コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
京本大我
今日もまた一人、ホスピスに入っていた患者さんを看取った。
だからいちいち悲しんでいる暇はないのだけれど、やっぱり佐伯さんのことが頭から離れなかった。
佐伯さんは息を引き取る直前、動かない唇を動かそうとし、かすれる声を精一杯出してこう言った。
「本当にどうもありがとうございました」
絶え絶えではあったが、優しくて力強い、彼女らしい言葉だった。
ありがとう。この5文字なら、よく最期のときに聞く。簡単というか、心のこもった一番短い言葉のように思う。もちろんそれでも十分だ。
でも佐伯さんは、身体にほんの僅かに残っていた気力を全部振り絞り、5文字以上の思いを丁寧に丁寧に口にしたように感じた。
あの言葉は、僕ら医療従事者に向けられたものにも、今までの、そして今の自分に向けたものにも思えた。
自分も含めたみんなに感謝して旅立つ。彼女なりの、ものすごく美しいいき方だった。
すると、誰かの呼ぶ声で一気に現実へ引き戻される。
「京本先生お願いします」
「え、あ、はい」
慌てて立ち上がると、医局の入り口にはジェシーがいた。
「どうしたんですか」
「内科の肺がんステージ4の男性が緩和ケアを希望してるんですけど、受け入れられますか?」
「ああはい、ちょうどベッドが空いたので大丈夫です」
と言ってから、思わず吹き出す。「ははは笑」
「おいなんだよ、ただ転科の依頼に来ただけなのに笑われるなんて」
「いやごめん、ちょっと仕事とプライベートの関係との切り替えができなくて敬語になっちゃった」
「俺もつられたよ、AHAHA!」
「しー、うるさい」
人差し指を唇に当て、注意すると大人しく口をつぐんだ。
「あ、そうだ。ここからはプライベートの話していい?」
ジェシーはちょっと声のトーンを落として言った。「うん」
「朝慎太郎から連絡きて、今週らへんでみんなと飯行ける? って」
「おおいいね。ちょっと待って、シフト見る」
最近は働き方改革が進んできたおかげで、休日はほんの少しだけ増えた。でも患者には休みなど関係ないから、呼び出されることもしばしばだ。
「今週末空いてる」
「俺も! たまたまだね。オッケー、伝えとく」
じゃねっ、と足取りも軽快に歩いていった。
ジェシー
慎太郎が指定した居酒屋は、病院に一番近いところだ。それは、万が一誰かが呼ばれたときのため。でも一応当番が決まっていて、今夜は誰も当たっていないからたぶん大丈夫だ。
のれんをくぐると、隅のほうのテーブル席に慎太郎と大我、北斗、高地が来ていた。もうグラスが置かれている。
高地「おっ、来たきた。座りな」
「樹は? 今日当番じゃないんでしょ?」
慎太郎「そのはずなんだけどなー。連絡つかなくて」
「え、大丈夫なの?」
大我「さあ…」
飲み物を頼み、話に花を咲かせていると、北斗が声を上げた。
「おー樹。遅かったな」
樹「ごめん、ちょっと処置が長引いて…。終わって連絡するのも来たほうが早いと思って」
高地「重症?」
樹「うん、まあまあ。でも落ち着いたし、全身管理は任せてよさそうだったから」
大将が樹の分のビールも持ってくる。「みなさんお医者さまですか?」
慎太郎「ええ。たまたま空いてたので」
「いいですねえ。ドクター仲間がたくさんいて」
たまに慎太郎と一緒にここに来るとき、大将は慎太郎や僕を『ドクター』と呼ぶ。要するにここにやってくる医師は全員ドクターなのだろう。
「っていうか、思い出せばここにいる6人みんなが佐伯さんと関わってたって、すごいよね」
北斗「だな。最初は樹が救急で診て、ジェシーが担当医になって、俺が放射線して」
高地「でなんか俺がジェシーに頼まれて話を聞いて」
大我「からの緩和ケアに切り替わって俺が担当して」
慎太郎「俺は担当患者の子どもと遊ぶときの役…?」
樹「なんだそれ笑。…まあでも亡くなったのは自然の流れだから俺らの誰のせいでもないし、本人も満足そうに逝ったからいい大往生だったんじゃない?」
「そうだね」
みんな酔いが回ってきて、静かになる人とよく喋るようになる人と分かれる。俺は自覚はないが、思いっきり喋っているらしい。
「でさ、こないだ久しぶりにERCPしたの。ま、サポート入ってもらったんだけど、めっちゃあたふたしちゃって、怒られたんだよ、AHAHA!」
ERCPとは、内視鏡的逆行性胆管膵管造影という検査のことだ。
慎太郎「そりゃダメじゃん笑」
北斗「うるせえよジェシー。できなかったんなら反省しろ」
高地「まあまあ北斗、あれは内科の専門技術なんだから」
樹「俺医学生のときにちょっとやった記憶があるんだけど、やっぱむずいよね、あれ」
「そうなんだよ…」
と、何やらかばんの中を探っていた慎太郎がとぼけた声を出した。「え、なんで?」
みんなが見ると、なぜか聴診器を持ち上げる。
「これ、持って帰ってきちゃった…」
大我「なんで…」
北斗「なにそのキーホルダー笑」
北斗が見て笑ったのは、慎太郎の聴診器についているクマのキーホルダーだ。小児科は子どものためにこういうかわいいグッズをつけている医師も多い。
慎太郎「笑うなよー。間違えて入れちゃったのかも。明日忘れないようにしないと」
6人が店を出ると、すっかり空は真っ暗だった。街の明かりだけが煌びやかに輝いている。
慎太郎「今日はありがとね、みんな来てくれて」
「ううん」
大我「楽しかった」
北斗「また時間あったら飯行こう」
樹「もちろん」
高地「じゃあ明日も頑張ろな」
6人「またね」
今夜は医師ではなく完全に友達の6人だったな、なんて思った。
明日はまたそれぞれの仕事に向き合う。
夜風に乗って、ふいに桜の香りがした気がした。
佐伯さんは、天国で桜を見れているだろうか。綺麗に咲いていたらいいな。
にこりとほほ笑み、家路へと歩き出した。
終わり