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#シリアス
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その日は、朝からどんよりとした雲が低く垂れ込めていた。
伊織様のお仕事の資料を探しに、少し離れた古書店まで二人で外出した帰り道のことだ。
「……ちっ、降り出したか」
伊織様が空を仰いだ瞬間、大粒の雨が地面を叩き始めた。
春の雨とは思えないほどの激しさで、帝都の街並みは一瞬で白く霞んでしまう。
「紬、こっちだ」
伊織様は私の手首を掴むと、路地裏にある小さな茶屋の軒先へと飛び込んだ。
幸い、茶屋は店仕舞いの最中で人影はなく、私たちは店の裏手にある小さな待合所に身を寄せた。
「……ひどい雨ですね。伊織様、お召し物が……」
伊織様の立派な上着が、雨に濡れて色を変えている。
私は慌てて懐から手拭いを取り出し、彼の肩を拭おうと手を伸ばした。
「……よせ、紬。自分が先だろ。……透けてるじゃないか」
「えっ?」
言われて自分の肩を見ると、薄手の着物が雨を吸って、肌にぴたりと張り付いていた。
「……あ」と声を上げた瞬間
伊織様の手が私の肩に伸び、彼の上着がふわりと私を包み込んだ。
「……着ていろ。風邪を引かれたら、俺の寝覚めが悪い」
上着からは、伊織様の体温と、微かに香る煙草とお香の匂いがした。
狭い待合所。外は激しい雨音に支配され、まるで世界に私たち二人しかいないような錯覚に陥る。
「……伊織様、お顔が近いです」
「…………」
伊織様は答えず、じっと私を見つめていた。
濡れて乱れた前髪の隙間から覗く瞳は、いつもの余裕など微塵もなく
熱っぽく、どこか飢えたような色をしている。
「……紬。君はいつもそうだ。……俺がどんなに突き放しても、どんなに醜い嫉妬を見せても、最後にはそんな……聖母のような顔で俺を見る」
伊織様の指先が、私の頬を伝う雨の雫をそっと拭った。
その指が震えているのが分かって、私の胸がドクンと跳ねる。
「…尊敬……君にそう言われるたびに、俺は自分がどれだけ汚れた男か思い知らされる」
「……でもな、紬。……俺はもう、君の『立派な旦那様』でいることに疲れたんだ」
「伊織様……?」
「からかいじゃない。……冗談でもない。…俺は今、本気で君が欲しくてたまらないんだ」
伊織様が、私の顎をゆっくりと持ち上げた。
逃げる場所なんてどこにもない、雨音に閉じ込められた密室。
彼の顔が近づき、唇が触れそうな距離で止まる。
「……これでも、俺を『お優しい旦那様』だと……『尊敬』できると言い切れるか?」
挑発するような、それでいて縋るような低い声。
私は、伊織様の胸元にそっと手を置いた。
そこから伝わる鼓動は、驚くほど速くて、激しくて。
「……はい。伊織様」
「っ……この期に及んで、まだ……!」
「だって、こんなに…私に触れる手が震えていらっしゃる。……私のことを、そんなに大切に、壊さないようにと思ってくださっているのが伝わって…可愛いなと……」
「……黙れ」
伊織様は遮るように、私の唇を自分の唇で塞いだ。
それは、夜会の女性たちにしていたような軽やかな口づけではなく
苦しくて、切なくて、溺れるような深い接吻だった。
「…………はぁっ。…紬……」
唇が離れたとき、伊織様は私の肩に額を預けて、荒い息をついていた。
その耳は、雨に濡れた紫陽花よりも鮮やかな赤色に染まっている。
「……余裕なんて、最初からなかったんだ。…君に出会って一緒に生活してくうちに、俺の心は全部……君に書き換えられてしまったんだから」
雨足はまだ衰えそうにない。
でも、伊織様の上着の温もりと、初めて知った彼の「本気」の熱さに
私はもう、冷たさを感じることはなかった。