「桜汰は結局、私のこと本気で好きじゃなかったんでしょ」
離婚届にサインをする俺に向かって、妻が言った。
暖房の出番が日に日に近づいてきた10月の終わりのことだ。そこには悲しいとか、憎らしいとか、男女関係の終わりに伴うであろう負の感情は一切感じられない。
罪悪感で押しつぶされそうになっていた俺にとって、それはせめてもの救いだった。
「…本気で好きじゃなかったら、結婚しないでしょ。でも、そう思わせちゃったのはごめん」
この期に及んで、まだそんなことを言うのか。
──とか思われてんのかなぁ。
それでも、20年以上染みついた『癖』はもうどうしようもない。
「離婚届は私が出しておく。明日の朝、引っ越し屋さんが来るからまとめておいた私の荷物、渡してくれる?」
「わかった。…元気で。今までありがとな」
握手を求めるように右手を差し出すと、形のいい彼女の唇がゆるやかに弧を描く。けれど、彼女の手は俺に差し伸べられることはなく、そのまま出て行ってしまった。
一人で暮らすには広すぎる60平米のマンションの室内に乾いたドアの音が響く。
こうして俺、藤崎桜汰の、3年に渡る結婚生活は終わった。
***
「藤崎!今日飲みに行こうぜ!」
出社してデスクにつくなり、向かいの席の先輩社員が満面の笑みで声をかけてきた。宴会好きなのは知っていたけど、よりにもよって月曜の朝イチから何を言い出すんだこの人は。
「三田さん、なんかいいことでもあったんですか?」
「あった」
「あ、もしかしてついに2人目?だったら飲みはしばらく控えたほうがいいっすよ」
「バーカ、ちげーよ。お前だよ、お前!」
「俺?」
「離婚したんだろ?」
それがなんで、いいことになるんだ?
確かに上司の話に合わせて妻の愚痴のようなものを言ったことはあるけど、あれくらいで俺が離婚したがっていると思う人はいないだろう。
(もしかして…バレてる?)
俺がずっと隠している『秘密』。
それに三田さんが気づいたのではないか、という可能性に気づいて、ひやりと背中を冷たいものが流れる。
「なんだよ藤崎、怒んなって!順調すぎる人生を送ってるやつを見ると、ひとつくらい不幸がないと不公平じゃねーのって思っちゃうんだよ」
「…へ?」
「うわ、三田さんサイテー」
隣から後輩の女子社員が三田さんに冷たい視線を向ける。たしか入社4年目くらいだったか?優秀な上にさっぱりした性格で、チーム内の評判が良い子だ。顔も、まあ可愛いほうなんだろう。
「藤崎さん、断ったほうがいいですよ。前から三田さん、藤崎さんの離婚話に興味津々だったし、絶対根ほり葉ほり聞かれます。人の不幸を酒の肴にするなんて最悪じゃないですか」
だけどちょっと、さっぱりしすぎじゃないか?
俺のことを気遣ってくれているのはわかるけど、朝からギスギスした空気は勘弁だ。
「そういうこと?うわ、三田さんサイテー」
「いやっ、ごめんて!肴にするっていうか、ちょっとした好奇心だよ!ほら俺、藤崎大好きだから!」
「言いましたね?じゃあ『鳥吉』おごりで」
「お前…ちゃんと高めの店選んできたな」
彼女の言葉を繰り返してまぜっかえしたのは、怒っていないという意思表明。さらにおごりというささやかな慰謝料を請求して失言の負い目をチャラにすれば──予想通り、その場の雰囲気は一気に軽くなった。
空気を読んで、調和を保つのは自他共に認める俺の特技だ。…まあ、家庭内の調和は保てなかったわけだけど、そこは触れないでおいてもらって。
「そうと決まったら、ちゃっちゃと仕事片づけますか。俺、システム開発部にA社のスケジュール調整しにいってきます」
「えっ!A社との契約って決まったんですか?」
「先週ね。あそこ最初はめちゃくちゃ感触悪かったのになー」
「藤崎さん、さすがですね~」
背後の2人の会話を聞きながら、俺はタブレットを持ってフロアを出た。
三田さんが言う『順調すぎる人生』は、たぶんこういうところなんだろう。
昔から要領がよくて、勉強も運動も人より少しできるほうだった。特に苦労をすることもなく良い大学、良い会社に入り、30過ぎたら親が心配し始めたのでアプリで婚活して結婚した。
順調と言われれば確かにそうだ。自分でも不満はない。
ただひとつ、恋愛対象が自分と同じ男性であることを除けば。
***
月曜20時の焼鳥屋は、当たり前だけどすいていた。4人席をくっつけて、男3人女5人の計8人が思い思いの席に座る。…なんで月曜から飲みに行きたいと思うやつが、うちの会社にはこんなにいるんだ?
「藤崎、チャンスじゃん」
隣に座った三田さんが、運ばれてきたビールをまわすために身体を寄せながらそんなことを言った。
「何がチャンスなんです?」
「お前、もともと営業部の若い女子から人気あるから、みんなお近づきになりたいんだよ。バツイチって逆にモテるらしいぜ」
なるほど、そういうことか。
自分で言うのもなんだが、俺の容姿は悪くない。元妻曰く「よく見ると顔は普通だけど、全体の雰囲気がイケメン」らしい。身体を動かすことが好きで、昔から食べてもあまり太らない体質というのもあり、腹が出始めた同期連中と比べると若々しいシルエットをしているのかもしれない。
急にメンツが増えた理由にようやく合点がいくが、同時に女性陣から妙なプレッシャーを感じてしまって、俺は乾杯もそこそこにビールをあおった。
最初の1時間は営業先の愚痴や社内の噂話といった当たり障りない内容だったのが、次第に新入社員の中なら誰がイケメンだとか、営業先の受付嬢が可愛いだとか、よからぬ方向に話が盛り上がっていく。
「藤崎さんって、どんな人がタイプなんですか?」
ついに名指しで切り込まれてしまった。
この手の話題になると緊張するようになったのは、ゲイであることを自覚した中学生のころからだ。その年頃の男なんて顔とおっぱいしか見てないから、なんて答えたらいいのかわからなくて心底困った。
「俺は、自分の世界を持ってる人かな」
「自分の世界?」
「うん。趣味とか、夢とか、なんでもいいけど自分はコレが大事なんだっていうモノがある人」
「それなら、私ありますよ!ドルオタなんで」
「えー、そうなの?誰?」
有難いことに、大人になるにつれて適当な嘘でごまかす必要はなくなった。『好きな女の子』じゃなくて『好きな人』のタイプなら、当然俺にだってある。
──自分の世界を持ってる人。
アイドル話に興じる同僚の中で、俺は教室の隅っこで分厚い図鑑を食い入るように見つめていた『彼』を思い出す。
『ヘリコプター?』
『違う。ヘリコプリオン。ペルム紀のサメ』
『…変な口。ノコギリみたい』
『うん、変だよね!』
そこで彼は、本から顔をあげて初めて俺に視線を向けた。
そして目をキラキラさせながら、早口で話し始める。
『ぐるぐるの真ん中にある小さい歯は、古い歯なんだ。新しい歯は外側からはえて、古い歯を内側に巻き込んでくんだって!すごいよね』
『何がすごいの?』
『だって生まれてから全部の歯が残ってるんだよ!今のサメは大体、歯がどんどん生え変わるのに、なんでこいつは歯を残してたんだろう?』
『……さぁ……』
もちろん、小学2年生にヘリコプリオンについての生物学的知見があるわけもなく。俺の冴えない返事を聞くと、彼は俺を『自分の世界にはいない人』だと認識して本に目を戻してしまった。
せめて今の俺なら、もうちょっと気の利いた返事ができたのに。
彼とは、小中高と10年間同じ学校に通った。地元の情報ネットワークというのは便利なもので、家の場所も家族構成もなんとなく知ってるし、高1の途中で彼が転校してしまうまでの間に何回か同じクラスにもなった。
でも、それだけだ。友達だとか、ましてや幼馴染だとか、名前がつくような関係性じゃない。
それでも今日まで一度だって忘れたことはない。
──俺の、初恋の人。
「初恋なんですよ!忘れられるわけないじゃないですか!」
ふわふわと記憶の海を漂っていた意識が急激に現実に引き戻される。
やべ、なんの話だっけ?
「私は、初恋のアイドルがおじさんになってるのなんて見たくないけどなー」
「おじさんじゃないですよ!まだ33です!」
ドルオタの女の子は、初恋もやっぱりアイドルらしい。彼女の熱量はその後も上がる一方で、最終的には現代日本をとりまくアイドルビジネスの問題と今後の可能性について語り始める。それほど興味はなかったけど、彼女の世界を少しだけ覗き見れたのが面白くて、あれこれ質問した。彼女は水を得た魚のように活き活きと話し続ける。
35歳の俺は、相手の視線を自分のほうに向けておくことくらい朝飯前だ。
***
「ただいま」
帰宅したことを知らせる相手はもういないのに、暗いリビングの電気をつけながら言うのが習慣になってしまった。スーツがシワにならないように着替えてから、ソファにどさりと身体を投げ出す。月曜から飲みすぎた。
「…ん」
特に意味もなくスマホを眺めていたら、不意に身体の奥がじわりと熱を持つ。そういえば、最後に抜いたのはいつだっけ。
スウェットに手を入れて、ゆるく手を動かす。独り身はこういう時に楽だ。
「はぁ…」
久しぶりだったこともあって、すぐに快感が高まっていく。そもそも俺は、一人でするほうが好きなのだ。女性とセックスはできるけど、相手がちゃんと気持ちよくなれているかどうかが気になってしまって、自分が果てずに終わることもある。
男が相手だと、また違うのだろうか。長年隠れゲイをやってきたからわからないけど。
「っ、…く、ぅ」
男に抱かれる妄想をしながら、明かりがついたままのリビングで誰にも気兼ねなく快感をティッシュに吐き出した。俺がこんなことしているなんて、誰も思わないだろうなぁ。
「あー…賢者タイムえぐ」
ゴミ箱に捨てられた欲望の塊を眺めていると、どうしようもない虚しさが押し寄せてくる。
俺は、ずっとこんな感じなんだろうか。
誰の前でもその場の空気にあわせてそれらしい返事をして、調和を保つ。
コミュニティの輪から浮かないように、世間一般の常識から外れないように。
『藤崎桜汰』という機械を運転しているみたいだ。
「…っ、いて」
飲みすぎたのだろうか、なんだか胃のあたりが痛む。離婚してからたまにあるのでストレスかもしれない。早く寝てしまおうと、寝室に引き上げた。
ダブルベッドの真ん中でまるくなって、そろそろ毛布を出さなくてはと思いながら布団を顎まで引き上げる。
「早くじじいになりてーな…」
そうしたら、恋をしたいとか気持ちよくなりたいとか思うこともなくなって、ゲイもヘテロも大差なくなる。
今日のようにどうしようもなくひとりぼっちが寂しい夜を過ごさなくて済む。
いっそハワイとか暖かい場所で余生を過ごそうか──。そんなことを考えながら、眠りについた。
1年も経たないうちにささやかな老後の夢が打ち砕かれることになるとは、この時の俺は思ってもいなかった。
***
36歳の夏の終わり。
俺は余命3ヶ月で入院生活を送っていた。末期癌というやつだ。
「藤崎さーん。気分はどうですか?」
「今日は悪くないすね」
「そっかー良かったね。じゃあ後で先生が回診に来ますからね」
「はい」
まさか自分がじじいになれないなんて思ってもいなかった。
最初のうちは頻繁に見舞いや連絡をよこしてくれた友人たちも、俺が痛みや吐き気でのたうち回っている姿が見るに堪えなかったのだろう、今では俺を訪ねてくる人はほとんどいない。
ねえ三田さん、これ『ちょっとぐらいの不幸』どころじゃないでしょ。
「…俺が何したってんだよ…」
何気なく窓の外に目を向けたら、ぎらぎらと輝く太陽の光が目に差し込んで涙が出そうになる。泣いて体力を消耗したくないので窓から目を背けた。
すると開いたドアから、廊下でスマホを片手に立つ一人の男性が目に入った。誰かの見舞い客だろう。看護士が書類を確認しながら近づき、声をかける。
「お待たせしました。えーと、七森さん?」
「七森海生です。七森浩司の息子です」
その名前を聞いた瞬間、3ヶ月どころか今すぐ息が止まるんじゃないかと思った。
身長は俺よりも少し高いくらいだろうか。紺色のシャツにスラックスというシンプルな服装。すっと伸びた鼻筋に、骨の形がはっきりと見える顎のライン。長めの黒髪をかけた耳たぶに、小さな黒子がふたつある。
小中高とずっと見続けてきた、その横顔を見間違えるはずがない。
「──七森、海生?」
フルネームを呼ばれて、こちらを振り返る。当然、記憶の中よりも大人になっているけど間違いない。
嘘だろ?本当に海生?
──俺の、初恋の、あの七森海生なのか?
「…え、と…」
海生の口から戸惑いの声がこぼれる。海の底みたいに真っ黒な瞳をちらりと動かし、部屋の前に表示された入院患者の名前を確認した。
「藤崎桜汰…」
確かめるように俺の名前を口に出してから、ややあって『あ』の形で口があいたままフリーズする。
「藤崎桜汰ってあの、小学校から同じだった…?」
「そう!あの藤崎桜汰!小学校から同じの!」
あまりのことに、俺はバカみたいに同じワードを繰り返すことしかできない。
しかもパジャマだし、頬もこけてるし、かっこわるすぎる。帽子をかぶって髪がないのを隠していたのがせめてもの救いだとしても、10年ぶりの再会がこれではあんまりだ。
だけど。
「待って…これ、夢?」
「夢…にしては、つまらなすぎない?どうせならもっと仲良いやつが出てきたほうが良いよね」
冗談を言う調子でもなく、ごく真面目に答える海生は、記憶の中の海生そのものだ。
これが夢なら今度こそ泣いてやる。
「えっと…久しぶり」
「…久しぶり」
ひとりぼっちで死ぬと思っていたのに、初恋の人と再会した。
やっぱり俺の人生はそう悪くないのかもしれない。
コメント
10件
なっが