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放課後の校庭。夕暮れが薄く校舎を染める時間帯だった。
学級委員長の蒼は、いつも通り不真面目な態度をとるクラスメイトたちに苛立ちを覚えながら、少し離れたところにいるヤンキーの悠斗をちらりと見た。
悠斗は、授業中に遅刻したり、宿題を出さなかったりと、蒼の目には許せない存在だった。今日も何かトラブルを起こしているんだろうと決めつけていた。
だが、突然、悠斗が校舎の裏手で誰かと揉めているのを見つけた。近づいてみると、見知らぬ男が悠斗の腕を掴み、乱暴に殴ろうとしている。
「おい、やめろ!」蒼は思わず叫びながら駆け寄った。
悠斗は驚き、身をかわすが、男は強引だった。
「なんで、俺に関わるんだよ!」悠斗は必死に抵抗する。
蒼は動揺しつつも、男の腕を掴み、引き離した。
「君、何してるんだ!」蒼は怒りを抑えられなかった。
男は不機嫌そうに睨み返し、やがて諦めて去っていった。
悠斗は肩で息をしながら、蒼に目を向けた。
「……なんで助けた?」
蒼は答えに困ったが、しっかりと目を合わせて言った。
「そんなことで殴られていいわけないだろ。…君、どうしてそんなに大変な状況なんだ?」
悠斗は一瞬黙り込み、そして小さく肩を落とした。
その時、蒼は初めて悠斗の表情に見える弱さに気づき、ただの「嫌い」だけではない、もっと複雑な感情が湧き上がったのだった。
悠斗は走っていた。
背後に誰かが追ってくるわけじゃない。けれど逃げたかった。蒼の前から、あの場から。
(なんで……助けなんか、いらなかったのに)
そんな思いを抱えたまま、彼は商店街の古びたコンビニの前で立ち止まった。
ポケットに手を入れて、何度探っても出てくるのはレシートの切れ端と硬貨ひとつ。
「……くそ……」
ふらふらと店に入り、パンの棚の前に立つ。
店内には誰もいない。レジの奥では店員が電話中。
悠斗の手が、棚の奥のサンドイッチにすっと伸びかけた、そのとき――
「……悠斗?」
その声に、びくっと肩が跳ねた。
振り返ると、そこには蒼が立っていた。
教室ではいつも冷静な顔をしていた蒼の目が、明らかに怒りを浮かべていた。
「……何してんだよ、お前。まさか、本当に盗ろうとしたのか?」
「……ちげぇよ」
「じゃあ、その手は何だ」
悠斗は黙った。蒼の言葉が、痛かった。だけど正しかった。
蒼は何も言わず、カゴを取り、悠斗が手に取ったサンドイッチと小さな飲み物を入れてレジへ向かった。無言のまま代金を支払うと、品物を袋に入れて悠斗の目の前に突き出した。
「……食えよ。腹減ってるんだろ?」
悠斗は受け取れなかった。震える手を、必死にポケットに押し込んだ。
「……なんで、そんなことすんだよ。お前、俺のこと嫌ってたくせに……」
「嫌いだったよ。ずっと。でも、万引きするほど追い詰められてるなら、それを見過ごすのは……もっと嫌だ」
悠斗は視線を落とした。唇が噛みしめられ、拳が震えていた。
「……家に、飯なんかねぇんだよ。親は帰ってこねぇし、帰ってきても俺の顔見るたびキレる。物投げられて、言葉もねぇくらい罵られて……」
言葉が途切れた。
「俺……どこにも、逃げ場なんかねぇんだよ……」
声が震えた。涙が一滴、ぽつりとアスファルトに落ちた。
「なんで俺ばっか、って思ってた。でも、誰にも言えなかった。言ったって、どうせ信じねぇだろって……」
蒼は黙って聞いていた。そして、ゆっくりと鞄を下ろし、そこにあったタオルを差し出した。
「……信じるよ。俺が信じる」
悠斗は、驚いた顔で蒼を見た。
「俺は、真面目に生きてる人間を守るために委員長してるんだと思ってた。でも、それだけじゃ足りないんだって……今、お前見てて思った」
「……俺、真面目でもなんでもねぇよ」
「関係ない。今の悠斗を、放っておきたくないだけだよ」
悠斗はその場にしゃがみ込んで、タオルで顔を拭いながら、小さく何度も「……ごめん」を繰り返した。
蒼は横に腰を下ろして、しばらくの間、黙って隣に座っていた。
その静かな時間が、どんな言葉よりも優しかった。
「ここ、俺の部屋。狭いけど、まぁ座れよ」
悠斗はおずおずと足を踏み入れた。
蒼の部屋は想像以上に整っていて、床には何一つ落ちていない。
「……マジで、住んでんのか?ここ」
「うるせぇ。お前の家が散らかりすぎてんだよ」
そう言いながらも、蒼は台所で手際よくインスタントの味噌汁を作り、冷蔵庫から卵を出してフライパンを温めた。
ご飯が炊ける匂いに、悠斗の腹が静かに鳴る。
「はい。とりあえず、食え。話はそれからだ」
食事中、悠斗はほとんど言葉を発さなかったが、それでもご飯は一粒残さず平らげた。
「……うまかった」
「インスタントだけどな」
どこか、ほっとしたような空気が流れる。
食器を片づけ終えた蒼は、ふと声をかけた。
「風呂、使う?うちシャワーだけど。汗すげーだろ、今日は」
その瞬間だった。
悠斗の表情が、明らかに強張った。
「……いや。いい。風呂とか、別に……」
声が妙に低くて、そして早かった。
「……ああ、ごめん。無理に勧めたつもりはない。汗拭きシートとかあるから、それでもいいし」
蒼はすぐにフォローを入れたが、悠斗は下を向いたまま、動かなかった。
「……なんか、嫌なこと、思い出した?」
しばらくしてから、悠斗がぽつりとつぶやいた。
「……見せたくねぇんだよ。俺の体、たぶん……引く」
「……見せろなんて言ってねぇよ」
その返事に、悠斗はほんの少しだけ目を丸くした。
「お前が俺んち来たのは、俺が呼んだから。飯食ったのも、寝るのも、風呂入るのも、全部お前が決めていい。……無理しなくていいんだよ」
静かに言う蒼の声が、まるで遠くの水音のように、悠斗の胸の奥でじわりと染みこんでいく。
「……なんか、お前、委員長っぽくないな」
「そうか?」
「……優しすぎんだよ」
「うるせぇ」
それでも、悠斗の口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
薄暗い部屋の中、布団を二つ敷いて、ふたりは横になっていた。
蒼は壁側。悠斗は窓側。
エアコンの音が、ごう……と低く唸る。
「寝れそう?」
蒼の声は小さくて、眠気を誘うようにやさしかった。
「……わかんねぇ。こういう静かなとこ、慣れてねぇから」
「そうか」
それきり、しばらく無言の時間が流れる。
だけど、それが心地悪くはなかった。
悠斗がふいにぽつりと言った。
「なあ……俺って、変だと思う?」
「何が?」
「……なんか、全部。生き方とか。家庭とか。俺の、……過去とか」
蒼はすぐには答えず、ゆっくり天井を見たまま言った。
「変じゃねぇよ。てか、変かどうかなんて、俺が決めることじゃないしな」
「……そういうとこ、ずるい」
「ずるい?」
「なんか……本気で怒るくせに、本気で優しいっていうか」
「お前がずっとヘラヘラしてたから、最初はムカついてただけだよ」
「……マジでひでぇ」
そう言いながらも、悠斗の声には笑いが混ざっていた。
しばらくの沈黙のあと、悠斗がふいに体を横向きにする。
月明かりがうっすらとその横顔を照らしていた。
「昔さ。家に誰もいない夜があって。俺、子どもだったから、怖くて押し入れに隠れて泣いてたんだ」
「うん」
「それが何回か続いて……いつの間にか、“何も期待しない方が楽”って思うようになった。
そうしてると、何も言われなくなるし、何も傷つかなくて済むから」
静かな語りだった。
でもその一言一言が、胸に重く響いた。
「けど……お前んとこ来て、ご飯出されて、“風呂入れ”って言われて……なんか、全部ぐちゃぐちゃになった。
本当は、ああいうの……嬉しいって、思ってたんだろうな」
「そっか」
「……なんで、ちゃんと話せんだろ。こんな夜だからか?」
蒼は小さく笑った。
「夜のせいだな」
「……蒼って、ほんとずるい」
「ずるいって言うなら、寝ろよ。明日も学校あるだろ」
「お前のせいで寝れねぇんだよ」
「じゃあ、俺のせいってことで。ほら、目ぇ閉じろ」
「……うん」
悠斗は目を閉じた。
ほんの少し、体の力を抜いたように見えた。
そして、眠るまでの短い時間。
ふたりのあいだに流れる空気は、静かで、やさしかった。
数日を蒼の家で穏やかに過ごしていた悠斗だったが、ある夕方。
玄関のチャイムが鳴り、蒼が対応に出ると、そこには見知らぬ中年の男が立っていた。
「この家に、“城田悠斗”って子がいませんか?」
唐突な名指しに、蒼の背筋が凍る。
「……誰ですか?」
「ちょっと関係者です。大事な話があるんです」
声は丁寧だったが、目は笑っていなかった。
背後で物音に気づいた悠斗が顔を出すと、その男は一瞬にして表情を変える。
「ほら……やっぱりここにいたか。勝手に逃げやがって」
悠斗の表情がさっと青ざめ、思わず後ずさる。
「……なんで……」
男が一歩踏み込もうとしたとき、蒼が間に立つ。
「この子は今、俺の家にいます。急に押しかけてきて、何のつもりですか?」
「……関係ないだろ、他人のくせに」
「関係あります。“他人”なんて言い方をするなら、なおさら、話す義務があるはずです」
睨み合う空気の中、悠斗がかすれた声で言う。
「やめて……蒼、やめて……この人、俺の……」
けれどその声は震えていて、最後まで言葉にならなかった。
蒼は、それだけで十分だった。
「悠斗。俺からは言わない。でも、今ここで“帰る”って言わせようとするなら……俺はお前を、守る」
しばらくの沈黙ののち――
男は舌打ちだけを残し、玄関を後にした。
その夜、悠斗は一言も口を開かなかった。
でも、背中を向けて寝ようとする彼の肩に、蒼はそっとブランケットをかけてやる。
「話したくなったら、聞くから。今は、無理しないでいい」
――それだけで、何かが救われる夜もある。
男が去ったあの夜。
悠斗はほとんど言葉を発さず、蒼の問いかけにも短く首を振るだけだった。
けれど、雨が窓を叩きはじめた深夜。
ふたり並んで敷かれた布団の上で、ぽつりと声が落ちた。
「……なんで、庇ってくれたの?」
蒼は目を閉じたまま、ゆっくりと答える。
「お前が震えてたから」
「それだけ?」
「それだけで、充分だろ」
しばらくの沈黙。
悠斗が、小さな声でつぶやいた。
「……あいつ、俺の保護者ってことになってるけど……本当は、ただの同居人。親も、もういない。引き取ってもらっただけ」
「……」
「金もないし、口答えしたら、すぐ怒鳴る。家の中、ずっと息詰まるみたいで……俺、何回も逃げたかった。でも逃げ場なんてないって、思ってた」
そこまで言って、言葉が途切れる。
それ以上は言わなくても、伝わった。
蒼は、そっと声を落とした。
「ここにいろよ。今だけじゃなくて、これからも。……ずっとじゃなくても、ちゃんと自分で選べるようになるまで、俺のとこにいればいい」
「……それ、本気で言ってんの?」
「うん。俺、本気だよ」
返事はすぐには返ってこなかった。
けれど――
「……バカじゃん。お前」
そう言って小さく笑った声には、今までと少し違う“熱”があった。
その夜、ふたりの間に、静かだけれど確かな「約束」が生まれた。
あの日、悠斗の“保護者”を名乗る男が突然家に現れてから、蒼の中ではずっと考え続けていた。
――このままじゃいけない。
悠斗がもう一度、怯えなくてすむ日常を取り戻すためには。
そして、ある日。
「悠斗。話がある」
放課後、誰もいない教室で蒼は真剣な顔で切り出した。
「……あの男、通報しよう。今のままじゃ、お前がずっと縛られたままだ。怖いのは分かってる。けど、俺も一緒に動くから」
悠斗の手が、わずかに震えた。
「……でも、俺が話したって、信じてもらえるか分かんないし……どうせ、何も変わらないって……」
「変わるよ。変えよう。お前が話すって決めたら、俺も担任にも、信頼できる大人にも、全部話す。証言も証拠も、集めよう」
そのまっすぐな目を見つめて、悠斗はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと――首を縦に振った。
それからの数日は嵐のようだった。
蒼と担任が連携し、児童相談所と警察に連絡。
悠斗は勇気を出して、これまでのことを全て話した。
日常での暴言や威圧的な態度、家庭内での扱い――それらが虐待にあたると判断され、男は正式に通報・調査対象となった。
決してすぐに片付く話ではなかった。
けれど、動き出した何かは確かに“終わり”に向かっていた。
「……怖かったくせに、強がってんだな、俺」
放課後の帰り道、悠斗が苦笑した。
「強がってたんじゃなくて、頑張ってたんだろ」
蒼がそう返すと、悠斗はふっと笑って、歩調を揃えた。
「俺さ、前は……全部、誰かに見られるのがイヤだった。バレるのも、助けられるのも、恥ずかしくて。でも今は……」
「今は?」
「……お前には、見てほしいって思う。弱いとこも、ダサいとこも。全部」
蒼の手が、そっと悠斗の指先に触れた。
何も言わず、ただそのまま、つないだ。
遠くで、陽が沈んでいく。
でもその空の下、ふたりは確かに前を向いていた。
過去に縛られない未来へ。
ここから、ふたりの本当の“はじまり”が始まる。
──おかえり。そして、ようこそ。
新しい居場所へ。
(完)