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夜半過ぎからポツポツと雨が降り出した。その雨脚は徐々に強くなり、夕方に繁華街まで飲みに出掛けた客は思わぬ天候の急変で次々にタクシーへと乗り込んだ。西村の《《営業用》》携帯も始終ダースベイダーのテーマ曲が鳴り、得意先の飲み屋への配車が続いた。
(こりゃぁ、朱音の迎えは無理だな)
朱音とは ”予約が埋まっている時は行けない” ”送迎中は電話には出られない” と約束していた。彼女がそれを憶えているか如何かは不確かだが待ち合わせの時間に|106号車《俺の車》が迎えに来なければ、直接北陸交通まで電話を掛けるだろうとそう思っていた。
けれど朱音が北陸交通に電話をし、配車の依頼をする事は無かった。
加賀市山代温泉の道路にも激しい雨が打ちつけていた。24:30には加茂交差点の牛丼屋に西村のタクシーが迎えに来る。朱音はユーユーランドの送迎用ベージュ色の軽トラックの中に居た。
「金魚ちゃん、これまでお疲れ様。今日まで働いてくれてありがとうな」
「ううん。”おじいちゃん”いつもありがとう」
「寂しいなぁ」
「元気でね」
軽トラックの荷台にザアアと雨のカーテンが旗めいた。
「これ。少ないけどワシからの餞別じゃ」
「え。良いの?」
「良いんじゃ、ばあさんには内緒じゃ」
「ふふふ」
「じゃあな」
「”おじいちゃん”元気でね」
「金魚もな」
軽トラックのドアを開けようとした朱音は吹き付ける風雨で一瞬怯んだ。手に持った赤いワンピースが入ったピンクのショップバッグが飛ばないように胸にしっかりと抱えた。
桜色の髪の毛が舞い上がり、白いワンピースにグレーの斑点を作る。
バタンと大きな音が助手席のドアを閉め、中の男性が軽く手を振る。
ハザードランプを2回点滅させたベージュの軽トラックは交差点を右折し、ごうごうと流れる用水路に沿って見えなくなった。
父親が作った借金200万円、内40万円は西村から借り、(株)ユーユーランドへの利息分は今日で全て返済し終えた。
これで朱音は晴れて自由の身となったのだ。明日からは西村と幸せな日々を積み重ねて行けるのだと彼女の胸は高揚した。
牛丼屋の軒先で西村が運転するタクシーの到着を待とうか如何か悩んだが、あまりにも雨風が酷く吹き付けたので店内でいつものチーズ牛丼を食べる事にした。
温かい丼に手を添える、この時間も今日でお終いだ。
24:10
黒い箸を2本手に取り、牛肉の上にとろける黄色いチーズをすくおうとしたその時、ウィンカーを右に出したタクシーが牛丼屋の出入口に横付けするのが見えた。
「ごめんなさい、ご馳走様でした!」
朱音は食べ掛けの牛丼の湯気もそのままに自動扉を踏む。それが開くまでの時間がまどろこしい。バタンと後部座席のドアが開く。
タクシーの車体が強風でゆらゆらと揺れ、朱音の桜色の髪の毛も白いワンピースも空に舞い上がった。
「西村さん、雨、すごいね!」
片手を突いて尻を運転席の後ろまで移動させるとドアがバタンと閉まった。
いつもの明るい返事がない。
鼻先にいつもと違うムスク系の匂いがする。助手席の乗務員証を見るとそれは西村ではなく、見知らぬ人の顔写真の隣に《《太田和彦》》の名前が有った。
「・・・・・え。西村さんじゃないんですか?」
すると色黒い顔の坊主頭、横に細長い黒縁眼鏡を掛けた強面、屈強な上半身の男性ドライバーが振り向いた。
「《《金魚》》さんですね?」
朱音は訝しそうな表情で頷いた。
「西村に頼まれたんですよ。あいつ、風邪ひいたみたいで今日は休んだんです。代わりに私が迎えに来ました」
「・・・・そうなんですか?」
「はい。あいつとは同期で気が合うんですよ。聞いてませんでした?」
「え、いえ」
太田は料金メーターを入れるとシフトレバーをドライブに落とし、ウィンカーを左に上げアクセルを踏んだ。その勢いで朱音の上半身は前後にガクンと揺れ、思わず「あっ。」と声が上がる。それでもそのドライバーは無言でハンドルを握っている。胸に抱えていたショップバッグを足元に置く。
112号車は国道8号線を金沢市方面に向かって走らせていたが寂れた交差点でウィンカーを右に出し、いつか西村と通った山間の加賀産業道路へと進んだ。後続車も居なければ対向車が来る気配もない。
暴風雨の中、太田と朱音を乗せたタクシーは暗闇の中を走り続ける。聞こえるのは屋根を打ち付ける雨、車体をさらう暴風、激しく左右するワイパーの音だけだった。
「・・・あの」
朱音はその小さな口をパクパクさせた。ルームミラーには前だけを見つめる黒縁眼鏡が緑色のメーターパネルの明かりに照らし出され、不気味に映る。
「何でしょうか?」
横長のそれからは表情が読み取れない。
「あの・・・・何でこの道を走っているんですか?」
「この道?」
「はい。遠回りだって、西村さんが言っていました」
ワイパーが、フロントガラスに張り付いた茶色い枯れ葉をギュギュギュとゴムの音を鳴らし除けようとしている。
「遠回りですか?」
「国道、ガラガラに空いてましたよ」
「あぁ、国道8号線ですか?雨で”手取川大橋”が通行止めだったんです」
「・・・・・そうですか」
1日おきに口にしていた”手取川大橋”が通行止めだと言う。それではこのタクシーは何処に向かっているのか?朱音のごくんと唾を飲む音すら聞こえそうな静寂。ここは暴風雨から断絶されたいわゆる移動する密室状態だった。
「《《金魚》》さんってデリヘル嬢なんですってね」
「え」
「名刺、拝見しましたよ」
一瞬の間。
「もう・・・辞めました」
「えぇ、残念だなぁ、僕もお願いしたかったなぁ。西村みたいに」
思わず座席に突いた朱音の指が震える。
「何、何の事ですか?」
「いつも《《して》》たでしょう?タクシーの中って狭くないですか?」
「え」
ルームミラー越しの黒眼鏡の奥、鋭い目が碧眼の目を捉えた。
「この前は卯辰山の駐車場でセックスしてましたよね、何回目かなぁ。1、2、3回目でしたっけ?あそこって穴場なんですかね。屋外でのセックスって気持ちいいんでしょうね」
「何で」
周囲が田畠に囲まれた真っ暗な交差点に差し掛かると黄色信号がぱっと赤信号に変わりガクンとブレーキが踏まれた。その反動で上半身が前に乗り出してしまい、朱音は慌てて下半身に力を込め背中を背面シートに付けて出来る限り運転席から離れようとする。タイヤが回る音が止まり、エンジンがドルンドルンと震える音、激しく左右するワイパーの音が耳にうるさい。
「・・・・なんで、そんな」
ヴアンヴアンと耳鳴りがする。喉が渇く。何故この男がそんな事まで知っているのか?
朱音は白いワンピースのスカートをぎゅっと握り締め、バックミラーから目を逸らして思わず顔を赤めた。唇がワナワナと震える。
「あぁ、西村、自慢するんですよ。|内《なか》の締まりが良くて最高だって」
「・・・・・そ、そんな事、西村さんが言う訳ない!」
「えぇ、そんな事有るんですよ?みんなの前で自慢してましたよ」
太田の口元が卑しく歪み、嘲るように鼻先で笑う。歩行者専用信号の赤が点滅し、パッと青信号に変わった。太田はヴオンとアクセルをふかして急発進するがそれはとても荒々しく、タクシーの利用客を乗せている様な運転ではない。それでも料金メーターはパタパタと時間を刻み、黄色信号が点滅する交差点を幾つか通り過ぎた。
「西村の家、知ってます?」
「知りません」
「北陸交通の近くに茶色い煉瓦の10階建てのマンション、あるんですよ」
朱音の脳裏に浮かぶ《《自宅》》からの景色、ドン・キホーテの看板の向こうに確かにある。その近辺では唯一の高層マンションだ。
(・・・・あぁ・・・確かに・・ある)
「あそこに西村の家、あるんですよ」
「そ、そうなんだ」
「何階かは知りませんが、花火が良く見えるって自慢してましたね」
激しい雨風の向こうにはポツポツと明るいLEDの電灯、目の前に黒い何かが迫って来る。叩きつける雨、緩い坂道を上るとそれが何かようやく分かった。
西村が教えてくれた”川北大橋”だ。暴風に抗うように橋の上をタクシーはスピードを落としてノロノロと走る。
「西村、あいつマンションに引っ越す前はボロいアパートに住んでいたんですよ」
「・・・・そうですか」
助手席側に移動すると”手取川”が濁流となって渦を巻き両岸に生える樹木を押し流さんとばかりに、ごうごうと唸っている。
「嫁さんに子どもが出来たんでマンションに引っ越したんですよ」
「・・・・・え?」
朱音は自分の耳を疑った。太田が何を言っているのか理解出来なかった。
「嫁さん居るのに、こんな若い彼女が居るなんて羨ましいなぁ。」
「・・・・・嫁?奥さん?
「あれ?知ってて不倫してたんじゃ無いんですか?」
「・・・・・不倫?」
「あいつ、結婚してますよ?」
「・・・え」
太田の運転する112号車は突然ハンドルを右に切り、”川北大橋”の土手の上を500m程進んで停車した。