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海月翠
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「やらかしました」
朝一番に兄からはそう告げられた。その手に握られていたのは体温計。表示窓を見ると、『39.7』と記されている。これでは今日は動けないだろう。流石にその体温に驚愕して、慌てて兄の額に手を当てる。じん、と熱い。
「何やったの、お兄ちゃん」
「さぁ。朝起きたら熱出てまして」
「それは見ればわかるって。冷たいものでも食べた?それとも乾燥してるところに長時間居たとか?」
「いいえ、そんなわけでは」
兄、もとい日本は居心地が悪そうに首を振った。どうやら本当に、理由もなく風邪を引いてしまったらしい。災難な事だ。家事をしようと歩き出した日本の手を引っ張って無理やり布団に寝かせ直し、洗面所から洗面器を取り出して水を張る。タオルも持って日本の元へ戻り、水で濡らしたタオルを額の上に載せた。冷たいと言われたがお構い無しだ。病気するほうが悪い。
「お兄ちゃん、今日何か大事な用事とかある?」
「各国へ荷物を届ける仕事がありまして」
「……また面倒な」
溜息しか出てこなかった。だが、はいそうですかと流すわけにもいかない。心が揺れるのを押し留めながら続けた。
「誰のところ行かなきゃいけなかったの」
「G7」
返答を聞いて、心に今度こそさざ波が立つ。それを宥めるように早朝の風が開け放した縁側の窓から吹いてきて、桜の花びらが洗面器に張った水に落ちて浮いた。
日本というのはいつもこんな感じだ。ロシアとアメリカ、はたまた中国といったような大国に隣接しているために、面倒な事が頻繁に日本の仕事として割り振られる。そしてそれらに応えようと必死に走り回った結果、最終的に自分のキャパを超え、体調を崩して倒れるのだ。今回も世界各国を走り回る仕事を押し付けられて、日本の体が耐えきれずに倒れたのだろう。
「わかった。私が行く」
そう答えるしかない。日本はありがとうございますと力なく笑っていた。
こういう風にしか兄を笑えなくした世界に、ただ苛立ちばかりが募る。
けれど、やり場の無いこの感情は、一体どこにぶつければ良いのだろう。
日本の部屋に置いてあった鞄を覗くと、そこには大量の資料があった。G7、とは言っていたが、どうやら元G8のメンバーでもあったロシアの所にも行かねばならないらしい。内容は──難しくてよくわからないが、何か重要な書類らしい。見ているだけで頭が痛くなってきた。
鞄を自室へ置き、掛けてあったセーラー服を身に纏う。
縁側に戻った時、兄は布団の上で体を起こしていた。寝ろ、と一喝したかったが、桜を眺めているようだったのでその気も失せた。
「何か面白いものでもあった?」
「いいえ、特には」
すぐ近くに座った私を視界の端だけで感じているのだろう。兄は外を眺めたまま答えた。私も同じように外を見るけれど、桜の花びらが風に散っていく風景が延々と続いているばかりだ。
「じゃあ、どうして外ばっかり見てるの」
その問いに、兄は落ちゆく桜の花弁を目で追いながら、柔らかく微笑んだ。何かを慈しむようなもの。
「綺麗だなぁ、と思って」
一言。桜が綺麗なのか、空が綺麗なのか、兄はそれ以上を語らなかった。
土間でローファーを履く。鞄の中身の資料はご丁寧に国ごとに付箋で分けられていて、中に入っていたメモを覗くと分刻みでのスケジュールが書かれていた。几帳面だなぁ、と自然に思った。
ぺた、と足音がしたので振り返ると、兄が立っていた。
「もう行くんですか」
頷いた。兄の体調も鑑みて、早く帰ってこなければいけない。それに長々とここに留まり続ける理由も今は無い。さっさと出て、さっさと帰る。それが一番。兄は眉を下げて困ったような表情を浮かべた。
「ごめんなさい」
「何で謝るのさ」
「私が熱を出さなければ、貴方に面倒事をしてもらわなくて良かったのにと思って」
兄の発言に、また心に波紋が広がった。やり場の無い感情。じわりと心が痛む。
「私がいつ面倒事は嫌って言ったの。これは私がやるって言った事だよ。だから、お兄ちゃんはゆっくり寝るのが今日の仕事。わかった?」
努めて明るく声を出す。人差し指をビッと突きつけ、いたずらっぽく笑う。声は震えていないだろうか。顔は引き攣っていないだろうか。
兄は玄関の土間の上でしばらく逡巡していた後、兄は可笑しそうに笑った。
「気をつけて」
そうとだけ言った。
家を出る直前、兄は熱があって辛い筈なのに、柔らかい微笑みを浮かべながら手を振ってくれていた。