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事務所を後にして、東京駅近郊のオフィス街を歩く。
昼前、スーツ姿の人間たちが小走りに行きかい、ガラス窓には仕事に追われる顔が映っている。
――場違いだ。
ライブハウスや酒場の空気しか似合わない自分が、こんな場所に立ってること自体が。
さっき社長に突き刺された言葉。
若井と涼ちゃんの、真剣な顔。
――そして。
あの夜、腕の中から消えた“あの女”の横顔。
頭の奥で、ずっとざらついていた。
駅まで歩く途中、喫煙所の灰色のスペースに立ち寄る。
火をつけ、深く吸い込む。
肺に重さを溜めながら、目の前のガラス張りのビルの出入り口をぼんやりと眺める。
……その瞬間だった。
自動ドアが開き、人の流れの中から――ひとりの女が現れた。
黒い髪はゆるくまとめられ、頬にかかる後れ毛が昼の光に揺れる。
夜に見た、泣き顔や潤んだ唇とはまるで別人。
ナチュラルな化粧に、白いタートルネック。
黒のフレアスカートに、低いヒールのパンプス。
小脇に財布を抱えて、きちんとした足取りで歩いていく。
――間違いない。あの女だ。
胸の奥に、焼けつくような確信が走る。
「……みつけた」
喉の奥で呟き、タバコを灰皿に押し潰す。
白い煙が散ると同時に、足が勝手に動いていた。
女の背中を視界から逃さないように、雑踏へ紛れ込む。
昼の街のざわめきなんてどうでもいい。
――今はただ、あの女を追うことしか考えられなかった。
人はまだらに行き交っている。
その背中だけを目で追い、気づけば歩幅を早めていた。
伸ばした手がようやく届き、細い手首を掴む。
「っ――」
驚いたように振り返る。
黒目がちの瞳が大きく見開かれ、唇がかすかに震える。
「……なんで……いるの?」
昼の光の下で見るその顔は、夜に泣き濡れていた時とはまるで違う。
「なんでもいいだろ。……話がある」
低く押し殺した声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「はぁ……」
女は小さく息を吐き、視線を逸らす。
「仕事中だから今は無理。それに……離して」
周囲の視線を気にするように、眉を寄せる。
スーツ姿の人々のざわめきの中で、自分と女だけが異物のように浮き上がっていた。
「……何時に終わる?」
「……17時」
観念したように小さく答える声。
「なら――迎えに行く」
短く言い捨てると、女は何も言わず背を向けた。
ヒールの音が小さく遠ざかっていく。
残されたのは、まだ熱を帯びる自分の手のひら。
掴んだ感触が消えずに残り、胸の奥をざわつかせていた。
17時15分前。女の会社の近くの駐車場に車を停めた。
時間が進むのが、やけに遅い。
シートに沈みながら煙草を吸っても、落ち着くどころか指先がそわついて仕方なかった。
火のついた煙草が短くなるたび、灰皿に押しつける音がやけに大きく響く。
17時を少し回った頃。
ざわめきと共にビルの出入り口から人の群れが流れ出す。
その中に――いた。
夕暮れの光の下、昼間と同じ姿で歩いていく。
背筋を伸ばし、何かから必死に逃げるように速足で。
胸がざわついた。
思わずドアを開け、車を降りていた。
背中を追い、数歩で距離を詰め、声をかける。
「……よお」
女が小さく息を呑み、驚いた顔で振り向く。
「ほんとに……来たの?」
その問いに、笑いもせず答える。
「迎えに行くって、言ったろ」
観念したような顔。それでも、瞳には強い拒絶の色が残っていた。
「……話すことなんて、ないよ。私は」
「いいから」
短く言い捨て、女の肩から下がる仕事用のトートバッグを乱暴に奪い取る。
驚いて固まったその隙に、細い手首を掴んだ。
温度と脈が指先に伝わる。
――逃がさない。
「……っ、放してよ!」
女は必死に腕を振りほどこうとする。
周囲に人の気配はある。けれど誰もこちらに深入りしようとはしない。
スーツ姿の群れはただ流れていくだけで――この異物の空気を見て見ぬふりをしている。
「静かにしろ」
低く押し殺した声で言い、掴んだ手首をさらに強く引いた。
肩から奪ったトートバッグを片手に持ち、もう片方で細い腕を逃さず引き寄せる。
抵抗の声が喉まで出かかっては飲み込まれ、結局女はついてくるしかなかった。
駐車場に停めた黒い車の前で足を止める。
「……乗れ」
「いや……無理だよ、私……」
かすれた声。視線は地面に落ち、足は震えていた。
「……いいから」
ドアを乱暴に開けると、女の肩を押して半ば強引に助手席へと座らせる。
小さな抵抗は、金属音を立てて閉じられたドアにかき消された。
運転席に回り込み、ドアを閉める。
車内に沈むのは、女の震える息と自分の荒い呼吸。
「……逃げんなよ」
エンジンをかけながら低く吐き捨てる。
車内はエンジン音だけが低く響いていた。
重たい沈黙に耐えきれず、口を開く。
「……名前、なんていうの?」
女はしばらく唇を噛んでいたが、観念したように小さく答えた。
「……るか。――相良、琉花(さがら、るか)」
その声音は諦めと恐怖の間で震えていた。
「へぇ……るかちゃん、ね」
名前を噛みしめるように繰り返す。
舌のピアスがカチャリと鳴った。
その金属音が、自分の中の支配欲を肯定するみたいに響く。
――やっと手に入れた名前。呼ぶたびに縛れる気がして、胸の奥が熱くなる。
信号が赤になり、車が止まる。
「で? なんで逃げたんだよ」
鋭く問いかけると、女は肩をすくめ、小さく首を振った。
「……抱かれたく、なかったから」
その瞬間、声が途切れる。
下を向き、ぽたりと涙が膝の上に落ちた。
その音がやけに大きく響いた気がして、胸の奥がざわつく。
「……は?」
思わず声が漏れる。
まさか、普通に泣くなんて思ってなかった。
「……泣くなよ」
掠れた声で吐き捨てながら、ダッシュボードに手を伸ばす。
取り出したティッシュを乱暴に膝の上に置いた。
「……ほら」
女はおそるおそる手を伸ばし、鼻をすすりながら涙を拭う。
その仕草を横目で見ていると、胸の奥に妙な焦燥が広がって落ち着かない。
信号が変わり、車を走らせると、視界にコンビニの看板が飛び込んできた。
急にハンドルを切り、駐車場に車を滑り込ませる。
「……待っとけ」
ドアを乱暴に閉めて外へ出る。
数分後、コンビニの袋を片手に戻ると、女はまだ下を向いたままだった。
運転席に乗り込み、中から取り出した暖かい紅茶のペットボトルを差し出す。
「……ほら、これ。」
両手で受け取った女は、驚いたように瞬きをした。
「……ありがとう」
その声を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
――なにしてんだ、俺。
女、泣かせてまで捕まえて。
欲しかったのはこんな顔じゃないのに。