テラーノベル
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こじんまりとしたバーカウンターは、木の香りが上品に漂っていた。
部屋の後方にある暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜ、そのたびに小さな火の粉が舞う。
外では相変わらず雨が降り続いているというのに、ここだけは別世界のように暖かかった。
オーナーが作ってくれたのは、蜂蜜とレモンを使った温かいカクテルだった。
白いカップから立ち上る湯気と一緒に、甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐる。
冷えた廊下を歩いてきた身体には、それだけでも心地よかった。
「美味しい……」
一口飲む。蜂蜜の優しい甘さが舌に広がったあと、レモンの爽やかな酸味が追いかけてくる。
喉を通った瞬間、身体の内側からぽっと温かくなった。
「山の夜には、こういうお酒が合いますね」
隣に座る朝倉くんも、同じカクテルを飲んでいる。
カップを傾ける仕草も、穏やかに笑う表情も、いつもと変わらない。
「ええ。本当に美味しいわ」
オーナーが作るお酒は最高に美味しかった。
けれど、私はあえて度数の弱いものをお願いした。
今の状況で酔うわけにはいかない。
朝倉くんと二人きりで、しかも同じ部屋に泊まることになっているのだ。
雰囲気に流されて理性を失うなんて、絶対に避けたい。
甘くて温かいカクテルを少しずつ口に運びながら、私は自分の意識をしっかり保っていた。
朝倉くんも同じペースで飲んでいる。
それなのに、彼のテンションはまったく変わらない。
酔っている様子もなければ、妙に距離を詰めてくることもない。
そのことに、私は少しだけ安心していた。
そんな時だった。
「李人くんは、留学に行かれるんですか?」
突然、彼の口から出た言葉に、私は目を大きくした。
「なぜ知っているの?」
「瞳子さんが、資料室で『留学費三百万円』って呟いていたので」
「違う、李人って名前をなぜ知っているの?」
私は朝倉くんに家族の話をした覚えがない。
思わず彼の顔を凝視すると、なぜか視線が少しだけ泳いだ。
「……水谷さんと三田さんが話していたんです」
「あの二人が?」
「ええ。『瞳子さんは弟の李人くんのためにしか有休を使わないよな』って。その李人くんのことですよ」
そう言って、朝倉くんはにこりと笑った。
「ああ……」
その通りだ。
私はこれまで、李人の学校行事や体調不良の時にしか有給を使ってこなかった。
それが当たり前になってしまい、今では自分のために有給を消化することすら、なんとなく落ち着かない。
「実はね……弟が留学したがっているの」
「……ほう」
朝倉くんが静かにカップを置いた。コトン、と小さな音が響く。
「まだまだ子供だと思っていたのにね」
私はカップの中で揺れるレモンをじっと見つめた。
薄く輪切りにされた黄色い果実が、ゆっくりと水面を揺れている。
「引きこもりだった李人くんが、自ら申し出たとは。感慨深いですね」
しみじみと呟く朝倉くんに、私は弾かれるように振り向いた。
「引きこもりのこと、水谷さんたちも知らないはずだけど?」
李人のことを、外で詳しく話したことはないはずだ。
いや……十年近く昔の話なのだから、一度くらい誰かに漏らしてしまった可能性はある。
「……あの二人が話しているのを、小耳に挟んだような……」
また、彼の視線が泳いだ。
なんとなく引っかかったけれど、今はそこを追及する気力もなかった。
「それはいいとして、瞳子さんは李人くんを応援するんですよね?」
朝倉くんが、私の顔を覗き込む。
「……まあ」
すぐに答えられなかった。
「何か気になることでも?」
穏やかな声だった。
私は少しだけ逡巡してから、ゆっくり口を開いた。
「さっき、弟と電話をした時にわかったの。私が留学に賛成していないことを、李人は気づいている」
自分の声を聞きながら、胸の奥が重くなる。
「その理由が……私が李人と離れたくないからだってことも」
口に出している自分が、情けなくなってきた。
自分が受け入れればいいことなのに。
弟の夢を応援してあげればいいだけなのに。
それができない。
「瞳子さんが、李人くんと離れたくないんですか?」
朝倉くんが少し驚いた顔で尋ねてきた。
私は小さく息を吐く。
「私は、李人の世話をするために生きてきた。あの子がいなくなったら、生きがいを見失う。私はきっと、それが怖いのよ」
気づけば、カップを握る手に力が入っていた。
「弟が……それに気づいて、私のことを心配してくるのよ。立場が逆転して、情けないわ」
今まで自分でも、はっきりと言葉にしたことがなかった。
ようやく自分の気持ちを言語化できた気がする。
気持ちを整理できたことで、少しだけ胸が軽くなった。
その一方で、現実を受け入れる時が来たのだと実感して、苦しくもなった。
俯いたまま、私は視線を上げられずにいた。
「李人くんは、瞳子さんの頑張りを理解しているんですね」
「……え?」
思わず顔を上げる。
朝倉くんも、まっすぐ私を見ていた。
「瞳子さんを解放するために、李人くん自ら親離れを選んだのではないですか?」
「あー……」
カップの中で、レモンがポチャリと沈んだ。
その音と同時に、朝倉くんの言葉が私の胸の中に落ちてくる。
「親離れを選べた李人くんは、素晴らしいです。それは、瞳子さんが立派に育て上げたという証拠でもありますよね」
朝倉くんは、本当にすごい人だ。
子離れできないと責めるのではなく、子育ての成功だと言い換えてくれる。
「……つまり、私も子離れしなさいってことね。あの子のためにも」
李人の一人立ち。
これは、私がずっと望んでいたことじゃないの。
目標が達成できたのだから、心から喜んであげないと。
「今の私がやるべきことは、夢に向かうあの子の背中を押してあげること。それだけなのよね」
泣きそうになるのを、唇に力を入れてぐっと堪える。
すると朝倉くんが、いつもの穏やかな表情で私を見つめた。
「いつも優しく見守って、必要な時に背中を押してくれる。そんな瞳子さんが、僕も好きです」
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#逃げられない