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車の警告音に続いて、甲高いブレーキ音が響いた。
雪はまだ降っていない。
黒のコートに黒のマフラー、手袋まで黒。黒尽くめの男は、黒のリクルートバッグを持って、駅へと入ってきた。
男は近くの古いベンチに腰掛けた。
田舎の寂れた駅には、駅員が一人いるだけで、男のほかに汽車を待つ乗客はいなかった。
汽笛の音はまだ聞こえない。
「今夜は冷えますねぇ」
駅員が男に話しかける。
「最終便は、何時発ですか?」
男が問う。
会話をする気はないな、と駅員は思ったがおくびにも出さず、にこにこ愛想笑いを浮かべて、手元の懐中時計を開いた。
懐中時計の針がぐるぐる回る。
「42時44分発ですよ。もうじきですねぇ」
男は手元のロレックスの時計に目をやった。
時計は、ガラスにヒビが入り、2時42分の箇所で止まっていた。
「時計が壊れてしまったようだ。あと何分です?」
「あと98分です」
「1時間以上あるのか…」
男はため息をついた。
駅員は笑った。
「最近の若い方は待つのが苦手なようだ。たったの98分ですよ?」
「1時間38分。長い待ち時間だと思いますがね」
男はムッとして、駅員を見た。
その時、男は駅員の顔の左半分に大きな痣をみて取った。
男の視線に気づいて、駅員は苦笑いする。
「昔、事故でねぇ…」
男はきまり悪そうに目を逸らした。
「俺の兄貴にも、そんな痣があったそうだ」
「ほう…」
駅員が興味深げにうなづいた。
「お兄さんは、お怪我でも?」
男は首を横に振った。
「俺が生まれる前に死んじまったから、写真でしか知らん。5歳のころにやけどして、左半身がただれたらしい。9歳まで生きてたらしいが、崖から落ちて死んだらしい」
「それは、ご愁傷様。」
駅員の声には、弔いの響きも、悲しみも無かった。
どこか楽しそうにさえ聞こえた。
駅員はしばらく遠くを見ていたが、ゆっくりと男の隣に腰を下ろした。
「どこまでお生きなさるんですか?」
「地獄谷まで。妻と約束をしていてね…。」
「おや、それはまた…あっという間だ」
男は首を捻った。
駅への道を尋ねた男からは、地獄谷までは、汽車で8時間かかると聞いていた。
「8時間があっという間かね?」
男の声には不機嫌さが見えていたが、駅員は笑った。
「たった8時間じゃありませんか。」
「あんたとは、時間の感覚が違うようだ」
「お急ぎなさんな」
駅員は男に優しくほほ笑んだ。
「急いでも、ゆっくりでも、そこにはたどり着けるんですから」
汽笛の音が聞こえてきた。
駅員が立ち上がる。
汽車はどんどん近づいてくる。
焼けるような匂い。
甲高い汽笛の音。
ブレーキの轟音。
汽車が止まった。
男が鞄を持って立ち上がる。
「乗りますか?」
駅員が問う。
男は躊躇った。
「ゆっくりいくのも、いいもんだよ」
駅員の声が聞こえた。
男は汽車へと乗り込んだ。
「…そうか。」
駅員は悲しそうに手を振った。
汽車は走り出した。駅員は懐中時計を閉じた。「急ぐことはなかったんだよ…。俺は…………」
−パチン
−病院で、男が妻と三人の子どもに見守られて息を引き取った。
医者が男の脈を取り、時計を見た。
−22時42分。