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びゃ
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びゃ
82
#パラバン
美姫
93
茜色に染まる夕空の下、二人の影が、古い木造の橋の上に長く伸びていた。
川のせせらぎに混じって、橋の向こうの町からは、路面電車の気だるげな警笛や、行き交う人力車の足音が聞こえてくる。文明開化に湧く大通りの賑わいは、ここまですぐそこに迫っていた。
「ねえ、正一」
矢絣の着物に大きなリボンを揺らし、葵が突然、ピタリと足を止めた。 紺色の袴の裾を翻して振り返る彼女の瞳は、夕日を反射してきらきらと輝いている。それは、彼女の頭の中で、また何か新しい「思いつき」が弾けたときの合図だった。 見た目はふわふわとしていて、普段は学校の裏山にいる野良猫や小鳥たちからも慕われる癒やし系の彼女だが、その胸の内には、誰も思いつかないような勇敢で突飛な発想が眠っている。
詰襟の制服の襟元を少し緩めていた正一は、彼女の半歩後ろで、すぐに足を止める。普段は明るくクラスの中心にいるような陽キャな少年である彼は、葵の前に来ると、どこか愛おしそうに目を細めた。
「どうしたんだい、葵。そんなところで立ち止まって」
「さっきの妖術史の授業で先生が言っていたでしょう? 『身一つで放つ術には限界がある。それゆえに城のご武士様方は、特別な修行を経て、術の衝撃を倍加させる【刀】を授かるのだ』って。それってさ……」
葵は小脇に抱えていた教科書をぎゅっと抱きしめ、身を乗り出した。
「刀は選ばれた人しか持てないけれど、要するに『術の威力を倍にする触媒』でしょう? だったら、刀みたいに光ったり派手な細工がしてあるわけじゃない、その辺に落ちているただの鉄の棒や、鍛冶屋さんの鉄の端切れみたいな『棒状の物』でも、同じように私たちの魔力を通せば、同じ効力を発揮するんじゃないかしら! 触媒の形が同じなら、刀を持たない私たちでも、もの凄い威力の新しい術ができると思うの!」
他の生徒なら一笑に付すような突飛な発想。しかし、正一の顔に呆れた色は微塵もなかった。彼は真面目な顔で、葵のまっすぐな視線を受け止める。彼女のためなら、どんな無茶にだって付き合うと決めているのだ。
「……確かに、葵の言う通りかもしれない。術の増幅に必要なのが『形状と金属の伝導率』だとしたら、理屈としては一理あるね。でも、もし暴発したら危ないよ。本物の刀と違って、コントロールするための術式が刻まれているわけじゃないんだから」
「大丈夫、ちょっと実験してみるだけだから! ほら、早速あの鍛冶屋さんの裏の路地裏へ行って、手頃な鉄の棒を探してみましょう!」
楽しそうに笑うと、葵は正一の返事も待たずに、木造の橋をタタタッと小走りで渡り始めてしまう。
「あ、おい、葵……! 待ってくれ、一人で行ったら危ないって!」
正一は困ったように眉を下げながらも、その脚は一瞬の躊躇もなく、彼女の背中を追って動き出していた。彼女がどれほど無鉄砲で、自分の身に迫る危険に鈍感であっても、構わない。自分がずっと隣にいて、彼女の行く道を阻むすべての危険から守ると、あの日からずっと決意しているのだから。
しかし、二人が橋を渡りきり、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた途端、世界の空気が一変した。 どろりとした、冷たい気配が闇の奥から這い出してくる。それは町の人々が灯す、日々の生活に馴染んだ温かい妖術の気配ではなかった。もっと禍々しく、悍ましいもの――人の負の感情が形を成した異形の妖、「百々目鬼」だ。
「……ッ! 子供たち、離れるんだ!」
正一が叫ぶ。 路地の奥では、近所の子供たちが怯えたように立ち尽くしていた。この町の子供たちは誰もが基礎的な妖術を使えるが、目の前に現れた怪物の圧倒的な不気味さに、身体がすくんでしまっている。
ずるりと姿を現したのは、深い「青色」の身体をした百々目鬼だった。 その全身には、無数の「人間の目」がびっしりと張り付き、それぞれが不規則にまたたいている。孤独や寂しさの感情から生まれるという青色の百々目鬼。それはこちらを攻撃してくる様子はなかったが、標的を定めるように、長い腕を子供たちへと伸ばした。
「子供をさらう気ね……っ! 正一、援護して!」
葵は怯むことなく、勇敢に一歩を発した。 彼女が口元にそっと手を当てて鋭い口笛を吹くと、どこからともなく、路地裏の闇に潜んでいた無数の鴉(からす)や野良猫たちが集まってきた。動物たちと深く心を通わせる、葵の「動物関連の妖術」だ。
「みんな、お願い! あいつの目を引きつけて! ――『鳥獣化の術』!」
葵が魔力を込めると、集まった小動物たちの姿が、一瞬だけ巨大な猛獣や怪鳥の幻影へと「化ける」。 操られた動物たちと幻影の群れが一斉に青い百々目鬼の顔面へと群がり、無数の目を突っつき始めた。
「ギ、ィ……ッ!」
視界を完全に遮られ、青い百々目鬼が苦悶の声を上げて闇の奥へと後退する。
「やったわ!」
「いや、まだだ、葵! 下がれ!!」
正一の鋭い悲鳴のような声が響いた。 直後、青い百々目鬼の背後の地面から、さらに巨大な泥のような塊が湧き出してきた。 それは、先ほどの青色とは比べ物にならないほどの、圧倒的な凶暴性を剥き出しにしていた。
一つは、恐怖の感情から生まれた、悍ましい「紫色」の身体。 そしてもう一つは見る者を圧迫するような、黒が混ざった、血のように濁った「赤色」。 特に赤色の百々目鬼は現れた瞬間に周囲の空気を震わせ、全身の目を血走らせて狂ったようにギョロギョロと動かしている。嫉妬や裏切りという、人間の最も醜い感情から生まれた最悪の個体だ。
赤色の百々目鬼が、尋常ではない速さで葵へと飛びかかってくる。
「葵――ッ!!」
その瞬間、正一の身体は思考よりも速く動いていた。彼は葵の前に滑り込むと、懐からお札の束を取り出し、一瞬で彼女の前に扇状に展開する。
「不浄を退ける禁忌の呪――『怨詛・黒縄の障壁』!」
正一が全魔力を込めて叫ぶと、展開されたお札から、ドス黒く呪いの霧が網の目のように編み上がり、禍々しくも頑強な漆黒の結界を作り出した。
ズウウゥン!!
赤色の百々目鬼の鋭い爪が呪いの壁を激しく引っ掻き、火花が散る。 壁の向こう側で、正一は歯を食いしばりながら、必死に結界を維持していた。葵に指一本触れさせはしない。その強い一途な決意だけが、彼の術を支えている。
「正一、助かったわ! 壁を降ろして、一気に叩く!」
「……分かった。カウント、三秒だ!」
正一が気合と共にお札を引くと、目の前の黒い障壁が霧となって霧散する。 視界が開けた瞬間、葵は鍛冶屋の裏に落ちていた手頃な「鉄の長棒」を拾い上げ、そこへ自身の魔力を一気に流し込んだ。
「実験開始よ! ――これで終わり!」
葵が放った妖術の光が、ただの鉄の棒を媒介にしたことで、まるで本物の刀のように威力を何倍にも跳ね上げ、赤と紫の百々目鬼の足元で大爆発を起こした。
「ギ、アアアァァァーーーッ!!」
断末魔の叫びを上げて、赤と紫の二体は光の中に掻き消えていった。青い個体はその隙に闇へと逃げ去ってしまったようだが、ひとまず窮地は脱した。 葵が持っていた鉄の棒は、術の衝撃に耐えきれずパキィンと真っ二つに折れ、煙を上げている。
「本当に威力が倍になったわ……! 私の予想、当たってた!」
「あはは、凄いよ葵、本当にただの鉄の棒で術を増幅させちゃうなんて。……でもやっぱり、専用の術式がないと一発で壊れちゃうみたいだね」
正一が感心しながらも折れた棒を覗き込む。葵はふう、と息を吐き、すぐに妖たちが消滅した地面へと目を向けた。地面の煤の中に、ぽつんと何か硬いものが転がっている。
「……あら? 何かしら、これ」
葵がしゃがみ込み、それを取り上げた。それは、古びた刀の『鍔』だった。
「鍔……? 刀の部品だよね。なぜ妖が消えた後に、こんなものが落ちているんだろう」 正一が怪訝そうに覗き込む。
「分からない。普通の妖術戦なら、術が解ければ何も残らないはずなのに……。それに見て、この模様」
葵は手の中の鍔を、夕闇に透かしてみた。 鉄製の重々しい鍔には、見たこともないような奇妙で特殊な幾何学模様が深く刻まれている。触れていると、なんだか胸が締め付けられるような、酷く悲しい気配が伝わってくるようだった。
「このレベルの鍔を使う刀なんて、厳しい修行をして城に仕えた、一握りのご武士様だけのもののはずよ。ただの落とし物かしら……? でも、さっきまで確かにあの妖の体内にあった気がするのよね」
「……不思議だね。妖が何かを喰らって、消化できずに残したものなのかな」
正一の言葉にも、葵はどこかしっくりこない表情のまま、その鍔を袴の懐へと仕舞い込んだ。 「ひとまず、これは学校に持ち帰って調べてみましょう」
「ええ、そうしよう。夜道は危ないから、早く戻ろう。……次は僕が前を歩くからね」
正一は今度こそ葵を危険な目に遭わせまいと、いつもの明るい笑顔を浮かべ、彼女の一歩先を歩き始める。 手に入れた、奇妙な模様の鍔。それが、妖の中に閉じ込められていた人間の『形見』であることも、この町を揺るがす巨大な闇の糸口であることも、今の二人はまだ知る由がなかった。
コメント
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びゃさん、第2話読ませていただきました!明治風の世界観に妖術が溶け込んでいて、とても引き込まれました。葵ちゃんの「鉄の棒で術を増幅できるのでは?」という発想が大胆で可愛くて、正一くんが呆れずに真剣に受け止めて「危ないよ」と心配するところがじんわりきました。最後に出てきた不思議な鍔、これからどんな謎が待っているのか気になります…!続きが楽しみです📖