テラーノベル
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私には、数時間前まで恋人がいた。
半同棲状態で、幼馴染の延長のような、付き合って三年になる関係。
毎日朝ごはんを作り、夜は温かいご飯を待つ。忙しい彼のために、休みの日も洗濯や掃除を欠かさなかった。「いつか結婚しようね」と言っていた言葉を、まだ信じていた。その日も、いつものようにアパートの鍵を開けた。玄関の明かりをつけた瞬間、違和感が胸を刺した。
テーブルの上に、ぞんざいに破られたメモ用紙が置かれていた。
『別れよう。もう、お前とは無理だ。』
横に、合鍵が冷たく光っている。「……嘘」声が震えた。慌ててスマホを取り出し、LINEを開く。既読はつかない。メッセージは送れない。ブロックされている。電話をかけても、「この番号は現在お使いになれません」の機械的な声が繰り返されるだけ。頭が真っ白になった。
足が勝手に動き、聡太のアパートに向かっていた。夜の冷たい風が頰を切り、涙が止まらない。インターホンを何度も押す。ドアが開いたのは、聡太ではなく、見覚えのある女性だった。
同じ営業部の大野さん——派手なメイクに、ゆるふわの髪。彼女は私の顔を見て、明らかに面倒くさそうな表情を浮かべた。
「……佐々森さん? 何よ、こんな時間に」
その後ろに、ベッドに腰掛けた聡太の姿が見えた。シーツが乱れ、部屋の中には甘ったるい香水の匂いが充満している。ほんの数時間前まで、私の恋人だった男が、そこにいた。
「どうしたんだよ? 急に」
聡太の声は、まるで他人事のように平坦だった。
「メモ……見たよ。合鍵、置いてあった……」
声が掠れる。喉が締め付けられて、うまく言葉が出てこない。大野さんが、ため息をつきながら手を差し出してきた。
「合鍵、返して。もう必要ないでしょ?」
私は息を呑んだ。震える手でバッグから鍵を取り出し、手渡す。手が震え、緊張で床に落としてしまった。金属の冷たさが、指先に染みる。
「なんで……急に? 三年も一緒にいたのに……」
聡太は面倒くさそうに肩をすくめた。
「三年も我慢したんだよ。お前、暗すぎるし、地味すぎるし、会社でも使えないって言われてるだろ?大野みたいに明るくて、仕事もできる女の方が、俺には合ってるんだよ。お前といると疲れるだけ」
大野さんが、くすくすと笑いを漏らす。
「可哀想〜。佐々森さん、ずっとお弁当作ってたんでしょ? でも聡太、ほとんど食べてなかったよね」
「嘘……そうなの?」
胸が、ぐちゃぐちゃに引き裂かれる音がした。視界がぼやけて、足元がふらつく。
「じゃあ……お疲れ様」
ドアが、冷たく閉められた。アパートの廊下に一人取り残され、私はその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて、声を殺して泣いた。三年分の思い出が、砂のように崩れ落ちていく。
ほんの数時間前まで、恋人がいた。
朝「おはよう」のキスをして、夜「ただいま」の抱擁があった。それが、全部、幻だった。
「……もう、嫌だ…… こんなの耐えられない」
涙と一緒に、別の感情が込み上げてきた。ただ泣いて終わるのは、もうやめよう。私を踏みつけた連中——聡太も、大野さんも、課長も、同僚たちも。みんなに、後悔させてやる。胸の奥で、冷たい決意が静かに灯った。そのとき、スマホが震えた。
通知は、真言寺くんからのメッセージだった。
レモン
ふわねこカラメル
30
695
【佐々森さん、大丈夫ですか? 今日の残業、すごく疲れてたみたいで心配です。もしよかったら、駅の近くの公園で待ってます。イチゴのジュース、買っておきました。】
「……また、イチゴなんだ」
画面を見つめながら、涙がまた溢れた。でも今度は、温かいものが混じっていた。私は震える指で返信を打った。
【……今から、行きます。】
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