん……もう、限界や)
でも、もう逃げられへんかった。
立ち上がる力も、振り払う力も残ってなかった。
「……ごめん。近づかんほうがええ。俺、いま……」
声が震える。
(隠してきたのに。誰にも知られんように、こんな何年も、ひとりで)
「俺……Ωやねん」
言ってしまった。
震える声で、潤んだ目のまま、目黒を見た。
「迷惑かけたくなかっただけや。誰にも、触れたくなかった。誰にも……知られたくなかった」
「けど、もう……無理や」
苦しさも、熱も、涙も、全部ぐちゃぐちゃになって滲んでいく。
それでも、目黒は黙って俺の前にしゃがんで、そっと手を伸ばしてくれた。
「俺の前で、隠すなよ」
低くて優しい声が、心の奥まで染みていく。
その手に触れた瞬間、崩れた。
拒めへんかった。
αとΩ。理性が追いつかへんくらい、身体が求めて、溶けて、満たされて――
本能のまま、俺は目黒に身を預けた。
フォームの終わり
どこへ連れていかれたのかは、よく覚えてへん。
目黒の腕の中にいたことだけが、すべてやった。
あのときの俺にとって、場所なんかどうでもよかった。
優しい手のひらで支えられた背中。
熱を持った体が俺を包み込むたびに、張り詰めていたなにかが、少しずつ溶けていった。
(もう、我慢せんでええんかな)
そんな甘い期待が、喉の奥から零れそうになる。
目黒の匂いが近づくたびに、奥の奥が疼いて、体が勝手に震えた。
ベッドに横たえられたとき、俺はもう何も言えなかった。
言葉を吐く余裕なんかない。
ただ、目黒の手が触れるたびに、息が詰まりそうになる。
「……怖くない?」
その言葉だけが、すごく優しくて、すごく苦しかった。
怖いはずやのに、怖くなかった。
何よりも、欲しかった。
「……目黒くんに、触れてほしい」
自分で言って、唇を噛んだ。
泣きたくなるくらい恥ずかしかったけど、もう止められへん。
目黒の唇が、俺の首筋に触れた瞬間、全身が震えた。
フェロモンが絡み合っていく感覚に、頭がぼうっとなる。
(初めてなのに……体が、勝手に)
その手は焦らず、だけど確かに、俺をほどいていった。
服の隙間から滑り込んできた指が、火傷みたいに熱い。
なのに、くちづけはどこまでも柔らかくて、優しかった。
「お前、ずっとひとりで我慢してたんだな」
その言葉が、胸に刺さって、涙がこぼれた。
「我慢せんでええよ。今は、俺がいるから」
そのまま、目黒は俺の奥に入ってきた。
ゆっくり、ゆっくり、慎重に。
俺の身体が受け入れるたび、どこか痛くて、でも同時に――安らいでいた。
この人やったら、大丈夫やって、思えた。
「っ……はぁ、あ……っ」
抑えようとしても、喉から漏れる声が止められへん。
目黒の中に、俺が包まれていくたび、何かが溶けて、満たされていく。
ぬくもりが深くまで入り込んで、もう自分の輪郭がどこまでかわからへん。
「……康二、気持ちいい?」
「……うん、っ……気持ち、ええ。……目黒くんの、全部……ほしい」
本能が、奥まで求めてしまう。
心も体もずっと、ひとりで凍えてた。
でも、今だけは――ひとりちゃうって、思えた。
体が重なりきって、達する瞬間。
目黒の名前を何度も何度も叫びながら、俺は初めて「Ωの自分」を否定せんでええと思えた。
「ん……や、ぁっ……蓮、くん……」
名前を呼んだ瞬間、腰を深く打ちつけられて、喉の奥から甘い悲鳴が漏れる。
こんなに、自分が乱れるなんて思わんかった。
でも、それくらい――俺の身体は、もう全部、目黒くんのものになってた。
「康二……可愛い、声……もっと聞かせて」
熱を帯びた声が耳元を撫でて、ぞくりと背筋を震わせる。
ゆっくりだった動きが、だんだんとリズムを増していくたび、快感の波が何度も押し寄せる。
「はっ……ぁ、あ……んっ……っつ……」
目黒くんの中で、俺の全部が溶かされていく。
奥まで何度も擦られて、擦られるたびに、身体の芯が痺れていく。
「奥、気持ちいいんだ……康二、ここ……すごく、きゅって締めてくる……」
「っ、や、あかん、そこ……っ、ばか、あっ……!」
声が掠れても、止められへん。
疼く場所を何度も抉られて、恥ずかしいほど声が出る。
自分でも知らなかった快感に、俺はもう逆らえん。
(どうしよう……気持ちよすぎて、壊れてまう……)
目黒の手が、俺の指を絡め取る。
繋がれたまま、もう一方の手で汗ばむ頬を包んで、優しく唇を重ねられる。
深く、何度も。
重なる吐息。唾液の糸が肌を這って、ひとつに溶けていく感覚。
「……お前が、欲しくてたまらなかった」
「っ……そんな、言わんといて……もう、無理や……」
「康二……一緒に、イこう」
限界がすぐそこにあるのがわかる。
腹の奥が熱くて、ぎゅっと締めつけられるたび、感情がはみ出して涙がこぼれる。
身体の中で、目黒くんの熱がぶつかってくる。
抜けそうで、抜けない。繋がったまま、俺は――
「っ、あっ……あ、あかん、蓮、く……ッ!」
ビクビクと痙攣する身体の奥に、熱いものが注がれるのを感じて、
頭の中が真っ白になった。
愛されてる。
αとΩ、そんな言葉なんてどうでもいいほど、
俺はこの人のすべてを受け入れて、抱かれて、満たされていた。
しばらくの静寂のあと、目黒は抜けることもせず、俺をぎゅっと抱きしめたまま離さなかった。
「……好きだよ、康二」
優しい声が、汗ばんだ額に落ちるキスとともに、俺の中に沁み込んだ。
(俺、Ωでよかったのかな……初めて、そう思えるかも)
もう、ひとりじゃない――
そんな気持ちが、じわりと胸に広がっていった。
―――――――――――
目が覚めたとき、部屋には静かな朝の光が差し込んでた。
まだ薄暗いのに、カーテンの隙間から覗く空は、すっかり夜を終えていた。
腕の中にいる目黒は、穏やかな寝息を立てていた。
昨夜、俺のことを優しく抱いてくれた人。
俺のすべてを知って、それでも優しくしてくれた人。
(……夢みたいや)
じっと見てると、胸が苦しくなる。
温かくて、優しくて、居心地が良くて。
こんなん、ずるいよ。
今まで、こんな風に触れられたことなんてなかった。
誰かに全部を受け入れられたことなんて、なかったんや。
でも。
(これは一度きりや)
胸の奥で、はっきりそう呟いた。
目黒がどんなに優しくしてくれても、俺はΩで、目黒はα。
世間の目はそう簡単に変わらへん。
もしこれが広まったら、あの人にだってきっと、傷が残る。
そんなの、嫌や。
ゆっくり、静かに、腕の中から抜け出す。
目黒は眠ったまま、微かに指を動かした。
まるで、引き止めるように。
けど、俺は見ないふりをして、そっとベッドを離れた。
散らばった服を拾って、昨日とは違う冷たさをまとった布に腕を通していく。
鏡に映った自分は、少しだけ目が赤かった。
泣いてなんかない。……たぶん、寝不足のせい。
「……ありがとう。ごめんな」
ぽつりと、声に出して言った。
聞かれることのない言葉。
届かないように、わざと小さく、誰にも聞こえないように。
ドアノブに手をかけて、一度だけ振り返った。
目黒はまだ、眠ったままだった。
穏やかな寝顔が、眩しくて、少しだけ胸を刺す。
(好きになったら、あかん)
そう言い聞かせながら、俺はそっとドアを閉めた。
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れた気がした。
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