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#王子
#シリアス
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志進様が北の空へと発ってから
広大な九条家の屋敷は、まるで命の火が消えたかのように寒々しく静まり返った。
庭園の枝垂れ桜はすでに満開の盛りを過ぎ、春風が吹き抜けるたびに
狂おしいほど美しく、そして残酷なまでの速さで地面を白く染めていく。
私は、彼が去り際に私の掌へ遺していった
あの重みのある封筒を抱きしめたまま、自室の文机の前で幾夜を明かしただろうか。
「…開けたくない。これが最後の手紙になるなんて、認めたくない……っ」
独りごちる声が、震えて虚空に消える。
けれど、読まずにはいられない。
彼の魂がそこに閉じ込められているのなら、私はそれを引き受けなければならないのだ。
意を決し、氷のように冷たくなった指先で封を切る。
中から現れたのは、上質な和紙に、彼特有の端正な筆致で綴られた数枚の便箋だった。
そこには、冷徹な軍人としての事務的な「遺産相続」や「婚約解消の手続き」が整然と並んでいるはずだった。
……けれど、私の目に飛び込んできたのは、それとは真逆のあまりにも身勝手で
あまりにも切実な、一人の「男」としての独白だった。
『桜子。これを君が読んでいるということは、おそらく僕はもう、君の側に帰る術を失っているだろう。
これまで、君を「義務」や「正しさ」という冷たい言葉で縛り続けてきた僕を、どうか許してとは言わない。
本音を言えば君が僕以外の男と歩く姿を想像するだけで、視界が真っ赤に染まるほど、浅ましい嫉妬に狂っていた。
君が僕に微笑みかけてくれるたび、僕は「高潔な婚約者」という仮面をかなぐり捨てて
君を僕だけの腕の中に閉じ込め、二度と外の世界へは出したくないと……そう願わずにはいられなかった』
「…嘘。そんなの、一度だって、言ってくださらなかったのに……っ」
溢れ出した涙が視界を遮り、文字が歪んで滲んでいく。
手紙の後半に進むにつれ、整っていたはずの字は乱れ、彼の抑制しきれない本音が剥き出しのまま書き殴られていた。
『軍人として、いつ果てるとも知れぬ死地へ赴く身でありながら
あろうことか僕は、君を、一人の女として愛してしまった。
もし僕が死んだあと、君の心に「真壁志進」という名の消えない楔を残したくはなかった。
君の未来を汚したくなかった。
だから、わざと突き放し、「義務だ」と嘘を重ねた。
けれど、本当は、死んでも君を誰にも渡したくない。
もし許されるのなら、生きて戻り、君のその白い指に、親が決めた呪縛ではない、僕自身の魂を懸けた誓いを贈りたい……』
手紙は、そこで無残に途切れていた。
記された日付は、あの激しい雨に見舞われた「図書室での雨宿り」の夜。
あの日、彼は至近距離で私を見つめながら
この狂おしいほどの情念を喉の奥へ無理やり飲み込んで、私を冷たく突き放したのだ。
「……バカな人。本当に、最低だよ……っ」
私は手紙を胸に強く抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
志進様が私を「義務」で愛していたのではない。
私を「愛しすぎていた」からこそ、彼は自分自身を「義務」という名の孤独な檻に、自ら閉じ込めていたのだ。
(まだ、間に合うかしら。……いいや、間に合わせなきゃいけない)
私は顔を上げ、立ち上がって鏡の前に立った。
泣き腫らして赤くなった目。
けれど、その瞳の奥には
これまでの受け身な令嬢にはなかった、静かで烈しい決意の炎が宿っていた。
彼が死を覚悟して、私のために戦地へ向かうというのなら。
私は私の全生涯を懸けて、彼をこの場所で待ち続ける。
そして、泥にまみれて戻ってきた彼を、今度こそ逃げられないように捕まえて
私の「本当の心」を、彼の胸に叩きつけてやるのだ。
私たちは、もう二度と「義務」という名の刃で
お互いを傷つけたりはしない。