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携帯から流れている曲はゲームのBGMである。
笛をベースにしたオーケストラのゆったりとした曲調で、翠がオンラインで顔も知らない仲間達とよくプレイしていたRPGの村の曲だ。彼女はクエストやボス戦の曲よりも、不安や希望を抱きながら出発した場所であり、悔しさや喜びを抱えながら帰る場所でもあった村の曲がすきだった。
曲に合わせて鼻歌を歌いながら、ストロベリーチョコフレーバーの珈琲を淹れる。外国に住む叔父からもらった。珈琲をマグカップの半分まで注ぎ、牛乳で割ってカフェオレにする。その飲み方がすきだったし、ブラックは彼女には苦くて飲めないからだ。
白い壁に掛けられた時計は20時20分を指している。翠は椅子の上に膝を立て、その膝の上に頬杖をつき、珈琲を啜りながら意味もなく時計を眺めていた。
職場から帰宅し、風呂に入り、軽く夕飯を済ませた後のこの時間が彼女にとって、パンパンにガスが詰め込まれた身体に無数の穴を空け一気に空気を抜くかのように、精神が緩み、無心になれる時間なのだ。翌日も仕事ならこの時間の珈琲はなるべく飲まないようにしているが、明日は休日なので何も考えない。
今週は特に忙しかった。期末だからか片付けなければならないタスクが多くあった。翠は決してタスク管理が下手なわけではない。むしろ一つ一つ丁寧に、要領良くかつ迅速に確実にこなしていた。ただスペースが空くと、途端に周りが仕事を回してくるのだ。彼女はそこに対して特に不満は無かった。不満がないから文句もない。そうすると周りは当たり前のように仕事を回してくる。それの繰り返しだ。
不満はないが、草臥れた。それが彼女の感想だった。ここまで忙しいのは今週までだろう。来週にはきっと落ち着いてくる。
時計から窓の外に視線を移す。見える景色は暗く、ガラスに反射した自分の姿が鮮明に見える。空は灰色の厚い雲に覆われてる。明日は雨だろうか。
2杯目の珈琲を淹れようと腰を上げた時、流していたBGMが切られ、携帯の着信音が鳴った。画面には『三橋』と表示されている。自分の心臓が強く脈打つのが分かる。
「ミツハシ」と彼女はまるで初めて見る文字を読み上げるように、声に出してその文字を読む。2年振りに見たその名前に妙な違和感すら覚える。
15秒程考えてから、ゆっくりと携帯を手に取り取り耳に当てた。
「…はい、もしもし」