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翌日。
具現化してしまった空色のことをぼんやり考えていたら、昼休憩時に彼女から連絡があった。
一瞬、ドキッとした。まさか俺の正体に気づいて、旦那に内密で電話を――?
「はい、新藤です」
とりあえず電話に出た。心なしか動悸が早くなっている。
落ち着け。もし俺の正体が白斗だと聞かれても、とぼけ通せばいい話。
「荒井です。先日はありがとうございました。工場見学、楽しかったです」
「ああ、律さん。こちらこそ沢山お話が出来て、本当に楽しかったです」
昨日の謝礼だったことを聞いて胸を撫でおろした。俺の正体を知って欲しいけれど知って欲しくない、自分でも不可思議な感情に見舞われた。
『新藤さんが担当してくれるなら、是非大栄建設でマイホームを建てたいと、二人で決めました。これから宜しくお願い致します』
ほっとしたのも束の間、今度は複雑な気分になった。
これで大栄を辞められる――嬉しいはずやのに手放しで喜べなかった。
住宅の担当をすれば、これから頻繁に彼らと会うことになる。彼女が旦那と仲睦まじい様子を見せつけられる。
嫌やな。断りたい。でもそれは絶対に言えない。
仕方なく自分の感情は飲み込んだ。空色には関係のない話だから…。
『左様でございますか。誠にありがとうございます。それでは詳しい資料などをご自宅にお持ち致します。確かご住所は大開通(だいかいどおり)で御座いましたよね?』
「はい」
大栄建設から兵庫区大開通までは結構近い。車で十分ほどの距離。
自宅へ行ける時間を告げて電話を切った。半端なく重い溜息が出た。
家の契約が取れたことを報告し、担当の案件をこなして書類をまとめ、約束の時間に空色の自宅へと向かった。
車を走らせると綺麗な街並みが左手に見える。すぐ横がハーバーランド。
生まれ育った大阪の下町とは違って神戸はハイソな顔をしているが、すぐ近くにディープゾーンもある。美しい表面のすぐ横で小汚い男が寝泊まりするような公園や高架下がある不思議な街。表裏一体で人間模様が浮き彫りになったようなこの神戸が、俺は好きや。
今は俺もハイソ側の人間みたいになっているけれど、それは単にRBでの成功があったおかげ。ブランド品を身に着けて高級車に乗るのは、客受けが悪いから使っているだけで、俺は一切興味がないし、魅力も価値も見いだせない。
もう早く引退して、誰も俺がRBの白斗だと気が付かないような廃れた町のライブハウスでピアノ弾いて、スタンダードなジャズやオリジナル曲でも歌っておきたい。無名のシンガーを使ってくれるライブハウスを探してみようかな。
とはいえブランクがあるから、まずはピアノも歌も練習から。それこそ元RBの白斗とか言えば簡単に使ってもらえるあもしれない。でも、そういうことはしたくなかった。捨てた名声にこれ以上振り回されたくない。
これからは俺を必要としてくれる誰かのためだけに歌いたいと思っていたのに、空色が俺の前に現れてしまったから、辛い白斗時代を思い出して歌うことが嫌になったことを思い出す。
お前がくれるファンレターを心待ちにしていた日々のこと。消印が神戸だったから、いつか偶然どこかで会えるかもしれないと、大栄建設の神戸営業所を選んだ。
俺が白斗という仮面を脱いだ日から六年も経った今、どうしてお前と出会ってしまったのか。
日に日に想いが募っていく。苦しくなる。
だから今すぐお前に文句言ってやりたい。
俺をあんなに愛してたのに、なんで他の男と結婚してるんや、って。
記載のあった住所に到着した。大開通に面した大きめのマンション。こんなにすぐ近くにお前はいたなんて。
「こんばんは、律さん。遅い時間に申し訳ございません」
早速奥のリビングに案内された。大人が二人で向かい合ったらいっぱいの小さなガラステーブルに持参した書類を広げた。いい香りの珈琲を出してくれた上にケーキを勧められた。
「お気遣いありがとうございます。折角なので遠慮せず頂きます」
俺はケーキよりもお前が作った激堅クッキーの方が嬉しいけどな。
「これからよろしくお願いします。マイホームなので、色々と楽しみです」
「はい。こちらも全力でお手伝いさせていただきます」
微笑んでみたもののやはり胸中は複雑で仕方ない。文句のひとつでも言ってやろうかな、と思っていたら空色が旦那から預かったと言って俺にCDを渡してくれた。音源を交換しようという約束を果たしてくれたのだ。
俺も同じように旦那に渡しておいてくれと、持参したCDを渡した。
空色は嬉しそうに俺が渡したCDのラベルを見つめていた。早速動画サイトで見ると言っている。俺がお薦めしたのは、激しく低音の効いたバックに透き通るような女神の歌声が響く、シンフォニックメタルバンド。最高にかっこいい。
海外のメタルバンドは、日本の音楽と違って技術が巧いのは当然だけど、歌の響き自体が違う。楽器もそう。プロフェッショナルなメンバー同士が集団と成しているからいい音が出る。
日本のアーティストが海外で成功しにくいのは、本場の音楽が素晴らしすぎて太刀打ちできないからだ。俺も惨敗するのは目に見えていたから、海外進出はやめたけれど……ああ、でも海外っていいかも。
小さなライブハウスで誰かのために曲を作って歌う――そういうのがいい。場所はどこでもいいから、俺を認めて必要としてくれるライブハウスに骨を埋めたい。
この契約が無事に終わったら海外に行こうかな。
それにしても契約前にCD交換が先というのは前代未聞だった。彼らとはもっと別の形で出会いたかったと強く思う。
CD交換も終了したので仮契約の為の書類を見せて説明し、同意のサインを書いてもらった。
書類を見て彼女が空色に間違いないと確信する。
何度も見たファンレターの字。配偶者・荒井律と書いたその『井』の字と『律』の字のはね方が、空色の字と同じだった。