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昼休み、教室の隅っこで弁当を広げていたら、隣の席の林田が唐突に声をあげた。
「なあ、隣のクラスの氷室って、マジで女子から人気あるのに、誰とも付き合ったことがないらしいぜ」
「え、そうなの? でもなんかわかるかも。あの人、完璧すぎて近づきづらいもん」
「アイツ、生徒会長さまだしな! 氷室よりも俺のほうが付き合いやすいだろう?」
クラスの女子たちが、そんな噂をしているのが耳に入ってきた。
(氷室……誰とも付き合ったことがないんだ)
その事実になぜか心の奥に、小さな波紋が広がるような違和感が残った。別に自分に、関係があるわけじゃないのに。
「なぁ林田。その噂って本当なのか?」
女子の話にまざろうとしていた林田に声をかけたら、すげぇ嫌そうな目で睨まれた。相変わらず、声をかけるタイミングが悪かったらしい。
「アイツの顔見たらわかるだろ。背が高くて足だってムダに長くて顔も整ってて、成績も優秀な生徒会長さまなんだからさ」
「そうそう。見た目がいいのに、なんていうか隙がなさ過ぎて、とっつきづらいよな!」
俺も林田に合わせるように、わざと軽口を返した。
「あんないっつも同じ顔つきのヤツよりも、俺みたいにいろんな表情が拝める男のほうが、絶対いいに決まってるって! ねぇねぇ、誰か俺と付き合わない?」
俺とのつまらない会話を勝手に終わらせて、女子の園に首を突っ込んだ勇気のある林田に、心の中でエールを送りながら、弁当を食べ進める。
窓の外では赤や黄色の葉っぱが、ひらひらと舞っていた。風にあおられて落ち葉がひとひら飛んできて、教室の窓に貼りついた。
氷室の横顔を思い出すと、その落ち葉までもが彼に似合っているように見えてしまう。
「傘を差し出したときの氷室、絶対に笑ってたんだって……」
俺にだけ見せたその笑みの理由が、どうにもわからない。学校の勉強も理解できない俺なので、氷室の頭の中なんか、さらにわかるハズもなく――。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま弁当を食べていたら、不意に今日までに提出しなければならない課題を思い出してしまった。
(あーあ、またやっちゃった。なんでこう、大事なものを忘れちまうんだろうな、俺ってば……)
放課後、肩を落として、図書室で課題に必要な資料を探していたときだった。静かなページをめくる音だけが響く中、ふと視界の端に見覚えのある姿が目に映る。
「あ……氷室?」
棚の陰から現れた彼は、驚いたようにこちらを見て、小さく頷いた。
「君もここ、使うんだな」
「まぁ、うん。なんか静かだし、落ち着くから」
俺が適当なことを言って、資料を片手に空いている席に着くと、氷室が隣の席に腰を下ろした。まさか氷室と、こんな近くに並んで座る日が来るなんて——。
椅子の脚が床を擦る小さな音が響き、思ったよりも距離が近くて、肩がほんの少し触れそうになる。ページをめくるたびに制服の袖が揺れて、衣擦れの音が耳に届いた。
ただそれだけのことなのに、鼓動が速くなる。
彼の手元を見ると、開かれていたのは古い詩集だった。てっきり勉強に関連するテキストや、資料だと思ったのに。
「氷室、そういうの読むんだ。なんか意外かも」
「……悪いか」
「いいや、似合ってるなって。氷室の落ち着いた雰囲気と詩集がマッチしてると思う」
そう言った途端に、頬が熱くなるのを感じた。変なこと言ったかなと不安になって彼を見ると、氷室はほんの少しだけ笑っていた。
「……君も、静かな場所が好きなんだな」
その声は、昨日よりも少しだけ近く感じられた。
「えっと……勉強に集中できるし、いい場所だと思うし……」
「そうだな」
綺麗な形の二重瞼が、三日月のように細められた。
(——氷室って、こんな顔もするんだ)
「葉月、そこ間違ってる」
「へっ?」
口角の端があがったままの唇が間違いを指摘し、細長い指が書き込んでいた部分を突いた。
「それ、森田先生が指定した課題だろう? 読んでいるページが違うのかもしれない。貸してみろ」
俺の返事も聞かずに、資料を自分の手元に引っ張り、パラパラとページを捲っていく。そのあまりの素早さは、中の文字なんて俺の目には見えないくらいだった。
「葉月、引用するならこの部分。だけどこれよりも、もっといい資料がどこかにあった気がする」
「だったら俺、それを探して――」
「君はそれを書き写したらいい」
氷室は読んでいた詩集をそのままに席を立って、奥の棚へと向かう。その後ろ姿が静かな図書室で、妙に頼もしく見えた。
「悪いことをしたな……」
(氷室ってば俺の課題なんてスルーして、詩集を読めばいいのに――)
程なくして氷室が戻ってきた。手に持っていたのは、手の中に納まりそうなポケットブックが1冊。
「わっ、そんな小さい本、よく見つけたな」
「俺の課題が葉月の課題に似ていたからだよ。関連するものが被っていたのが功を奏した」
嬉しげに瞳を細める氷室の顔に、釘付けになってしまう。
「葉月、手を止めるな。今日までの提出だろう、それ?」
「あ、うん。よくご存知で」
「俺のクラスにも、葉月と同じことをしてるヤツがいた。ま、ソイツがここにいない時点で、提出を諦めたか、適当に書いたものを提出したかの二択だろうな」
言いながら、氷室は制服のポケットからメモ帳を取り出し、ポケットブックを見ながらメモ帳に書き込んでいく。
「君の課題に使う部分のページを、リストアップしておいた。手元の資料とこれを元に書き込めば、合格点がもらえるはずだ」
「氷室、マジで感謝! さっそくやっつける」
両手を合わせて拝んだ俺に氷室は首を横に振り、顔を真横に背ける。すると、赤らんだ耳が俺の目に留まった。照れているであろう氷室の様子に、俺までなんだか落ち着かなくなったのだが。
席を立つとき、氷室が小さく呟いた。
「……夜は冷える。風邪をひくなよ」
それだけ言い残して歩き去る背中を、しばらく見送るしかなかった。
(……ズルいよ、氷室。そんなの、気にするなってほうが無理だろ)
氷室のことをもっと知りたい。もっと、この表情を見てみたい。この胸のざわめきに、まだ名前はないけれど——確かになにかがはじまろうとしている気がした。