「剥製になってしまった天才」を知っているか?
僕に関して言えば、これ以上ないくらいに愉快だった。
こんな時は恋愛までもが愉快だったのを憶えている。
肉体がふにゃふにゃになるくらい疲労したときだけ、精神は銀貨のように澄む。
ニコチンが僕の不安定で荒れた胃にしみこむ。
そうすれば、頭の中に決まって白紙が準備されるんだ。
その上に、僕はウイットとパラドックスを碁の布石のように並べるんだ。
グッドバイ、君は時折り、君のもっとも嫌う食べ物を貪り食うがいいさ。
そういったアイロニーを実践して、ウイットとパラドックスを・・・。
僕がそうだと言えば、そういうことにはならないのが世の常だった。
どうにも体を疲労困憊やいくつかの病気という不都合を襲った。
そんな僕に残されたのは、ペンと原稿用紙という道だけでした。
自殺は何度も僕のところに訪れたが、ついぞ僕が死ぬことはなかった。
選ばなかったのか、選べなかったのかはわかりませぬ。
それでも、最後に残された道はこれだけだったのだ。
「・・・それで生命力が薄くなるんだったら、元も子もねえなあ」
「面目ないね」
病院の待合室。
隣の席で、我が悪友が僕を嘲笑った。
僕の胃は調子が悪くなること請け合いで、ここのお世話になることが多い。
「それにしても、お前さん、今回はなんだって体調不良に?」
「アスピリンを飲んだと思ったらアダリンだったというわけだね」
「そりゃまたバカなことを・・・あはは。じゃあ、俺トイレ行ってくるわ」
こうして僕は待合室に残されることになる。
別に一人が嫌なわけでも、知らない人々の間にいるのが嫌なわけでもない。
ただ、何かが不安になるのだ。大海に浮かぶ筏に取り残された気分だ。
ここから先、どう進めばいいかもわからないし、戻るあてもない。
羅針盤は闇の先を指していて、鼓動は常に呪われているようだった。
「・・・ごほっ・・・ごほっ・・・」
ささやかな咳が聞こえ、そちらの方を向いた。
黒鹿毛のウマ娘がよろよろと歩いていた。
今にも倒れそうだなと思っていたら、本当にふらっと倒れそうになる。
僕はとっさにその子の体を支えてあげて、椅子に座らせた。
「ううっ・・・すみません」
「いえいえ、当然するべきことをしただけですよ」
僕は赤の他人を前にすると、常識人の面を被る
まったくもって、苦痛じゃなかった。
むしろ、それこそが人としてやるべき当然のことでしょうからね。
いやいや、むしろ僕は普段から常識人を演じていたはずだ。
それなのに、どうして僕を知る者達は僕を気狂いだと疑うのだろう?
「ありがとうございます・・・」
「まあまあ、体の調子が悪いのはお互い様ですから。
ちなみに僕は胃がちょっと悪いのですが、あなたは?」
「・・・全体です」
「ああ、それはお気の毒に・・・」
嘘つけ。本当のところ、僕は全く気の毒に思ってないくせに。
僕はただ、僕の抱える苦痛にのみ集中せざるを得ないというのに。
どうしてそんな言葉が口から出たのか、少々不思議でならないのですよ。
「でも、胃の調子が悪い方が辛いって聞きました。
トレーナーさんたちはよく胃腸薬を飲んでますし」
「トレーナーさんたち?すると君はトレセンの生徒かい?」
「はい・・・でも、あまり顔を出せてません。
この通り、生まれつき体が弱いので・・・」
「それでも、立派だと思うよ。まだ目が輝いてるもん」
羨ましくて、妬ましいくらいに、綺麗な目だった。
僕もこうやって、物事に真面目にあることができたならな!
ああ、ずいぶんと体が重い。瞼も重い。
「・・・それで、君の名前は何だい?
僕は李箱(イ・サン)っていうんだけど・・・」
「あっ、ツルマルツヨシです・・・えっ、李箱さん?」
「そうだけど、僕の名前がどうかしたのかい?」
「知ってるも何も・・・月刊トゥインクルで・・・」
「よお、友よ、そこまでだ」
我が悪友よ、何ともまあいけ好かないタイミングでやってきたものだ。
「一週間。この前ナンパした女性とは一週間しか続かなかったよな?
しかも、こっぴどく振られて、部屋も原稿も荒らされ・・・。
箱、お前には反省って単語が脳に刻まれてないのか?」
「裕、これは普通にちょっと話してただけだよ」
「さあ、どうだか。俺はどうにもお前を信用できないんでね。
よし行くぞ。胃の中をお医者様に見てもらえ。
本当は頭の中も見てもらいたかったんだがな、ここはあいにく精神科じゃない」
僕はそのまま悪友に引きずられていった。
「・・・まさか、あの人じゃないよね?」
待合室に残されたツルマルツヨシは、ぽつりとそう呟いた。