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キーチェカに促され、肩を押されるようにして半ば強引にユカリは食堂、『微睡み亭』の中へと招待される。
まだ今朝の開店準備もなされていない。とても小さな食堂だ。六つの机と調理場に面した細長い机が一つ、二十六の席がある。床を掃いたのだろうか、背凭れのない簡素な椅子が机の上にひっくり返して置いてある。
それに、料理の仕込みをしていたのだろうか、店内はすでに豪華な皿の上のような馨しい香りが充満している。
キーチェカの祖母らしい老女は店の奥の調理場で何やら棚の上から物を取ろうとしていた。
「ちょ、ちょっとばあちゃん」と言ってキーチェカがばあちゃんの元へ駆けつける。「私がやるんだから、仕込みに戻んなよ」
「よく言うよ。朝からあたしを一人ほっぽって出かけようとしたくせに」
「分かったから、ほら、どいたどいた」キーチェカは祖母の代わりに背を伸ばして棚の上の箱を取り上げる。
キーチェカは小さな箱と杯に汲んだ水を持ってきて、机の上に置く。
「さあ、膝の手当てをするよ。適当に座んな。じっとしててね、全部私に任せてくれたらいいよ」
キーチェカに言われ、ユカリは手近の椅子を床に置いて腰かける。箱の中には綺麗な布や随分高級そうな調合された薬があった。キーチェカは手際よくユカリの膝の手当てを済ませる。確かに慣れた手つきだった。
「はい。おしまい。ん?」立ち上がったキーチェカはユカリの視線に気づいて、机の上の箱に視線を向ける。「薬箱がどうかした?」
「あの、とても上等な薬に見えたんですけど」ユカリの声は少し小さくなる。
「え? どうだろ。良い薬といえば良い薬だけど。別にこの街じゃ珍しいものではないはずだよ。値段もさして高くない」キーチェカはユカリの不安そうな表情に気づく。「ああ、心配しなくてもお金をとったりしないって。私もしょっちゅう擦り傷作ってるから、この薬すぐに使い切っちゃうんだよね」
ユカリが不安そうな面持ちのまま口を開こうとすると先んじてキーチェカが喋る。
「いいから。大丈夫だから。ただの傷薬。それに手当てするって決めたのも、この薬を使うって決めたのも私なんだから。それよりさ。結局のところ、何がどうして上から落ちてきたの? それを教えてよ」
ユカリは答えを求めて頭の中をさまよう。「ちょっと、その、探し人というか」
思い返してみると、そもそも自分自身何を追っていたのか分かっていないのだった。グリュエーに言われるまま、何かを追っていたのだ。
「ああ、なるほど。人探しね。人探しか。天使か何か? それで屋根の上を、ね」
キーチェカの視線がユカリの旋毛を見下ろしていることに気づき、慌てて頭を隠すように抑える。
「頭を打ったりはしていません!」
キーチェカはからからと軽快に笑う。「それで探し人は見つかったの?」
「いいえ、見つからなかったみたいです」とユカリは決まりが悪そうに呟く。
店の扉は閉まっていて風は吹かない。吹けない。
改めてキーチェカを見上げる。年齢は二十かそこらだろうか。冬を前に装いを新たにした狐のような褐色の肌、一つに束ねられた波打つ栗色の髪、濃い墨をひいた弓なりの眉、総じて活発な印象を受ける。夏の森を切り取ったような深い緑の瞳はくりくりと動き回り、ユカリもまた観察されていることが分かる。身につけている茶色の装束は今までにユカリが見たことのないものだ。衣嚢の多い衣で、そのどれもが何を詰め込んでいるのか大きく膨らんでいる。
「手当は済んだのかい? キーチェカ。小さな傷とて油断はならないんだからね」とキーチェカの祖母が奥から呼びかける。
何か食材を調理しているらしい。切ったり叩いたりする調子のよい音が聞こえる。ユカリにはその手元が見えなかったが、とても盲目とは思えない手練れぶりだと分かる。
「うん。ばっちり。ね?」
キーチェカに促されてユカリも答える。「はい。良くしてくださってありがとうございます」
「それにしたって空から落ちてくるなんて非常識ってものさ。最近の娘はみんなそうなのかい?」
キーチェカの祖母は調理の手を止めることなく、調理場を行ったり来たりしながら大声で尋ねた。
「少なくとも地下神殿に潜る娘よりは珍しいよ」とキーチェカも大声で返す。
「あんたはまだそんなことをお言いかい」とキーチェカの祖母はさらに大きな声で返事する。
ふん、と鼻を鳴らしてキーチェカはそれ以上何も言い返さなかった。キーチェカの祖母も手を止めることなく、ぶつぶつと何事かを喋っている。
また二人の間に火がつくのを恐れてユカリは先回りして尋ねる。「地下神殿って何ですか?」
キーチェカは好奇心を見せて尋ねる。「君、旅人か何か?」
「はい。ユカリといいます。この街には昨日到着したばかりで」
「それで、次の日の朝に屋根の上で人探しね。まあ、詮索するつもりはないよ」キーチェカもまたユカリの向かいに椅子を下ろして座る。「地下神殿ってのはね。この街、エベット・シルマニータの北の方で見つかった古代の神殿だよ。まあ、今ではその神殿の周辺の方が街の中心になっていて、ここら辺はいわゆる下町なんだけどね」
キーチェカは衣嚢の一つをまさぐって少しくすんだ、しかし美しい指輪を取り出した。
「主にこれ。これは大した値打ちはないけど。地下神殿には金銀財宝が眠っているんだ。これがこの街の大きな財源になっていてね。地下神殿が発見されて以来、大いに潤い、発展したってわけさ」
そういえばベルニージュがそのようなことを言っていた、とユカリは思い出す。
再びキーチェカの装束を見る。茶色の服はよく見ると土汚れのようなものがあった。
「キーチェカさんも地下神殿で発掘しているんですね?」
キーチェカは得意げに笑みを浮かべる。
「ご名答。まあ、正直に言って私はまだ大した成果は出してないんだけど」
「あんたには向いてないんだよ」キーチェカの祖母の声が飛んでくる。
「全く耳ざといったらないんだから」キーチェカは声を潜める。「でもね、ユカリ。私、地下神殿の秘密を知ってるんだ」
ユカリも声を小さくする。「秘密、ですか? 何か古代の信仰にかかわることですか?」
「いや、そういうんじゃなくて。私ね。小さい頃に一度だけ地下神殿で迷子になったことがあるんだよ」
ユカリは驚いて少し声が大きくなる。「子供の頃から地下神殿を発掘してるんですか?」
「ああ、言うの忘れてた。そもそも上層の完全に解明された空間は一般に開放されていて、というか地下街と一体化しちゃってるんだよね。当時は色々と揉めたらしいけど。まあ、それはともかくとして、それで幼い頃の私、まだ誰も行ったことのないだろう最奥の部屋に偶然たどりついたんだ」
ユカリは期待と興奮に目を輝かせる。
「最奥! でも何で誰もたどりついていないって分かるんですか?」
「そりゃあ分かるよ。果ても見えない空間が天井まで届きそうなほどの財宝の山に埋め尽くされていたんだからね」キーチェカの瞳は翠玉以上に煌めいて、ユカリを覗き込む。そして頭を隠すように抑え込む。「言っておくけど頭は打っていないからね? あ、いや、さっき打ったな」
本当のところはユカリとキーチェカは頭で頭を打ったのだった。それほど強かな衝撃ではなかったが。
恥ずかしさから逃げるようにユカリは想像する。幼いキーチェカが湿った地下街で迷い、黴臭い地下神殿に迷い込み、たどり着いた最奥の部屋で眩いばかりに輝きを放つ財宝に出会う姿を。そうなると次に出てくるのは火を噴く竜か、もしくは死の呪いが定番だ。
「それで、幼いキーチェカちゃんはどうなったんですか?」ユカリは身を乗り出して聞く。
「ふふふ。聞きたい?」
キーチェカの勿体ぶりもユカリにとっては冒険話を味付ける香辛料だった。
鼻息荒く先を促す。「聞きたいです!」
キーチェカは頷き、話を続ける。「そこで私は魔女の子供と出会ったのさ。子供、と言っても見た目は成人した男だったけどね」
唐突に表れた登場人物にユカリの頭は混乱した。さらにキーチェカは明らかにここでユカリが驚くことを期待しているようだった。そのような表情を浮かべていた。
「えっと、どういうことですか? 魔女の子供?」
「え? あれ? ああ、そうだった。ごめん。ユカリは旅人だったね。ん? いや、ユカリってどこから来たの?」とキーチェカは不思議そうに尋ねる。
「ミーチオンのオンギ村という所からです」
「ミーチオン!? ここ、アルダニ北部だよ?」ユカリが頷くとキーチェカは感心した様子で溜息をつく。「随分遠くまで来たものだね。それじゃあ魔女の子供以前に魔女も知らない? 魔女シーベラ」
「いえ、色々と噂や伝説は耳にしました」
「それなら良かった。まあ、アルダニを旅して耳にしないはずないよね。その魔女の伝説がこの土地にも残っていてね、伝えられるところによると自分の息子を地下に閉じ込めたっていう伝説があるんだよ」
シーベラの名前が出てユカリは妙に安心してしまった。そもそもサクリフ、蛾の怪物の情報収集のためにこの街へとやってきたのだ。この街にも魔女シーベラに関わる物事があるのなら調べれば何か分かるかもしれない。
「そういうことですか。なるほど。つまりかの有名な古代の伝説の人物と出会った、と」
「呑み込みが早くて助かるよ。うろ覚えだけど、なかなかの美男子だった気がするなあ」
キーチェカは遠い目で幼き頃の何もかもが幻想的な霞がかった思い出に耽る。
兎を追ったり、野原で転がったりしていたユカリの幼き頃の冒険に比べれば、幼いキーチェカのそれはよほど神秘と奇想に満ちた血沸き肉躍る冒険活劇だ。
「それでどうなったんです? 地下神殿の最奥の財宝に溢れた部屋で魔女の子供と出会って、それで?」
キーチェカは小さなため息をついて残念そうに微笑む。「それでおしまい。その後のことはよく覚えてないんだ。姿を消した私を探してみんなが地下をさまよっている間に、私はいつの間にか地上に出ていて家に帰ってきた。手に持っていたのはこの指輪一つ。これといった面白い結末はないってわけ」
それでもユカリはとても満足した。魔女の子供は優しい人でキーチェカを家に帰したのか、それとも見られたくない秘密を守るために追い出したのか。
「でも素敵です。わくわくする出来事ですね」
キーチェカは少し不思議そうに尋ねる。「ユカリは私の話を信じてくれるの?」
ユカリは虚を突かれた。今の話は嘘だったのだろうか、と。
「えっと、本当の出来事じゃなかったんですか?」
「本当の出来事だよ!」とすかさずキーチェカは疑いを正す。「でも誰もが小娘の戯言だと思って信じてくれなかった。ユカリだけだよ」
ユカリは真面目な表情でキーチェカと向き合う。
「感動されているところをこう言うのも申し訳ないですけど、疑う理由も特にないと思うんです」
意外な返答だったようでしばらく呆気に取られたキーチェカだったが、真面目な表情に変わって答える。「それこそ私が言うのもなんだけど、普通は人間が地下神殿に長い間、古代からずっと閉じ込められてたら死んじゃうでしょう?」
「でも、魔女の子なんですよね?」
少なくとも、とある彷徨う王様に対して魔導書はやってのけたのだ。とても長生きする方法は他にもあるだろう、とユカリは思っていた。
「そりゃそうなんだけど。まあ、それはいいや。だからね」そう言ってキーチェカはちらと祖母の方を見て、ユカリの方に顔を寄せ、一層小さな声で喋る。「その最奥の部屋にもう一度たどりつくのが私の夢ってわけ」
その声は小さくともいっぱいの希望が詰まっていて弾むように響いた。
「もしかしておばあさんには反対されているんですか?」
「わかる?」
「それはもう」
ユカリは義母と義父を想う。彼らはユカリを愛し、そのためにユカリを村に閉じ込めていたのだった。魔導書などと関わり合うことのない人生を願って。もちろん恨みなど何もないが、子供の頃は色々と考えたものだ。本当の父母とか、本当の愛とか、そういうものについて。
キーチェカは野望にぎらついた目で、未来を見据え、不敵な笑みを浮かべる。
「地下神殿の発掘は全てエベット・シルマニータ市政府の管理下なんだけどさ。発掘者を常に内外に募ってるんだよ。そうして発掘者に発掘品の分け前を支払うってわけ。あの財宝を見つけたら一生安泰だよ。ばあちゃんも私も、なんなら私の孫の代までね」
「夢がありますね。私がこの街に生まれていたなら、やっぱり地下神殿に入り浸っていたかも」
「だよね。でもばあちゃんは地に足つかない夢や希望は大嫌いだからさ。店を継ぐとか、良い人を見つけるとか、求めてくるんだよね」
キーチェカの気持ちは痛いほど分かったが、キーチェカの祖母の気持ちもよく分かる。結局のところ、家族というのは自分のことより相手のことを心配してしまうのだ。
ユカリは自分が村を出て行くことを義父に受け入れさせたのに、義父の所在が分からないことに胸を痛めていた。村を出た時以上に義父に近寄らない方が良い状況になってしまっている。救済機構に何を勘繰られるか分からない。
「家族に危険なことをして欲しくないという気持ちは私も分かります。私も旅をしていて色々と危険な目に遭いましたから」
キーチェカは目を丸くして相槌を打つ。「そうなんだ? 聞いてもいい話?」
「はい。そうですね」ユカリは思い返す。魔導書に言及せずに話すのは中々難しそうだ。「例えば……」
ユカリにキーチェカの人生に口出しする理由はないが、それでも彼女の祖母の不安をくみ取ってはもらえないかと思って、少しばかり恐怖の脚色をした物語を聞かせる。
屍使いの盗賊に翻弄された話。ワーズメーズの迷宮都市で迷いの呪いに囚われて現実が希薄になっていった話。伸び縮みする巨人の話。歌を歌うと歌を歌わされてしまう魔法の話。
結果的にほとんどが逆効果でキーチェカは顔を綻ばせてユカリの話をせがみ、ユカリもユカリで気分が乗ってきて、あったかどうか定かでない英雄的活躍を脚色し、夢中になって話して聞かせた。
「ユカリがそんなにすごい魔法使いだったなんて。でもそうだよ。空から落ちてくるんだから。そんじょそこらの魔法使いじゃあないよねえ」
魔導書のことを省いてしまったせいで、ユカリの実力がとんでもなく過大評価されることになってしまった。我に返るが、当初の目的、キーチェカに祖母の気持ちを慮ってもらう狙いは完全に外れてしまった。そもそも狙えていなかった。
「ユカリさん」輝かしい冒険譚が一段落したところで、キーチェカの祖母が呼びかけた。「せっかくだから食べていきなさい」
キーチェカが同意する。「うん。私も今そう言おうと思ってたんだ。ばあちゃんの料理は何でも美味しいからさ。面白いお話を聞かせてくれたお礼に私が奢ってあげるよ。決まりね」
ユカリはお言葉に甘えた。それにまだ話し足りなかった。