「『お帰りなさい』は言ってくれないのか?」
暁人さんが帰ってくるまで、まるで心が凍りついたように、何も考える事ができなかった。
けれど彼に言葉を求められ、私はおずおずと口を開く。
「……おかえり、……なさい」
「ただいま」
暁人さんはホッと息を吐いて微笑み、私を抱き締めてきた。
(安心する……)
いい匂いとぬくもりに包まれ、私は彼を抱き締め返そうとする。
(……いけない)
でもすぐにグレースさんの事を思いだし、彼の胸を押し返した。
「芳乃?」
不思議そうに、少し悲しそうに目を瞬かせる彼を見て、私は改めて決意する。
彼の事は好きだし、愛している。
だからこそ、駄目だ。
「……今度こそ言わせてください。私、このマンションを出て行きます」
もう、この気持ちは揺らがない。
だから、泣かずに伝える事ができた。
「『俺の事を好きになりそうだから』が理由なら、出て行く必要はない」
暁人さんは私がとっさについた嘘を、いまだに信じている。
彼を好きになったのは本当だけれど、あの言葉を真に受けている姿を見ると、いっそう罪悪感が増す。
――この優しい人に、嘘をつきたくない。
――お互い傷付いてもいいから、最後に本当の事を言おう。
凪いだ心で決意した私は、暁人さんを見て弱々しく微笑んだ。
「……あなたが好きです」
私の告白を聞き、暁人さんは瞠目すると目の奥に歓喜を宿す。
けれど彼はすぐに切なく笑い、眉間に皺を寄せて溜め息をつくように言う。
「じゃあ、どうしてそんなにつらそうな顔をしているんだ」
私の肩を抱く暁人さんの手は、微かに震えていた。
「本気で好きだから。……心も体も、引き裂かれそうなほどに好きなんです」
ぎこちなく笑うと、ポロッと涙が零れた。
「なら、どうして……っ」
「私は!」
私は何かを言おうとした暁人さんの言葉に、強引に声を被せる。
また彼に優しく誤魔化されてしまったら、堂々巡りになってしまう。
そうなる前に、すべてを伝えなければならない。
私は涙を流し、声を震わせながら、懸命に訴えた。
「私がいると、暁人さんのためになりません。私は愛し合う二人を引き裂く悪魔です。あなたの事が本当に好きで大切だから、あなたを不幸にしないために……どうか、離れさせてください」
シンと静まりかえったリビングに、涙で歪んだ私の声が響く。
微かな残響が消えた頃、暁人さんは無言で肩を抱く手に力を込めた。
少し痛いとすら思える力に、私は驚いて顔を上げる。
そして、彼の表情を見て静かに瞠目した。
――なんて顔してるの……。
暁人さんはつらくて堪らないという顔をし、必死に歯を食いしばっている。
彼は体を小さく震わせ、荒れ狂う激情を必死に押し殺していた。
けれど、どうしても抑えきれない想いを、暁人さんは一言に込める。
「……勝手に俺が不幸になると決めるな!」
語気を強めた彼の言葉が、スパンと私の心を射貫く。
(……確かに、暁人さんとろくに話し合わずに決めつけてしまったけれど……)
でも私にだって譲れないものはある。
愛のために倫理観を失えば、ズルズルと連鎖して周囲を不幸にしていく。
そんな人には絶対になりたくなかった。
「駄目なんです! 私は暁人さんと一緒にいられません!」
ムキになって言い返すと、彼は一瞬口を開いて何かを言いかけ、悔しそうに言葉を押し殺す。
そのあと彼は私を抱き締め、激情で震えた声で囁いた。
「絶対に離さない」
これ以上ないほど私を求める声を聞き、離れなければならないのに、愛しさが募ってしまう。
「俺はあなたを自分のものにすると、ずっと決めていたんです」
突如として暁人さんの口調が変わり、私は驚いて顔を上げようとする。
けれど彼は抱き締める腕に力を込め、私の動きを封じた。
「『芳乃に相応しい男になる』と自分に言い聞かせて、やっとここまできたのに……っ」
彼の声には、怒り、悲しみ、失望、やるせなさ、……色んな感情が籠もり、グツグツと煮えたぎっている。
(何が言いたいの?)
混乱している中、暁人さんは私の背中と膝の裏に手を回し、抱き上げた。
コメント
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暁人さん、そろそろ本当のことを教えて🙏