コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
結局のところ何が起こったのか。ユカリとパディアとビゼは主を失ったネドマリア邸の噴水のそばで話し合う。グリュエーの立てる涼し気な波を見守りながらあの夜を思い出す。
ショーダリーによる人攫い、人身売買については全て運営委員会に引き継がれたので、何か手がかりはないかと、この屋敷にやってきた。
しかし屋敷の中にめぼしい情報は何もなく、彼女が一人暮らしだったらしいことしか分からなかった。肖像画などから優しそうな両親やよく似た姉か妹がいたらしいことは分かったが行方は分からなかった。
あの夜に起きたこと、ユカリたちが知ったことはとても多い。ショーダリー委員長と魔法使いネドマリアの失踪。ショーダリーによる人身売買疑惑。売買するために集められていた子供たちの失踪。ワーズメーズの巨人像が操られ、暴れ、どこかに立ち去ったこと。
問題は、ユカリが迷いの呪いを払ったことで、それ以外にもさまざまな異変があの夜にあったために、どれが公邸で起きたことに関連しているのか分かりにくい点だ。
呪いを払ったことでワーズメーズにもたらされた良いことをいくつかあげて、パディアはユカリを慰めたが、少しもユカリの心の中の霧は晴れなかった。
「何より、みんなの様子がおかしかったです」とユカリは呟いた。「まるで人形遣いの魔法に操られているみたいで」
ビゼが頷いて肯定する。「十中八九そうだろうね。まず間違いないと思う。問題は誰が操っているのか、ということ。そしてネドマリアやショーダリーは無事なのか、ということ」
「それって、つまり」ユカリの声がしぼんでいく。
人形遣いの魔法は、あくまで人形のように無抵抗なものしか操作することは出来ない。赤ん坊でも抗うことが出来る。
「ああ、つまり亡くなっている可能性もあるということだね」
足の先を冬の川に浸した時のようにユカリは寒気を感じた。
「ビゼ様」とパディアがたしなめる。「別に決まったわけではないです。あの勇気の魔法を使って無抵抗にしている可能性の方が高いでしょう? ショーダリーに関してはそういう風に見えましたよ」
「まあね。ネドマリアに関しては本当に奴隷商だったのか、という点も含めて確実には分からないね。ショーダリーも騙されていたようだし、近づくための小芝居だったのではないかと思うけど」
ユカリは噴水の縁に座り、小さなため息をつく。
「ユーアも、というかクチバシちゃん人形も。様子がおかしかったです。あれは独り言じゃなくて会話でした」
日に日に夏の太陽はその勢力を増すが、噴水のそばはグリュエーの戯れもあって涼しかった。六月の美しい庭の隅の水蝋樹は濃い緑の内に可憐しい白い花を点々と咲かせている。芝生は織られたばかりの絨毯のように輝かしく、雨が降ったばかりのように瑞々しく、噴水の女神像の濃く小さな影を映し出していた。
それに対して主を失ったばかりのこげ茶色の煉瓦の館は、ずっと昔から廃墟だったように、ユカリには見えた。山積様式でありながら整然とした建築も壁を這う木蔦も、愛する主人を失って活力と美しさが抜け落ちたように色褪せていた。夏の空を映し出す青い窓は泣いているようだった。
寂しげな沈黙を割るようにユカリは切り出す。
「とにかく早く追わなくてはいけません。ユーアたちが何するつもりか分からないけど、放ってはおけない。それに魔導書も集めなくてはならないし」
「だけど、やらなければならないことがもう一つある」とビゼは人差し指を立てて言った。「この街の建て直しだ。少なくとも迷わずの魔導書が失われたことはすぐに広まる。勇気を奪う魔法の魔導書が失われたことは委員会が出来る限り隠蔽するだろうけれど噂は立つだろうね。ミーチオン都市群内での政治的立ち位置が大きく変動するのは必至だろう。すぐに委員会からの召喚命令も出るだろう」
「ああ!」とユカリは嘆息を漏らす。「すみません。自分のことばかり。そもそも考えなしに魔導書を回収したのは私なのに。私もお手伝いします」
「いいや」とビゼは首を横に振る。「言ってはなんだが、ここで君に出来ることはない。それより魔導書だって放っておくわけにはいかないし、そちらに関しては君にできる事が沢山ある。パディアの回復を待って、魔導書を追ってくれ」
「え?」ユカリはパディアの方を向く。パディアはビゼを睨みつけていた。「パディアさん。どこか怪我をしたんですか?」
とてもそうは見えなかった。彫刻のように際立った肉体は夏の光と影によって、人でありながら荘重さを帯びていた。
「大した怪我じゃないわ。ネドマリアに、ちょっと不意を突かれただけ」
「何で教えてくれなかったんですか?」
「心配させるかと思ってね」
「心配してはいけないんですか。友達だって言ったのに」
パディアは大きなため息をつく。
「ねえ、ユカリ。そっくりそのまま返させてもらうわ。助けるのに躊躇いはない、なんて言われてはね。心配するなというのが無理な話よ。そうね、この怪我だって、友人を助けるのに躊躇わなかった結果よ。返り討ちだったけどね」
ユカリは自分の愚かしい行いに気が付かされた。自身がユーアを心配したのと同様に、パディアとビゼは自分を心配してくれていたのだ、と気が付いた。
「ごめんなさい。パディアさん。ビゼさん。私、自分のことばかりで。ご心配をおかけしました」
「いいのよ。責めたいわけじゃない」とパディアは優しく言う。「いくら最大級の魔法を所持しているからといって絶対に安全というわけじゃないわ。忘れないで」
ユカリはこくりと頷き、真摯な眼差しを真っすぐにパディアに向ける。「はい。決して忘れません」
立ち込めかけた沈黙をビゼが取り払う。
「それじゃあ、さっきも言ったけどパディアの回復を待って……」
「いえ、回復しようがしまいがビゼ様のそばを離れるつもりはありません」
ユカリもビゼも目を見開いてパディアを見ている。先に口を開いたのはビゼだ。
「いや、パディア、僕に関しては心配なんていらないよ。僕も君もやるべき事をやらなくてはならない」
「そもそも」とパディアは巌に言い張る。「ユカリに比べればビゼ様の方が心配です。少なくともユカリは自分の鎧に閉じ込められるような間抜けではないので」
「ひどい言い草だ」とビゼは嘆く。
微塵も意志を変えるつもりがないことがユカリには分かったので、パディアに助け船を出す。
「それならパディアさんはビゼさんといるべきです! ビゼさんは私のことを恩人恩人と繰り返しますが、そもそもパディアさんがいなければビゼさんは今でも鎧の中のはずです! だからパディアさんもビゼさんの恩人です」
「手厳しいね」とビゼは少しばかり項垂れた。そして顔をあげ、パディアとユカリを見る。「だが、その通りだ。分かった。ユカリさん。君に従おう。だが決して無茶はしないでくれ」
「ありがとうございます。それに私には風がついています」ユカリがそう言うと、ビゼとパディアは辺りを見渡した。二人をくすぐるように風が吹きつける。
何度かその存在について二人には伝えたが、ユカリを通じての交流も少なく、彼らにはまだ実感がなかった。
「心配はいりません、とはもう言いません。沢山心配してください。がっかりさせないように気をつけます。それに私が最もこの街に責任があるのに、私はユーアを追いたくてたまらない。だからお二人にお願いします。私の代わりにこの街を助けてください」
パディアが眉根を寄せて、しかし微笑みを浮かべる。「ありがとう。ユカリ。本当にごめんなさい。私にはこんなこと言う資格ないかもしれないけれど、無理はしないでね」
「ユカリさん」とビゼが言う。「ユーアの件がどうなるにせよ、君は魔導書を集めるのだろう? 僕が紹介できるもう一人の魔導書所有者は都市国家ヘイヴィルにいる。そこの執政官だ。僕らはことが終わればそちらに向かう。君も良い時期に立ち寄ってくれ」
「はい。必ず」
「それじゃあ、深刻な話は終わりってわけだ」とビゼは微笑む。「もう昼過ぎじゃないか。何か食べよう。いつ出立するにせよ、明日以降だよ。ワーズメーズには色々と美味しくて不思議な食べ物があるんだ」
三人は今なお迷宮として佇むワーズメーズの街に繰り出した。もはやそこに迷いはない。