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#シリアス
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雨宿りの夜から数日
伊織様は、以前にも増して私を熱心に見つめるようになった。
廊下ですれ違うたびに不器用に髪を撫でてくれたり
食事中に「美味いな」と呟きながら、耳を赤くして目を逸らしたり。
そんな甘酸っぱい空気を切り裂いたのは
一通の派手な招待状と、屋敷に乗り込んできた一人の華やかな女性だった。
「まあ、あなたが伊織様の……。噂通りの、地味な小鳥さんね」
居間に現れたのは、夜会で見たどの貴婦人よりも豪奢なドレスを纏った、公爵令嬢の冴子様。
かつて伊織様と最も親密だと噂されていた女性だ。
「冴子様、本日はどのようなご用件で……」
「伊織様に、お返しにあがったのよ。昔、彼が私の耳元で囁いた『愛の言葉』をね」
冴子様は勝ち誇ったように笑い、私に何枚かの手紙を突きつけた。
そこには、伊織様特有の流麗な文字で、情熱的な詩や誘いの言葉が綴られていた。
「彼はね、こういう甘い嘘を吐くのが天才的なの。あなたに言っている言葉も、全部使い回しよ。可哀想に、真に受けているのかしら?」
「…………」
手紙を見つめる私。
そこへ、外出先から戻った伊織様が血相を変えて飛び込んできた。
「……な、何をしてんだ!なんでお前がここに……!」
「あら伊織様。あなたの『可愛いお人形さん』に、真実を教えてあげていたのよ」
伊織様の顔が、一瞬で真っ青になった。
彼は震える手で、私が持っていた手紙をひったくるように奪い取る。
「……紬。これは、その…!昔のことで、今は…」
伊織様の声が微かに震えている。
「余裕ゼロ」を通り越して、彼は今
この世の終わりでも迎えたかのように絶望的な表情で私を見つめていた。
「……伊織様、凄すぎませんか?」
「……え?」
「え?」
伊織様と冴子様の声が重なった。
私は手紙の文字を思い出し、感極まったように両手を合わせた。
「こんなに美しい比喩、そして心を震わせる調べ……伊織様、あなたはこれほどまでに、言葉一つで人の心を豊かにする才能をお持ちだったのですね」
「えっと……紬?」
「たとえそれが過去の遊びであっても、女性をこれほどまでにお姫様のような気分にさせて差し上げていたなんて!」
「……は、はい?」
冴子様が呆気にとられた声を上げる。
「伊織様の優しさは、本物だったのですね。……目の前の女性を幸せにするために、これほどの努力を惜しまなかった。その『おもてなしの精神』、私……心から尊敬します!」
「…………っ!!」
伊織様は、膝からその場に崩れ落ちた。
「おもてなし……? 精神……?」と呟きながら、顔を両手で覆い、畳に突っ伏してしまう。
「紬…それは……皮肉じゃなくて、本気で言ってるんだよな……?」
「もちろんです! 私を安心させるために過去を隠していたのも、伊織様の深い慈愛ゆえ……冴子様、こんなに素敵な手紙を届けてくださって、ありがとうございます。旦那様の素晴らしさを再確認できました!」
「…………はあ?!なんなのこいつ!!馬鹿馬鹿しい!もう勝手になさい!」
冴子様は顔を真っ赤にして、激昂しながら部屋を飛び出していった。
後に残されたのは、突っ伏したまま動かない伊織様と私だけ。
「……紬。…お願いだ、俺を……俺を叱ってくれ、軽蔑してくれ、遊び人だと罵ってくれ……」
「え、そんなことできませんよ!だって、伊織様は世界一お優しいのですから」
私は伊織様の背中にそっと触れた。
「……でも、伊織様って、尊敬できることだらけで困っちゃいます」
「…………クソッ、勝てない…一生、君にだけは勝てる気がしない……っ!!」
伊織様は顔を上げた瞬間、私を押し倒さんばかりの勢いで抱き寄せた。
遊び人の過去さえも「美徳」に変えてしまう私の真っ直ぐな瞳に、彼は逃げ場を失っていくのだった。