1
冷房に煙が流されていく。車内に充満するタバコを気にせず、青井は細く息を吐いた。天井で雲みたいにわだかまった紫煙は青井の疲労そのものだった。ジンと目の奥が痺れるほど疲れていた。
「……みんな死ね〜」
通知が鳴り止まない。無線は途切れることなく物騒な会話を垂れ流している。
深くため息をつく。ここで休憩を取れればどれだけ良かっただろう。しかし真面目な警察官は辞められない。
青井はノソノソ腕をのばし、車の鍵を奥へ捻った。エンジンが唸り、シートが緩く振動する。カーナビの目的地を9274番地に設定する。ボブキャット・ヘイストだ。パトランプが明滅しアスファルトを赤と青に染める。
「1度本署に戻ってヘリ……。いや、ダウン多いしこのまま回収だけ行くか」
脳みそが愚鈍なものだから、独り言で手順を整理する。高速道路の街灯が青井の黒いズボンを照らしては過ぎ去っていく。
ぼんやりと瞬きをした瞬間。
衝突音が響く。
一瞬遅れて急ブレーキを踏んだ。前輪がガタンと何かに乗り上げて車体が大袈裟に揺れる。ヘッドライトが割れ、反対車線に転がっていくのが見えた。
「やっべ……」
一気に目が覚めた。脳みそから血の気が引いていく。鬼面の下に冷たい汗が流れる。焦りでドアハンドルが手から滑って、どうにか車を降りた。
ネジ切れた足が無機質な街灯に照らされていた。サンダルの溝はぬらぬらした赤黒い液体でいっぱいになっていて、褐色のつま先に斜めに引っかかっている。
ふくらはぎのBad Luckと書かれた刺青。青井はその足の持ち主を知っていた。
自慢げに笑う後輩が脳裏によぎる。
震える喉で名前を呼ぶ。
「――つぼ浦?」
「あい!」
「え?」
子供の声。車の下から小さなもみじの手が青井に手のひらを向けていた。
呆然とするうちに、オレンジ色のスモッグがずるりと這い出てくる。
「んしょ、おらーっ!」
子供は首を横に振って顔に着いたホコリを飛ばした。猫みたいによく手入れされた黒髪が風に揺れる。丸い額にペンで描いたような細い傷がいくつもついていた。
「だ、だれ?」
青井の呼びかけに子供はピタリと止まった。襟付きスモッグの胸元をギュウと握りしめる。柔らかな布地しにシワがよって、ピン留めされた名札を斜めに傾ける。花の名札には『たくみ』とひらがなで書かれていた。
「たくみ、つぼ浦……匠?」
クリクリした琥珀色の目が青井を捉えた。途端に、電灯を受けて光る粒がくしゃりと歪んで瞳の輪郭を溶かしていく。
火がついたように子供は泣いた。
「ひぐっ、ウァ、え゛ーん……」
真っ赤な顔でしゃくりあげながら、ヨタヨタフラフラ青井の方へ歩いてくる。青井は膝を着いて恐る恐る両手を広げた。熱い子供の身体は止まることなく青井の首にしがみつき、べったり全部の体重を預ける。
「ふぅ、グッ、ウー」
「えっ、エ、エ。 ……よし、よし。ごめんね、もう、大丈夫だからね。怖かったね」
「ごわぁっだぁ、さみしかったぁ……」
小さな背中をやさしくさする。子供はより一層大声で泣いた。シャツの肩が生暖かく濡れていく。
「つぼ浦、どっか痛いとこある?」
「ヴゥ……」
「つぼ浦ー? 」
「……おぇ?」
子供はドロドロの顔を上げて、自分を指さした。
「うん。痛いところある?」
「ない」
「良かった。自分のお名前言える?」
「たくみくん。みっつ」
舌っ足らずで、ほとんどタウミゥン、というふうに聞こえた。匠はピースサインを青井の鬼面にぎゅうぎゅう押し付ける。と、鼻水の垂れた顔でハッと何かに気づき真剣な顔で薬指を立てた。
青井は顎に手をあてられたまま、首を傾げた。何が起きているかわからなかったのだ。
「……苗字は?」
「つおーら! いつもありがとあいちけんかすがいよーちえんばらぐみで、ばななたべるゴリラ」
「惜しいなー。違うものとセットで覚えちゃったんだなー」
「ゴリラでもいい」
「お前は人間なんだよ」
「ゴリラがいい」
「なんで? 将来の夢なの?」
「ううん。しょーらいはな、ダンプカー」
「人間やめちゃうのは一緒かぁ」
「かめんライダーは?」
「え?」
「おなまえ。ふぁいず?」
匠はぷくぷくした手で青井を指さした。鬼面にカツンと小さな爪が当たる。
「ああ、なるほど。青井らだおだよ」
「あおー、い、らっ、……だぁ?」
「ソッレはちょっとまずいな! ら、だ、お。言える?」
「らでぁっ」
匠は両手で口を抑えて「いあい」とまたホロホロ泣いた。モニャモニャ母音ばかりで苦情らしきことを喋る。内容は分からなかったが、舌を噛んだらしい。
「言いにくい?」
喋る代わりに小さな頭は頷く。
「あー。じゃあ、ラディでいいよ」
「らでぃ?」
「うん」
「らでぃー」
匠は青井の右手を握って、いくつも涙の筋を残したままニコニコ笑った。ベトベトの手を青井の袖で拭い、ロープみたいに足を引っ掛けてよじ登る。青井はずり落ちそうな重たい尻を支えてやった。
「よしっ」
ヘルメットの角を掴んで、匠は青井の両肩に足を乗せた。肩車だ。まっすぐ前方を指さし、「はしれかめんライダーかぜのように!」とナポレオンのように仰け反った。反りすぎて頭から地面に落ちかける匠の足を、青井はギリギリで掴む。
「あっぶな 」
「こうもり」
「馬鹿、次やったら怪我させるよ。グーで」
「やだ」
「ヤダじゃないよ本当にもう」
「まったくしょーがないぜ」
「俺のセリフね」
「なぁ。らでぃ、あれなに?」
「イ゛ッ」
匠は鬼面の角を引っ張って、青井の頭を反対に向かせた。首からグキッと嫌な音がする。
「らでぃー」
「お前っ、降りろこらこのっ」
「ぐわーっ!」
青井はクレーンゲームのアームみたいに匠の脇を掴んで「コラー!」とひっくり返した。黒髪が地面すれすれをなぞる。そのまま持ち上げれば、子供らしい高い声できゃあきゃあ笑う。
「ぎゃーっ! ようじぎゃくたい! おおきなこえだすぞ!」
「もう既に大声だけどね」
「バナナーッ! パンーッ! なんか、あの、あの、きいろいケーキー!」
「本当にシンプル大声」
助けを呼ぶとかじゃないんだな、と青井は思った。
「で、何が気になったの?」
「あれ」
「あー」
街灯の下、無念そうに転がる太もも。つぼ浦の残骸を指さされ、青井は首をさすった。
「事故現場、というか、未来の……」
「みらいの?」
お前、と言えず青井の目が泳ぐ。
「……ドラえもんかな」
「ふぅん。ラディのほうがあおいな」
「うん。ねえつぼ浦、ちょっと目瞑って待てる?」
「おれ?」
「うん。あ、そうか、タクミクン」
「たくみくん、できりゅい」
「なんて?」
「できないなんてこともないこともないのはんたい」
「どっち?」
「おてて」
「ん?」
「にぎってたら、できるかもなー」
匠はすました顔で地面を見ながら言った。俯いたせいでふっくらとした頬の丸みがよく分かる。小さな肩がソワソワ動いて、青井の手が差し出されるのを待っていた。
「うわっ可愛い。つぼ浦のくせに」
「にぎってくれないと、パッチリおめめでまばたきもしないぜ」
「そういうところは変わんないね。ほら」
「うん」
黒いレザーグローブをつけた大人の左手を、子供の両手が嬉しそうに握った。
「いいよって言うまで目を瞑ってて」
「いいよ」
匠は目をパッチリ見開いた。
「違う! お前子供の頃から揚げ足取りしてたの?」
「からあげ? ほしい」
「終わったらね。はい、目瞑って」
「ン」
ぎゅむっと顔の真ん中に力を入れて、ようやく匠は目を瞑った。
青井は匠の前で手をヒラヒラ振ってから、ゆっくりアスファルトに膝を着いた。フラッシュライトのスイッチをカチリと押し込む。唾を飲みパトカーの下を照らした。
そこには誰もいなかった。
タイヤの内側に凄まじいほど血液が付着していて、確かにつぼ浦を轢いた証拠だけが残っている。焦げたブレーキ痕の周りに血痕が不規則に地面にばらまかれていた。
青井はライトを消してつぼ浦の足を拾った。肉塊はまだほのかに生暖かく汗と血で湿っている。
やはり、近くにつぼ浦の体は無い。
「まじかぁ」
ふっと街灯が消えた。夜明け前、町中が一番暗い瞬間だ。あたりが闇に包まれる。
体が鉛みたいに重たくなった気がした。
つぼ浦がどこかに行ってしまった不安、自分のせいだという自責。ほんの少し気をつけていればという後悔。幼い匠に対する疑念。
途方に暮れる青井の手を匠がぎゅうと握った。
「ラディ、まだ?」
熱く、やわらかで小さい子供が、青井を見上げていた。綺麗な茶色い瞳の輝きは大人のつぼ浦によく似ている。
青井はしゃがんで匠と目を合わせた。
「……目、まだダメだよ」
「あっ。あけてないぜ」
「うん。もうちょっとね」
子供の握る左手だけがよすがのようだった。青井は車のトランクにつぼ浦の足をしまった。
「もういい?」
「いいよ」
「ワーッ!」
「じゃ、パトカー乗って」
「おれ、はじめてのる。からあげある?」
「ない」
「えっ。ならおれはなんのためにじっとおとなしくまってたんだ」
匠が眉に皺を寄せて一丁前に文句を言った。それがつぼ浦そのまんまで、青井は思わず笑ってしまった。
「ドライブスルーで買ってあげるよ」
「やりいー! ちょれぇー! ありがとおー!」
「誰がちょろいだこら」
「ラディ」
「はい、付け合わせのサラダ購入決定ー。牛乳と合わせて完璧な朝食だからね」
「ぐわー!」
匠はあおむけに両手を広げた。が、よく考えれば子供の健康に配慮した素敵な食事というだけだ。青井は素知らぬ顔で鍵を回してエンジンをかけた。
「シートベルトした?」
「おう」
「よし。出発ー」
「おー!」
匠がニコニコ笑って拳を上に掲げた。青井はハンドルをきって警察署に向かう。
下から登る、明るい光が差し込んだ。朝日だ。
「まぶし」
「サンバイザー出していいよ。上にあるやつ」
「これ?」
「そう。届く?」
「うん。ラディもまぶしい?」
「そうだね」
「おれ、しってるぜ。サンザイバーだしていいよ」
「なんて? もう一回言って?」
「サンザンバーだしていいよ」
「サンバイザーだよ」
「バンザイザー?」
青井はハンドルを叩いてゲラゲラ笑った。
何が起きているのか、どうしたらいいのかも分からない。ただまあ、なんとかなるだろう。ここにいるのは子供でもコメディなつぼ浦だ。
2
青井は市長室の机にA4サイズの紙を1枚置いた。真っ白いコピー用紙には、英数字が2行だけ印刷されている。一言一句違わぬ短い羅列は、『つぼ浦』と『匠』のDNA鑑定の結果だった。
「指紋も一致しました。あれ、大人になっても変わらないものなんすね」
キイ、とぶ厚い背もたれが回転する。
「あの子供は間違いなくつぼ浦匠、ということだね」
革張りの椅子に体を預けて、山下は「まいったな」と呟いた。
「歪みー、とかなんすか?」
「多分そうだろう。ただ、体が若返ったわけではない、と、思うんだけども」
「曖昧だなぁ」
「前例がないからなんとも言えない。ただ、事故現場に足が残っていたんだろう?」
「あー、ハイ。病院持ってっちゃいましたけど」
「うん。もし若返りなら、子供になっても足がちぎれたままなんじゃないかと思ってね」
「はぁ」
「まあ、これ以上は推測に推測を重ねることになるからね。進展があり次第連絡するよ」
「……って、ことは、子供のつぼ浦の面倒は」
「彼の身内も神出鬼没だしねぇ」
机が叩かれる。青井が前のめりで身を乗り出して、山下の顔に影が落ちるほど鬼面が近づく。
「うちで引き取っていいんすか」
「おぉ、積極的だね。日頃の恨みでも晴らすのかい?」
「まさか。そうできるほどほど無責任だったら楽でしたけどね」
「苦労人だ。任せたよ対応課くん」
山下は微笑んで青井の肩に手を置いた。
鬼面の隙間から長い息を漏らし、青井はようやく背中の力を抜いて座った。
「……それは庇護欲かい?」
「え?」
「随分感情的だからね、気になって」
「俺が、あの子に?」
「うん」
「さぁ。まあ、可愛いですから」
青井は自分が思っているよりもはっきりした声で言った。つぼ浦への罪悪感だとか、不安だとかを考える前に言葉が口をついて出た。
「可愛い?」
「可愛いでしょ。あんなに一生懸命で、小さくてもちゃんと無茶苦茶なつぼ浦で」
「そうかなぁ」
山下が顎に指をあて、首を傾げた。
「ちなみに、彼は今どこにいるんだ?」
「え、廊下のベンチで唐揚げ食べてると思う」
「へえ、唐揚げを。一人で?」
「はい。一人ですね」
「一生懸命で無茶苦茶なつぼ浦が一人で」
「……」
「……」
山下と青井は顔を見合わせた。脳裏に過ぎるロケットランチャー、爆発、炎上、逃げ惑う市民、乱射されるマシンガン、ギャングの怒声――。たらりとこめかみから汗が垂れる。
「……イヤイヤイヤ、まさか、3歳の子供ですよ、ねえ」
「ハハハ、ハハ、そうだよなぁ! まさか、なぁ」
何の変哲もない木製の扉が、なぜだか禍々しく感じられた。
「市長、俺急に動けなくなっちゃったんでドア開けてくれません?」
「いやー急な要請入っちゃったなTPしなきゃ」
「させるかっ、逃げるな卑怯者!」
「押し付けるんじゃないよ市民を守る警察だろ!」
「市長は市民に含まれんすか!?」
お互いに指を向け、醜い争いに注意が削がれた一瞬。
「匠くん、GO!」
「うぉー!」
「ウワァァア゛ア゛!」
「ギャーッ!」
スモークグレネードが投げ込まれ、あたりは白い煙に包まれた。
「カニくんカニくん、うわーっ、って。ギャーだって!」
「やりましたね、イエーイ」
「いえー」
鼻を突く刺激臭に青井は咳き込んだ。
真っ白い煙の奥からマスクをつけた匠が現れて、青井の足にしがみつく。
「ラディ! びびった? うぎゃーっ?」
「ゲホッゴホッ」
「まずい! ラディしぬぜカニくん!」
「わははは。ザマァないっすねらだお先輩」
カチャンと窓を開ける音がして、秋のそよ風と共に煙が引いていく。明瞭になった視界に紫髪のペンギンが映った。
「子供1人残して話し合いはダメでしょ。ねえ? 迎え来てビビりましたよ流石に」
「あー、うん。ごめん」
「ゆるしてやれカニくん。ラディもなきながらミミズみたいにはんせいしてる」
「ミミズみたいな反省ってなに?」
「じめんをはいつくばってのたうちまわるようなはんせい」
「匠くんぎりぎり悪口っすよそれ! ミミズだって一生懸命生きてるんだから!」
「たしかに……! ミミズ、ラディとどーれつにしてごめん……」
「俺の事ミミズ以下にしたな」
「きゃーっ」
フニフニの頬を両手で挟んでもみくしゃにする。匠はきゃあきゃあ笑って足をジタバタさせた。口がイの形になるまで引っ張って、ぱちんと離す。
「らだお先輩このビジュアルは事案です」
「うるさーい」
力二の首にガッと腕を回して、ペンギンの中に手を突っ込み顎をこしょこしょくすぐる。
「んははははっ! ぎゃー!」
「やめろー! カニくんをはなせラディ。ごらんしんだーっ」
「先輩からの有難い指導だよ。反省したか2人とも」
「してないししようともおもわねぇ!」
「したした、俺は反省しました」
「じゃあ後お前だけだねぇ」
青井は両手を口の端に当てて、クチバシみたいにワキワキ動かした。
「ちくしょう。おれはさいごまでていこうするぞー!」
「劇場版? どこで覚えてくるのそういうの」
「きんょおーどーろしょー」
「らだお分かる?」
「全然わかんない。……てかあれ、市長は?」
「あれ?」
「あ」
匠がヨチヨチしゃがみこんで、一枚のカードを拾った。両手で端を持ち青井に見せる。
「ラディ、よめ」
「命令形なんだよ。えーっと」
赤い縁取りのトレーニングカードには、キメ顔の山下と『何処にでもいて、何処にもいない』という文字が書かれていた。
「逃げたなあの野郎」
「にげたなやろー」
「逃げられましたねぇ」
「おいかけるか?」
「んー、まあいいや。帰ろう」
「きたーく!」
「帰りますか」
匠が青井の右手に飛びついた。胸の辺りで抱きしめて、頬までぺたりとくっつける。子供の体は柔く、熱かった。
「カニくんも、て!」
「ハイハイ」
力二の腕もまとめて抱きしめ、匠は嬉しそうに笑った。
重たい荷物を片手で抱えた時のように腰を折り、青井と力二は顔を見合わせた。
「可愛いですねぇ」
「可愛いよね」
「これがいつかつぼ浦さんになるなんて」
「確かに、信じられないかも」
「グレちゃったんですかね」
「さぁ」
「あ、このままロスで育ったら素直なつぼ浦さんになるかも?」
青井が何かを言う前に、匠がぐっと2人の腕に体重をかけた。
「ラディ、カニくん、かえるぜ。はーやーくー」
「はいはい、今ね。何お腹すいたの?」
匠は俯いて膝をモジモジさせた。
「……といれ。……もれる」
バッと匠を脇に抱え、青井は走った。
「成瀬ナビ! 市役所のトイレ!」
「右曲がって突き当たり左手側!」
「間に合えーッ!」
ちょっと間に合わなかった。
3
「匠くん、機嫌直してくださいよぉ」
「おれはいつでもごきげんだぜ」
「甘いものあるよ、あ、ほら彼処唐揚げ屋さん。さっき食べたとこだよ」
「しばらくごはんたべないもん……」
パトカーの後部座席に顔をくっつけて、匠は寝っ転がっていた。履いていたズボンはシートに干されついさっきの粗相を隠しもしない。代わりに買ってもらった新品のズボンが恥ずかしくて、匠は窓の外も見ず拗ねていた。
「あ、海」
「いつもみてる……」
「えーっと、あ、遊園地」
「……ゆーえんち?」
青井と力二は顔を見合わせ頷いた。
「あのキラキラの看板見えるかな」
「ジェットコースターありますよ。あとほら、観覧車も」
「ポップコーンも風船も売ってるよ」
「すっごく楽しいところなんで、匠くんもきっと気に入りますよ」
「……」
匠が頭をあげた。
「あー、らだお先輩。俺遊園地行きたいなぁ〜」
「ダメダメ、成瀬大人でしょ。小さい子と一緒じゃなきゃ行けないよ」
「えーん、誰か一緒に行ってくれる優しい子いないかなぁ」
「そんな親切でカッコいい子見てみたいなぁ」
「……」
匠の足がパタパタ動く。もう一押しと力二はペンギンの下でほくそ笑んだ。
青井が赤信号で止まって振り返る。
「遊園地で遊びたい人手あげてー」
「はーい」
力二が高々手を挙げて、すがるように匠を見る。
匠はニコニコしそうになる顔を抑え、唇を尖らせていた。渋々というように体を起こして、短い腕を組む。だが小さな足は正直で、楽しそうに揺れていた。
「……しょおがねーなー。はーい!」
「じゃあ皆で行っちゃおうか」
「イエーイ!」
勢い良く匠は両腕を上げた。伸ばした力二の手とハイタッチして、ドキドキワクワク青井の座席にしがみつく。
「どれくらいでつく? もうゆうえんち?」
「次の角曲がったら到着だよ」
「匠くん、着いたら何したいんすか?」
「ふうせんもらって、ジェットコースターのって、かんらんしゃでポップポンたべる」
「いいねぇ」
「ラディもいっしょ!」
「エッ匠くん、俺は?」
「もちろん、カニくんももってく」
「……お前さ、コレなんだと思ってるの」
「でっかいカニのぬいぐるみ」
「ダハハハハ」
「んふふふふ」
「なんだよー」
「良く知ってたなって」
「匠くん物知りっすねぇ」
「だろー」
匠はニッと得意げに笑った。
太陽の光を浴びて海はキラキラ輝いていた。吸い込まれそうなほど高い空に、派手な看板が良く映える。
匠は小さな指でピンクと白の入口をさした。
「おれわかるぜ、アロハベッドだあれ」
「おー、じゃあなんて書いてあるか分かる?」
「うん。いってやれカニくん」
「DEL PERRO PIERです」
「せいかい!」
「あー……、意味は分かる?」
「うん、いってやれカニくん」
「デルペロピアです」
「せいかい!」
「桟橋ね、デルペロ桟橋」
「細かいことはいいんすよ」
「そうだそうだ」
駐車場に車を停めれば、匠は真っ先に降りて駆け出していく。小さな足音を響かせながら入口をちょっと見て、青井の足元へと戻ってきた。
「ラディ」
「ん?」
「ふーせんあった。ほしい」
「いいけど、ジェットコースターに乗る間は持ってちゃダメだよ」
「なんで?」
「危ないから」
「そしたらラディがもっててくれるの?」
「いいよ。下から手振ってあげる」
「ヤダ」
「えっ」
「いっしょがいい」
「あ、そっちか。何、成瀬と一緒に乗りなよ」
「んー……」
「高いところ怖いの」
「こわくない……こともなくもないのない」
「どっちだよ」
「ラディがいたらこわくない」
匠の目はキラキラ輝いてまっすぐ青井を見た。嘘もてらいもない信頼に胸が痒くなって、誤魔化すように匠の手を握る。
「じゃあ、風船は後回しね」
「うん。カニくんもいくぞ」
「ハイハイ。らだおのこと本当に好きなんすね匠くん」
「うん」
「そりゃまあ、俺性格良いし? 高身長、高学歴、高収入」
「おー」
「顔面土砂崩れ」
「かわいそうにな!」
力二は不意打ちを食らったみたいに腹を抑えてくつくつ笑った。
「ラディ、カニくんにこうかはばつぐんだ! いまのうちにしょうぶをしかけるぞ!」
「何するの?」
「おにごっこ! カニくんがおにーっ!」
匠はバシンと力二の尻を叩いて逃げた。腰が曲がるほど笑っていた力二は、「ぎゃ」と短く言ってまたドツボにハマったみたいに笑った。
「ラディにげるぞにげるぞ」
「だって。頑張れ成瀬」
「10数えたら追いかけますからねー!」
カモメすらも楽しげに鳴く。
青井は匠を肩車して、遊園地のキラキラしたアトラクションの間を走った。夕日が辺りを真っ赤に照らすまで、3人は遊んだ。
4
「結論から言おう。あの子供を轢き殺せばつぼ浦は帰ってくるよ」
「は?」
青井の口から鬼面にふさわしい真っ黒な声が出た。苛立ちのまま警察署の壁を殴る。市長の山下は眉ひとつ動かさず、同じことをもう一度言った。
「どういうことですか」
「言葉のままだね。あぁ、結果じゃなくて原因の方が知りたいのか」
書類を読み上げるように山下は淡々と言葉を紡ぐ。
「まあ、大まかにはいつもの歪みと考えてくれていい。20年前、つぼ浦匠は事故に遭っている。ちょうど事故と同じ日付、同じ時刻でね。ロスサントスのシステムが参照するセーブデータを間違えてしまったわけだ」
「そんなことはどうでもいいんですよ。子供を、あのつぼ浦を殺せって、本当に?」
「正確には交通事故の再現が一番確率が高い」
「確率って」
「他の死因でも構わないぞ。複数回ダウンすれば、あるいは戻ってくるかもしれないな」
「他の方法はないんですか」
「ない」
ごっと鈍い音がして気道をつぶすように青井の手が山下の首を握った。手と首の間でギチギチ革が軋む。鬼面の影が山下に暗くのしかかる。
「……本当に?」
「……」
パチン、と山下はひとつ指を鳴らした。瞬間、青井の背中一面に炎が立ちのぼる。思わずのけぞるほどの業火だ。死にそうなくらい熱いのに、山下は瞬きもせず優しく青井の肩に手を乗せた。
「私は嘘をつかないし、君は疲れている。一旦休んだ方がいい」
青井が崩れ落ちると同時に、炎は姿を消した。
「ゆっくりしておいで」
「……うす」
灰色の床に後頭部を預けて寝転がる。燃えた背中はもう熱の欠片も残しておらず、山下と言う男が人知を超えた力を持っていることを示していた。
吐く息とともに力を抜けば、ヘルメット越しにとたとたと近づく小さな足音が聞こえた。
「おいこら、ラディいじめんなー!」
「では」
閃光が走り、音もなく山下は消えた。一瞬遅れた匠がスライディングで飛び込んで、その場で地団太をふむ。
「にげやがった! ちくしょう。ラディ、だいじょぶか」
「うん。ありがとうね」
「よかった。びっくりしたぜ、ラディがぼわーって」
「俺もびっくりしたよ」
「たてる?」
匠が小さな手を差し伸べる。青井と比べるべくもない、ピンク色を帯びたか弱い手のひらだ。
市長の言葉が脳の内側でぐるぐると回っている。――匠を轢き殺せばつぼ浦は帰ってくる。
青井は匠の顔が真っ直ぐ見れなかった。唾が上手く呑み込めず、うまい言い訳も出てこない。黙って動かない青井の腕に、匠はぎゅっと抱き着いた。
「ラディ、おれラディのことだいすきだぜ」
「……何? どしたの急に」
「あのへんなのに、なんかやなこといわれたんだろ。でもね、おれがラディのことすきだからだいじょうぶ」
「うん」
「ラディはかっこいい! たよりになる! やさしい! いいやつ!」
弾むような子供の声だ。良く通る響きは大人になったつぼ浦と同じだった。
「もっと言ってー」
「えっとー、そだちがいい! あおい! うるさい!」
「違うねそれ」
「せいかくがごみ! ……ごみなのラディ?」
「うるさーい」
寝っ転がったまま匠の体を抱きしめて引き倒す。子供はきゃあきゃあ笑って青井の上に乗った。膝にのせて高く上げれば、膝飛行機の完成だ。
「おらー、離陸ー」
「きゃー!」
「着陸ー」
「わー。なあもっかい! もっかい!」
「もうお終い。唐揚げ食べるんでしょ?」
「たべる。ひこうきももっかいする。ひこうきでからあげたべる」
「チキンオアビーフってこと?」
「キャインバランランドだぜ」
「なんて?」
「あの、えっと、キャン、ビ……ダダンダダンダンダン!」
もうリズムだけだ。勢いの良い幼児語に青井は「うひひ」と笑って匠の頭を撫でた。
「……お前は可愛いね」
「おう。おとなになったら、かっこよくもなる」
「知ってるよ」
「ほんと?」
「うん。大人のお前は、格好良くて頼りになるよ」
「だろー」
匠は誇らしげに胸を叩いた。が、ハッとした顔で青井の顔をパンと挟む。
「いまもたよりになる!」
「えぇ」
「なる! いえ! なるといえ!」
「必死必死。どうしたの急に」
「なるもん。いまもたより、なるから」
茶色いキラキラした瞳が緩んで、ぼとんと大粒の涙をこぼした。堰を切ったように匠は泣き出した。
「なに、どうしたの。なに?」
嗚咽で喉をひぐひぐ鳴らしながら、合間合間に匠は小さい声で話した。
「おれ、かっ、がえりだくな゛い」
「……お家の人心配してるんじゃない? 寂しくないの」
匠は青井の胸に顔をこすりつけてイヤイヤと首を振る。小さな背中は不定期に息を詰まらせる。優しくさすって、続きを促した。
「いま、やっと、さみしくない」
「そうなの」
「らでぃといっしょがいいの」
縋るように匠は青井の服を握った。子供の体からはミルクのような懐かしい匂いがした。
「そっか」
何とかしてやりたいと思った。だがそれは、未来のつぼ浦を切り捨てる選択だ。
青井の心は決まっていた。
5
夜のロスサントスは煌々と明かりを灯していて、黒々とした空には間抜けな月ばかりが浮かんでいる。子供は寝る時間だった。青井はベッタリソファで大の字になった匠の丸い頬を撫でた。昼間に散々大泣きしたせいか、それとも懸命に生きているからか、匠の頬は花のように赤い。
匠はモニャモニャ寝言を言ったが、また深い息を吐いて眠り込んだ。夢でも見ているのだろう。青井は小さな身体の下に腕を潜らせ脱力した身体を抱えた。意識がない人間の常で、たった15kgが重たく感じた。
立ち上がった青井の肩をペンギン頭が掴んだ。
「どこに行くんですか」
「……成瀬」
「もう夜ですよ。こんな時間に出かけるなんて犯罪者みたいだ」
「そうだね」
「……市長の話、本気にしてるんですか?」
「……」
青い仮面は動かなかった。力二の指に力がこもり、青井の肩を強く握る。
「子供ですよ。それも、こんなに小さな! 轢くなんて」
「……でも、そうしないとつぼ浦が帰ってこない」
「ここにいるじゃないですか」
力二は青井の腕で眠る匠を覗き込んだ。3歳の小さなつぼ浦匠はふくふくと幸せそうに眠っている。
「らだお。匠くんは傷つかなくていいし、あんたも悪者にならなくていい。明日も明後日も、楽しく暮らしましょうよ」
「それで、いつか大人になったこいつと肩を並べようって?」
「はい。みんなが幸せになる一番の方法でしょう?」
「……でもそれは、つぼ浦じゃないよ」
「つぼ浦さんですよ。同じ人間なんだから」
「違う!」
青井が力二の手を跳ね除ける。叫び声に匠がビクッと目を覚ました。青井は気付かず、「つぼ浦は俺の後輩で、成瀬の先輩でしょ?」と続ける。青井の声は震えていた。
「あいつは向こう見ずな馬鹿で、滅茶苦茶で、それでも正義感に溢れてた」
「匠くんだっていつかそうなります」
「俺たちに囲まれた楽しい日々で?」
「ええ」
「でもそのつぼ浦は、きっと車で人を轢いたりしない」
寂しい声だった。匠は青井の顔を見上げたが、ヘルメットに邪魔されてどんな表情をしているかわからない。
「警察に向かってロケットランチャー打つような滅茶苦茶しないし、人に話しかけるのだって躊躇わない」
「……匠くんが大人になっても、俺たちが知っているつぼ浦さんにはならないと?」
「そうでしょ?」
力二は口をつぐむ。つぼ浦の育った環境はなんとなく知っていた。優しい両親に愛され、良い友人に恵まれ、しかしそのすべてが犬猫の類としか思えなかった少年時代。孤独と、申し訳なさと、いつか人間に出会う希望を抱き続けた二十数年の過去。
「俺たちはきっと子供のこいつを甘やかして、安心していいって育てる。自分をすり減らさなくでも出来る事があるって教えちゃう。大切にすればするほど、俺たちの知ってる気狂いとはかけ離れていく」
「……つぼ浦匠の幸せを望んでないんですか」
「なって欲しいよ!」
青井が吠える。
「でもそしたら、つぼ浦はどこに行くの。あの寂しい男は」
「匠くんが幸せになったら、つぼ浦さんも幸せになるとは思わないんですか」
青井の胸の内が力二には手に取るように分かった。青井は青井で、つぼ浦のことを真剣に考えているのだろう。その中には規律を重んじる警察官の正義と、つぼ浦を轢いてしまったしまった罪悪感と、触れられたくない秘密がある。
力二はその柔い部分にわざと爪を立てた。
「それがアンタの独占欲じゃないって言いきれますか」
「それは」
「つぼ浦さんはらだおに一番懐いてた。隣で見てたからよく分かる。アンタが本当に取り戻したいのは、自分を選んでくれたつぼ浦さんなんじゃないですか?」
「……そう、かもね」
力二は両手を広げた。
「匠くんを預けてください。つぼ浦匠という人間を本当に想っているなら、どうするべきか分かるはずです」
「……」
匠を抱きしめる腕に力が篭もる。理性では分かっているのに、心が渡したくないのだ。仮面の下に涙がにじむ。匠の体は熱くて、柔らかい。
「らでぃ、なくな」
小さな紅葉の手がヘルメットをペタリと触った。
「……泣いてないよ」
「うそだ。……ラディ、おれいいよ」
「何?」
「おうちにかえってもいい」
ひゅ、と青井と力二が同時に息を呑んだ。
「それ、お前意味わかってるの?」
「匠くん、すごく痛い思いするんですよ」
「いい! いたいのは、やだけど」
匠は青井の目をまっすぐに見た。陽の光によく似た、優しさと無垢ばかりを詰め込んだ無邪気な視線だ。青井の胸が潰されてぎゅうと痛む。
信頼を映した瞳が誇らしげにゆるく弧を描く。
「おれ、かっこよくて、たよりなるもん」
青井の喉がヒグと鳴る。
青井が匠に聞かせた言葉だった。酷いことを言わせてしまったと思った。立っていられないほど足が震えて、匠を抱きしめたまま膝をつく。柔らかい黒髪、壊れてしまいそうな小さな体。何もかもが違うのに、温かさは同じだった。簡単に自分を差し出すつぼ浦と匠が重なった。
「匠くん、本当にいいんですか。すごく痛いし、怖いですよ」
「カニくん。うん、いいぜ」
「ここにずっと居てもいいんですよ?」
「……ううん。かえる。ホントはいっしょがいいけど」
力二は匠の頭を撫でた。青井に抱きしめられたまま、匠はくすぐったそうに笑う。
「ラディ、おれ、おとなになったらあいにくる。そしたら、ずっといっしょにいて」
「うん」
「なくな! かめんライダーはなかない! 」
「ゴメンね。ごめん」
「ギュウするまでダメ」
青井は匠をいっそう強く抱きしめた。仮面の中は涙で濡れていて、顎からポタリと雫が落ちた。
匠は青井の胸に頬をくっつけてすんと鼻を鳴らした。苦くて甘い大人の匂いがした。しゃくりあげる青井の呼吸に合わせて体は不規則に揺れる。匠が大人だったら、この涙だって拭えるのに。
「……はぁ。車出しますよ」
「成瀬、ごめんね。本当にごめん」
「ホントだよまったく。まあ、2人が納得してるなら俺から言えることなんてないですけど」
「してるぜ、まかせろ!」
「ハイハイ。さーて、嫌なドライブと行きますよー」
「ちくしょう。おれはさいごまでていこうするぞー!」
「わはは。それさぁ、匠くんどこで覚えたの」
「きんょおーろーろしょー」
「らだお分かる?」
青井はヘルメットを脱いで、手のひらで頬を拭った。不格好に笑って、「全然わかんない」と何とか絞り出す。
陰鬱な気分が消えた訳じゃない。これから匠を傷つける運命は変わらない。でも、なんとかなる気がした。ここにいるのは子供でもコメディなつぼ浦だ。
6
高速道路の街灯は等間隔にポツリポツリと立っている。遠くで赤と青のパトランプが明滅していた。青井が合図を送れば、こちらに突っ込んでくる手筈になっていた。匠を轢き殺すために。
匠は唾を飲み込んだ。暗闇も、パトカーも、これから起きる痛いことも全部が怖かった。ドキドキする心臓が逃げろと叫んでいる。
体の命令に逆らうため、ぎゅっと青井の手を握った。黒い手袋をはめた大きい手が匠の小さな手を握り返す。それだけで勇気が湧いてくる。
「ねえ、お前……。あー、ちがうか。……匠」
「なぁに、ラディ」
青井がヘルメットを外して匠の頭に被せた。鬼の仮面は重たくて大きくて、グラグラした。
「しめってる」
「お前が大怪我しないためだよ、我慢して」
「んー」
匠はヘルメットを両手で何とか支えるが、頭の重さに振り回されてフラフラヨタヨタたたらを踏んだ。
「ぐくうぅー」
「んはは、しょうがないなぁ。ほら」
青井がしゃがんで両手を広げる。ぱっと匠も両手を広げて青井の胸に飛び込んだ。どん、と青井の肩に鬼の角が刺さって、「痛ぁい!」と悲鳴が上がる。匠はケラケラと楽しそうに笑った。
「向こうに着いたらお医者さんの言うことよく聞くんだよ。病院で暴れちゃダメだからね」
「んー」
「寂しいのは全部俺のせいにして」
「ラディのせい?」
「そう、俺のせい」
「んふふ。そらがあおいのも、パクチーまずいのも、ラディのせい?」
「うーん。まあいいや。俺のせい俺のせい」
「わはは。やったー」
青井がぎゅう、と匠を抱きしめた。匠も目をつぶって精一杯青井の体に手を回す。
「またね」
「うん。ラディ、だいすき」
子供の体からはミルクのような優しい匂いがした。夜風が青井の髪を揺らす。
匠の顔はヘルメットに隠れていたが、笑っているんだろうな、と青井は思った。きっと柔らかな頬は潰れて真っ赤になっている。
寂しがり屋の心に蓋をして、自分の痛みを厭わずに。
それがつぼ浦匠という人間なのだ。狂気と優しさの火種は小さな匠の中にもくすぶっている。
青井の知る、その炎に身を焦がす大人になって欲しい。向こう見ずな馬鹿で、滅茶苦茶で、それでも正義感に溢れてたあの男。
自分を一番に選んでくれるつぼ浦に。
一つ息を吐いて、青井は無線入れた。
『やって、成瀬』
パトランプが近づいてくる。エンジン音がする。匠を庇うように背を向けて、だけど目だけは逸らさなかった。
ヘッドライト白い光で視界がいっぱいになる。
あの日、つぼ浦が見た光景だ。
衝突音が響く。
力二は一瞬遅れて急ブレーキを踏んだ。前輪がガタンと何かに乗り上げて車体が大袈裟に揺れる。ヘッドライトが割れ、反対車線に転がっていくのが見えた。
「らだおっ、匠くん!」
手を汗で滑らせながら、転がるように車から出る。
「イッテェー! 痛い、足、足吹き飛んでねえかこれ!」
「は、ははは。あはは」
「アオセン何笑ってんすか! というか、なんで一緒に轢かれてるんですか?」
焦げたブレーキ痕につぼ浦と青井が折り重なって倒れていた。つぼ浦の左足からダクダク血が流れてアスファルトに広がっていった。見慣れた、いつものつぼ浦だった。
「つぼ浦さん」
「おっ、よおカニくん。助けてくれ」
「いまやっと助けたんだよ! 俺と成瀬で」
「はぁ? 何言ってんだアオセン」
「うるさい黙って。小さいお前は可愛かったのに」
「マジで何の話だ? カニくん分かるか」
「色々あったんですよ」
「おぉ……?」
青井が縋るようにつぼ浦のTシャツを握りしめ、べたりと体重をかけている。
つぼ浦は青井が邪魔で眉をしかめたが、頭を叩いても動かないので諦めて力を抜いた。車に轢かれた体があちこち痛んだ。
「つぼ浦」
「なんすか」
「つぼ浦だ」
「そりゃそうだぜ」
青井はつぼ浦の顔を両手でつかんだ。良く日焼けした肌に幼い匠の面影がある。あの子供が持っていた種火は孤独に磨かれて、ギラギラ輝く真っ直ぐな瞳に宿っていた。
ありがとう、とか、後悔してない? とか、言いたいことが沢山あった。その全てが喉につっかえて青井の胸をいっぱいにしている。
「なんすかアオセン」
「……」
「つぼ浦さん、らだおにただいまって言ってやってください」
「あ?」
「何も聞かないで。一番の功労者なんですよ」
つぼ浦は「俺はどこにも行ってねえぜ」とぐちぐち言って、恥ずかしそうに唇を尖らせた。
「……ただいま?」
青井の目からぽろと涙がこぼれた。青井にはそれで充分だった。つぼ浦は慌てて青井の頬に手を伸ばして、乱暴に頬を拭った。
救急車のサイレンが聞こえてくる。山間から白い光が差し込んだ。
長い夜が明けた。
7
「つぼ浦、お前子供の頃の夢なんだった?」
「言わねっすよ、恥ずかしい」
「当ててあげよっか。 ダンプカーでしょ」
「あ? 全然違うぜ」
「えっ、じゃあなに?」
「……笑うなよ」
「うん」
「仮面ライダーです」
目の前のキュッと唇を結ぶ大人のつぼ浦と、楽しげに笑っていた子供の匠が重なる。
足元を風が通り抜けていく。空はどこまでも晴れやかで、明日まで見渡せそうだった。
つぼ浦匠は約束を果たした。今度は青井の番だった。
「ねえ」
「なんすか」
「唐揚げ食べ行こ」
「まじすか、やりぃ!」
ずっと一緒に居ようね、と言う代わりにつぼ浦の肩を組んだ。寄りかかったせいで二人一緒にふらついて、クスクスゲラゲラ笑い声が重なった。それで充分だった。
二人が歩く道には、眩しいほどの光が満ちていた。
コメント
18件
めっちゃ泣きました 神です
すごく素敵なお話ありがとうございます❣️もうめちゃくちゃ感動しました!😭子供tbのビジュがすごく好きすぎるのですが、お借りして、普通にtbだけのと、自分が考えた子供逸と、浦で投稿したいのですがよろしいでしょうか、?
泣きました 最高すぎます👍