午後の太陽は悠然と輝きを放ち、世の始まりより譲らざる玉座に相応しい権勢を誇っている。しかし地上に広がる野原には、幼子のように無邪気な雛菊が可憐に咲き乱れ、清らかに透き通る小川がさやさやと流れていた。地上に降り注ぐ輝きは長閑な風に誘われて、牙を抜かれた子犬のように草原に戯れている。
人間がまだ精霊と同じ言葉を喋っていた古い時代には吹き渡る風と流れる川と罪なき仔馬を愛する美しい人々が生きていた野原であり、それに相応しい輝かしき名前を抱いていたが、長く早い年月が過ぎ去る人間による土地の奪い合いの果てに、今となってはミーチオン地方の一部に過ぎない薄ぼんやり草原と呼ばれるに至った。
ユカリは小川の流れに沿う無花果の小さな木立で仰向けに寝転んで、休んでいた。木漏れ日に目を細め、眉根を寄せる。
果たしてどうするべきか、とユカリの心の中で密やかに呟く。
大して甘くない無花果の果実を食べ終えると、手慰みに手折った花で作った花冠を、片腕を失ったクチバシちゃん人形にかぶせる。なかなか似合っていると思い、ユカリは微笑む。
「グリュエーはやっぱり普通の風と違うように感じるね」と、唐突にユカリは空中に語り掛けた。「もしかして偉大なる妖精王の使いだったりしない? もしくは《時》の駆る猟犬の末裔? それとも世界を挟んで流れる川の大海の尖兵かな?」
「野原を駆ける緑風、遥か西方へ至る者、魔法少女と使命を携える風、グリュエーの名を背負う者」と、グリュエーはいつものように繰り返した。
「それね。そこら辺の風はどこそこを駆けるとか使命を携えるとか、そんなこと喋らないもんね。気持ちいいね、とか。暖かい日よりだね、とかだよ。何というか自由で呑気な風ばかり」
「グリュエーはグリュエー。そこら辺の風とは一味違う」
「そうだね」ユカリは鷹揚に頷く。「例えば荒れ狂う嵐や暴れ回る竜巻なんかに話しかけてみたいな。きっと傲岸不遜な空の王って感じに違いないよ。グリュエーなんて掻き消されちゃうかも」
グリュエーが返事をしない。
「何? 怒ったの?」と言ってユカリはのんびりと起き上がる。
するとちょうどユカリの視線の真っすぐ先に、砂埃を蹴立てて走り回る数頭の馬とそれらに囲まれて一塊になった数台の荷馬車があった。平原を行く隊商のようだ、とユカリは見立てる。
馬の乗手が脅すように大袈裟に剣を抜き放つと、昼間の陽光を反射してちかちかと瞬く。不躾な騎馬は円を描くように、荷馬車とそれを守ろうとする人々の周りを巡っている。囲まれている方にも剣を抜いて構えている者が何人かいる。皆がわあわあと何かを喚いて、罵りあっている。
「野盗かな。行ってみよう。グリュエー」
ユカリは【微笑み】と共に魔法少女に変身する。
「いい? グリュエー。何度も言うけど、何度でも言わせてもらうけど、風っていうのは吹く方向が大事なんだよ。追い風と向かい風では全く役目が変わるわけ」
「もう分かってるよ。杖を向けた方向。追い風に向かい風。突風に旋風」
「そういうこと。じゃあよろしく頼むよグリュエーちゃん」
「よろしく頼まれたユカリちゃん」
ユカリは猛る追い風を率いて野原を大股に駆け抜ける。グリュエーが威嚇的に土ぼこりを舞い上げる。しかし野盗たちはまだユカリに気づいていない。
囲まれている人々をよくよく見ると普通の隊商ではないことにユカリは気づく。年若い人物が多いが、子供や老人がいる。隊商にしては女の数も多い。一人だけ革鎧を身につけている青年がいて、彼はなかなか様になっているとユカリは評した。
青年は突進してきた馬を避けざまに斬り、落馬した乗手に素早く近づくと、その喉笛を掻っ切った。しかしすぐに別の野盗に肩口をざっくりと斬られて倒れてしまった。
それを見た他の者たちは観念したようだった。剣を放り捨て、両手をあげている。輓具を壊されたのか、荷馬車の馬が鬣を振り乱して逃げ出している。
「まだ遠い?」とユカリ。
「もう届く」とグリュエー。
「ようし! 吹き飛ばせ!」と言って魔法少女ユカリが紫水晶の杖で指し示すと、グリュエーは猛然と野原の草と花々を薙ぎ倒し、直線上の全てを吹き飛ばしてしまった。「野盗だけって言わなかった?」
「言わなかった」
少し言い合いをしながら、無辜の草花にグリュエーが刻み込んだ道を走り抜ける。
何はともあれユカリは感謝された。野盗以外も何人か吹き飛ばしてしまったが、擦り傷を作った程度で済んだ。
彼らは隊商ではなく放浪楽団だった。彼らは、栄えある都市から花めく都市へ、賑わう港から時めく港へと旅し、劇や楽の音などのさまざまな芸で日銭を稼いで暮らしている。どこの土地にも居て、どこの土地に行っても、それなりに喜ばれ、それなりに煙たがられる存在だ。
「ありがとう。助かった。ああ、お嬢さん」革鎧の男はユカリに感謝し、返り血を拭うと形式的に握手をした。「俺の名は柳。この放浪楽団が平原を通り抜ける間の傭兵として雇われている」
乱れた赤毛に焼けた肌。それなりに引き締まった体だが、まだ二十にもならない若者だった。
「傷は、大丈夫なんですか?」
ハルマイトの肩口から赤黒い血が湧き水のようにどくどくと流れ出している。少し顔が青白くなっている。
「いや、大丈夫じゃないな。左肩で良かった。俺は右利きだからな。何か処置できる魔法はないか?」
治癒に関する魔法を扱える者は他にいなかったので、ユカリはハルマイトの傷口を止血し、備えの薬草を使った。義母に教わったささやかな呪術の内の一つだ。
「傭兵ですか。一人でですか?」ユカリは薬草を潰して貼り付け、布で巻いた。「多勢に無勢といった感じでしたが」
ハルマイトは少し不満げな顔で答える。「まあな。傭兵だって金がかかる。俺たちを助けてくれたのだって、この治療だってそうだろう?」
ユカリは別に金をとるつもりではなかったが、しかし貰えるものは貰っておくことにした。
「命はお金で買えませんよ」
「普通はそうだな。だが、俺にも彼らにも誰にだって事情があるってことだ。あんただって何かあるんだろ? 才気ある魔法使いとはいえ、若い女の一人旅に大した事情がないとでも?」
才気ある魔法使いなどではないが、ユカリはあえて否定しないことにした。
「まあ、そうですね」とユカリは視線をよそに向ける。視線の先で楽団の人々が拘束した野盗から奪える物を奪っていた。「海より深い事情があります。海は見たことないですけど」
「あんたにも分け前はあると思うぜ?」
ハルマイトの言っている意味を理解して、ユカリは強奪から目をそらし、ハルマイトの肩口の布に目を戻す。「別にそういうつもりではないです。ただ、野盗をやっつけたんだか、助けたんだか分からないなって」
ハルマイトが皮肉っぽく笑う。「まあ、そう言ってくれるなよ。大切な物を奪われたくない。欲しい物は欲しい。それだけさ。既にこちらにも損害が出ているしな。俺の肩もそうだ。馬は……逃げてないか、むしろ増えたな。とはいえ正当な権利だとは思うが、止めるか? 恩人のあんたになら渋々でも従うかもしれん」
「いいえ」と言ってユカリはハルマイトの傷口をつつく。「私だってただで魔法を施した訳ではありませんし」
ユカリは悶えるハルマイトを横目に楽団の長である初老の男巧妙な手と交渉した。何故かそこにハルマイトも加わる。どうやら自身の取り分について懸念を感じたらしい。楽団には余分な持ち合わせが無いし、ユカリは馬などいらなかったので今晩の美味しくて楽しい食事で手を打つことにした。