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あれから随分日が経った。荒井家の設計は空色の急な妊娠をきっかけに、様々変わることとなった。子供部屋を作りたいとなったために図面からやり直すというハプニングがあった。
彼女は妊娠してから必ず旦那が傍につくようになった。彼女の体調を考慮してのことだろう。家の打ち合わせでさえ、俺とふたりで会うことはなくなった。
最初は苦しかったけれど、それもそのうち慣れて痛みも和らいできた。
お盆すぎまでは設計の件も含めて彼ら夫婦と頻繁に会っていた。しかしそれも設計図が完成すると会う機会はぐっと減ったため、気持ちの折り合いをつけることができた。
年明けに建築中の荒井邸の内部見学で会ったのを最後に、彼女には連絡を取ることもなくなった。
大栄を辞める準備も進んで担当の引継ぎも済ませた。
また日は過ぎ、空色夫婦に物件を引き渡す当日となった。俺の担当する最後の物件。
木枯らしが吹き、底冷えのする寒い朝。完成したばかりの空色の家の前に立った。掃除は工事監督の中森と共に終わらせておいたので、最終チェックのみを行った。本来なら昼以降の物件引き渡しになるが、旦那の都合で前倒しになった。
予定時刻。玄関に立ち、中森と一緒に空色夫婦を待った。彼らは予定通りやって来た。
「この度はおめでとうございます。どうぞお入り下さい」
頭を深く下げ、旦那にオートロックでボタン式の電子キーを渡した。彼に玄関を開けてもらい中に入った。
彼は正式にサファイアのギターとして加入し、いよいよ明後日はメジャーデビューライブを控える身となったのでとても忙しい。家の中を見た後、スタジオへ行くとか。新曲のアレンジにメンバーの折り合いついていないらしく、急遽ミーティングとスタジオ入りをすると聞いた。
大がかりなライブは大勢のスタッフが動いて念入りな準備がされる。照明・音響のタイミングを合わせる作業だけで一苦労するから、最終調整は相当大変だと思う。
旦那の正式加入したサファイアのライブ、見に行きたいからチケットを取ろうと思ったけれどすぐにソールドアウトになった。これから彼もギターで飯を食えるようになるために、がむしゃらに頑張るだろう。
夢に向かって走れるのは、誰にでもできることじゃない。時には運も必要だと思うけれど、実力があってこそ掴んだ道。
俺はもうマイクをステージに置いてきたけれど、長くその業界にいたから裏側もわかる。アーティストとして音楽を仕事にして生きていくのは、華々しいだけではなく本当にしんどい。
サファイアの楽曲は『メタル』というもともと稀有なジャンルなのに、それでもチケットがソールドアウトするほどの人気。全員テクニカル志向だから、曲を売れ筋に寄り添わせることが出来れば、メタルバンドとしてはもちろんのこと、様々な方面から注目されるはず。できれば海外で活躍して欲しいと思う。
日本は音楽業界が今ひとつだから、下手でも少々曲が悪くても知名度があれば売れてしまう。
でも海外は違う。カリスマ性、音楽性、全てを含んで認められなければならない。
RBが――俺ができなかったことを、叶えて欲しい。
彼の大成を心から願った。
意識を目の前の彼らに戻し、どうぞ、と案内した。入ったとたんに空色が興奮気味に喜びの声を上げる。彼らが必死にやり直した設計図通りの三階建ての家は、どうやら満足のいく仕上がりになっているようだ。
キッチンや風呂をチェックしてもらい、三階へ上がった。彼ら夫婦と打ち合わせを何度も重ね、作り上げた空間。この家を引き渡して最終的に一か月後、不備がないかどうかの確認をしてなにもなければ俺の役目は終わる。
彼ら夫婦とは、もう二度と会うことはなくなるのだ。