「だ、だって!京介さん、その曲は……封印していたはずじゃない!!」
「そうだ、京介!どうゆう事だ!月子さんの前だろっ!」
男爵夫妻が顔色を変え岩崎へ食ってかかる。
「そうでございますよ。京介様、その曲は……」
吉田までが物申した。
そんな異常に緊迫した状態を押さえようとしてか、岩崎が、大声を出す。
「きゃー!もう!なんで、そんなに声が大いのっ!」
耳をふさぐ芳子、ムッとする男爵と、現状は更に悪くなったように見える。
「あの?」
たまりかね、月子は岩崎を伺った。
「ああ、月子すまない。私はこの曲を月子に聞かせたかった。しかし、昔、ちょっとあってね。それを、皆、こうして騒いでいるんだよ」
岩崎は静かに言うと、男爵達をちらりと見た。
「京介!ちょっと、どころじゃないだろうがっ!」
男爵は、更に厳しい顔になり、芳子も、こくこく頷いている。
「兄上、私は月子にセレナーデを聞かせたかった。ですから、昔の事を蒸し返すような事はやめてください!」
しかしと、男爵は言い渋り、月子へ心配そうに視線を送る。
「昔のこと?」
さすがに月子も、これほどまで皆が慌てては、気にならないはずもなく、つい呟いていた。
「そう!そうなのよ!京介さんは、あの時、毎日演奏していたの!でも、あの人が去ってしまったからと、金輪際演奏しないと、封印したのに!」
「芳子!昔の話は止めなさい!月子さんの前じゃないか!」
昔の話……、あの人……、そして、男爵夫妻どころか吉田まで慌てているということは……。
「あのぉ、ひょっとして、マリーさんのことですか?」
察した月子の一言に、岩崎は頷き、芳子は、きゃあーと叫んで崩れこみそうになる。
ですから、と、岩崎が落ち着き払い口火を切った。
誤解があるようだと、男爵夫婦に説明し始めるが、芳子はすっかり気が動転してしまい、男爵に支えられないと立っていられない状態になっている。
「こ、これは、いけません!茶、茶でも飲んで落ち着かれては!」
倒れそうになっている芳子の姿に吉田もオロオロする。
「……あの、旦那様……」
「月子には、ちゃんと説明するよ。しかしだね、この様子では、まず、兄上達をどうにか、というより、義姉上《あねうえ》、ひとまず横におなりになられた方が」
ひいひい言いながら、誰のせいで!と芳子は岩崎に食ってかかる。
収集がつかない状況に陥ったその時、
「月子様!お茶です!お咲も手伝った!」
茶器を乗せた盆を持った女中を引き連れお咲が戻って来た。
「……お咲、本当に茶を持って来たのか……」
月子と二人になりたかった為に、いわゆる人払いをしただけなのに戻りが早いと岩崎は、愚痴っているが、これ幸いと吉田が食いついた。
「お、お茶です!奥様、ひとまず、お茶を!」
言って、盆を持つ女中に芳子へ茶を入れるように言いつける。
「吉田。後は頼んだ。私は、先に月子へ説明する。月子には誤解されたくない」
チェロの片付けも頼むと、岩崎はあれこれ吉田に押し付けると月子の手を取り縁側をさっさと歩んで行く。
「少し離れた方が良いだろう?」
騒がしさから逃げ出そうと岩崎は月子へ言った。
何か話があるのだろうと、月子も了解して岩崎の後を着いていく。
これだけ、皆が騒いでいるにも関わらず、そして、マリーの事だと岩崎が認めたにも関わらず、月子の心は落ち着いていた。
マリーとの過去を聞いていたのもあるが、岩崎が、月子にちゃんと説明すると言ってくれた事が大きかった。
「まあ、この辺りで良いだろう」
縁側に岩崎は腰を下ろした。
月子も隣に腰を下ろしたが、前には、飛び石と大きな池が印象的な先程とは異なる景色が広がっている。
「……とても、広くて手入れの行き届いたお庭ですね」
そう月子が言ってしまうほど、別館といえども、その敷地は広大でもちろん、庭も広々としている。
何もかも規模が違う男爵邸に驚きつつも月子は、岩崎の言葉を待った。
「うん、あの曲は、セレナーデは、マリーと無理矢理引き離され、私が部屋に閉じ込められ、ほぼ幽閉状態の中、毎日演奏していた曲なのだ。行方が分からなくなっているマリーが心配だった。それで、逢いたくて……恋しい人を想う曲、セレナーデを演奏したんだ。しかし、当然、マリーには届かなかった。暫くして、幽閉が解けた時にはマリーは帰国させられていた……」
まあ、昔の思い出だと、岩崎は溜め息混じりに言った。
「……お別れの挨拶もできなかったのですね?マリーさんにあの曲を聞かせてあげることもできなかったのですね?」
「まあ、そうだね。だけど、マリーは、私の曲をなんだか難しいと受け入れてくれなかった。下町育ちの彼女は、庶民が口ずさむ様な曲しか理解できなかったのだよ……」
「そんな!あんなに、素晴らしい曲を?!」
「残念ながら……まあ、それも仕方ない。だから……」
そこまで言うと、岩崎は、そっと月子の頬に手を添えた。
「私の演奏を喜んでくれる月子が、私の演奏を受け入れてくれる月子が……私はとても愛しい」
演奏を喜んでくれる月子となら、上手くやって行けるのではないかと思い、添い遂げようと思ったと岩崎は言う。
「……で、だ。セレナーデなのだが、兄上達が現れてちゃんと説明できなかった。あの曲には唄がある」
「はい。外国語で旦那様は、唄ってくださいました」
「その歌詞なのだが……最後はね、想い人に気持ちを告げるのだ。私は君を待ち焦がれている。私のもとに来てくれ。私を幸せにしてくれ……と」
歌詞の説明をすると、岩崎は月子へポツリと言う。
「月子?私を……幸せにしてくれないか?もちろん、月子のことは幸せにする……」
そして岩崎は、ゆっくり月子の頬を撫で、そのまま優しく口付けた。
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