テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
次の日の放課後、廊下に立てかけられた掃除用具を見て、ため息がこぼれた。
「あー……今週、掃除当番だったんだっけ」
有朋学園は中高一貫な上に校舎もやたら広いから、共有スペースの掃除は各クラスからひとり出すことになってる。だから当番になると、めちゃくちゃ緊張するんだ。
教室の後ろに貼られている掲示を見直して、名前を確認する。自分と並ぶのは“氷室蓮”。よりによって、生徒会長とふたりきりの当番とかマジか……。
(いや、別にいいんだけどさ。前に図書室で、一緒に課題をやったし……)
けれど、あれは“たまたま”だったのかもしれない。今は普通に、クールな氷室に戻っているかもしれないし……なんてぐるぐる考えているうちに、氷室が廊下の向こうから、無言で歩いてきた。表情のないその顔を見た瞬間、心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……行くか」
そう言って、モップを手に廊下を歩き出す氷室。俺は慌ててほうきを掴んで、その後ろを追いかけた。
掃除の場所は3階の渡り廊下。窓が多くて明るいけれど、人の気配が少ない静かな場所だった。外の空はすっかり赤く染まり、窓辺には落ち葉が風に吹かれて舞い込んでくる。まるで、ふたりだけを閉じ込める小さな舞台みたいに思えた。
氷室に話しかけるタイミングを計って、何度もチラ見をしていたら、俺の足が教室から伸びていた電源コードにうっかり足を取られて、バケツを思いっきりひっくり返す。
「うわっ、やばっ!」
雑巾や水が床に一気に散らばった。安定過ぎるいつもどおりのドジに、自分で自分にウンザリしそうになった。
「……貸せ」
氷室が静かに言って俺の手から雑巾を取り、黙って水を拭き取ってくれた。窓の外から差し込む夕焼けの光が、氷室の横顔をやわらかく照らしている。
「あ、ありがとう……ごめん」
「気にするな。慣れてる」
「慣れてるって……え、それってどういう?」
不思議に思って問いかけたが氷室はそれに答えず、黙々と床を拭き続ける。その手つきはとても丁寧だった。一方の俺はというと、ドジをやらかしたことで、かなり気まずさを感じながら、モップを使って水を拭き取る。
(――氷室って無表情だけど、やっぱり優しいんだよな)
そんなことを考えながら、必死こいて床を拭いていると、氷室のほうが先に作業を終えたらしく、バケツを持ち上げて立ち上がった。
「葉月、そこまだ濡れてるから、モップをもう一回かけたほうがいい」
「え? あ、うん、わかった」
指摘されるとなんだか恥ずかしくて、顔が熱くなる。けれど、嫌味じゃないのはわかっていた。
その後、ふたりで無言のまま掃除を終え、用具を片づけて教室に戻る。廊下の窓越しに見えた夕焼けは、すっかり群青に変わりはじめていた。
「氷室、じゃあまた明日」
そう声をかけると、氷室は少しだけ振り返って、ほんの僅かに、口元を緩めた気がした。
「……ああ」
その小さな笑みが、秋の夕暮れよりも温かく見えて、胸がじんと熱くなる。
(やっぱり、俺……あの表情がもっと見たいかもしれない)
すれ違いそうで、でも、ほんの少しだけ近づいた気がした。