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玄関を開けた瞬間、空気が変わった。
湿って、重くて、どこか甘ったるい匂い。
息を吸うだけで、胃の奥がぎゅっとねじれるような感覚があった。
階段の上──
二階の部屋から、笑い声がした。
低くて、女の声。
すぐに、それが沙耶香のものだとわかる。
遥は、無意識に呼吸を止めた。
けれど、足音を消すには遅すぎた。
「──あら。帰ってたの、遥」
沙耶香の声。
階段の上から、すっと見下ろされる。
髪は濡れたまま、艶やかに肩に張りついている。
薄手のルームウェアから覗く鎖骨。
目元には、まるで笑っていないのに、微笑の形だけが刻まれていた。
「……遅かったじゃない」
そのすぐ後ろ──
部屋の中から、蓮司が現れた。
さっき学校で見たのと同じ顔。
何もかも見透かして、何もかも気にしてないような、
無邪気な仮面を貼りつけたまま。
「ごめん、沙耶香。弟くん、連れて帰ってきちゃったみたい」
「ふふ、そうね。犬みたいに後ろついて来たのかしら?」
二人の声が、空気に溶けるように交わる。
──ああ、と思った。
もう、ここは俺の立つ場所じゃない。
この家が、
この階段が、
この空気が、
俺を生かす場所じゃないってことは、
もうずっと前から、知っていた。
「……蓮司、帰るんじゃなかったの」
喉がかすれて、自分の声が自分で聞き取れない。
「うん、でもさ──ちょっとだけ、沙耶香に話しておきたいことがあって」
そう言って、蓮司は遥をじっと見た。
その目には、何も映していないような透明さがあった。
「安心してよ。さっきの“お叱り”は、ちゃんと効いてるから」
にこり、と笑って、頬を指さす。
「ね? まだ熱い」
沙耶香がくすっと笑った。
「遥ってば、手ぇ出すようになったの? ふうん。
……かわいいわね、逆らえるつもりだったなんて」
その言葉は、微笑みの形で吐かれる毒だった。
「ま、いずれ慣れるわよ。そういう“現実”に」
蓮司が沙耶香に向き直る。
「──ね、俺の言った通りだったでしょ。
あいつ、自分が優しいと思ってるわけじゃない。
“優しいって思われたいだけ”。違う?」
沙耶香は頷きもせず、否定もせず。
ただ静かに唇の端だけを上げた。
遥は一歩、階段を上がる。
けれど、その先には二人がいる。
沙耶香と蓮司。
揺るがない、傷つかない、嘲らないまま「正しい」人間。
そこに自分が混ざる余地は、ない。
蓮司の視線が、階段を上がる遥の動きを一つ一つ観察するように追っていた。
「遥」
名前を呼ばれ、立ち止まる。
「怒ってんの? 泣きたいの? それとも──
俺を、殺したい?」
言葉はどれも柔らかかった。
でも、その柔らかさが何よりも遥を壊した。
「……どれでもない」
震える声で、それだけを言った。
蓮司が笑う。
「だよね。……だっておまえ、なにも“選べない”んだもんね」
沙耶香がすっと立ち上がった。
「蓮司、そろそろいいんじゃない? あの子、また逃げちゃうわよ」
「……それもまた、面白いけどね」
蓮司は肩をすくめて笑った。
遥はもう、何も言わなかった。
その場から動くことも、目を逸らすこともできず、
ただ、心だけがじわじわと凍っていくのを感じていた。