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#海辺の町
#異能力
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その奇跡を成すための条件は、あまりに苛烈で孤独な作業だった。
満月の夜、深夜0時から1時の間のみ。
月光を遮る雲の影は許されず、完成の瞬間まで剥き出しの肌に月光を浴び続けなければならない。
儀式の間は一切の「声」を禁じられ、外界を映す「瞳」を閉ざす。
指先を銀の針で突き、一滴の鮮血を月光に捧げ、己の命を削りながら霊力を練り上げること。
それが、服用すれば万病を払い、持てばあらゆる魔を退けると言われている『特殊真珠』を産む唯一の方法だ。
「……っ」
冷え切った別邸の寝室で、静香は溢れそうになる悲鳴を喉の奥で押し殺した。
心臓が悲鳴を上げ、霊力を吸い取られた指先がだんだん感覚を失っていく。
こんな真冬に窓を全開にして月光を浴び続けるのは、死に等しい所業だ。
それでもこの真珠があれば、一人で生活していく資金にできるだろう。
「お飾り花嫁」として蔑まれ、冷え切った食事を与えられるだけの日々。
姉の身代わりで嫁がされ、夫となった公爵、嵯峨征一郎からは一度もまともに顔を見られたことさえない。
彼にとって私は、屋敷の隅に置いておく「不必要な調度品」に過ぎないのだ。
何粒あれば、私は自由になれるだろうか。
誰に売れば、利用されずに正規のお金が手に入るだろうか。
手のひらの上で転がる真珠は、持ち主の血と涙を吸ったとは思えないほど冷たく残酷なまでに美しい。
静香は感覚が失せた指先で、温もりを求めるように自らの肩を抱きしめた。
◇
本邸から少し離れた場所に建てられた別邸は、うっそうとした森の中にあった。
「いいご身分ですこと」
乱暴にガチャンと床へ置かれた食器の音で、静香はゆっくりと目を開ける。
扉の前に仁王立ちで立っているのは、本邸から食事を運んでくる女中の菊乃だ。
菊乃はわざとらしく鼻を鳴らすと、埃の舞う冷たい床に置いた盆をつま先で静香の方へ押しやった。
「こんな『お荷物』にも食べ物を与えてくださるなんて、本当に旦那様は優しすぎますね」
盆に乗っているのは、固そうなパンと具がほとんど入っていないスープ。
「ありがとう、ございます」
静香が震える声で礼を言うと、菊乃は面白くなさそうに顔を歪めた。
昨晩、銀の針で突いた傷跡は赤紫色に腫れ上がり、霊力を使い果たしたせいで身体に力も入らない。
静香はやっとの想いでベッドから立ち上がったが、すでに菊乃の姿はどこにもなかった。
静香がこの嵯峨家に嫁いできたのは2ヶ月前。
元々、この縁談は「薔薇の妖精」と謳われるほど美しい姉・麗華に持ち込まれたものだった。
事業に失敗した間宮家にとって、名門・嵯峨家との縁組みは唯一の救い。
当主である征一郎は、結婚の条件として間宮家が抱えていた莫大な負債の肩代わりと、事業再建のための多額の資金援助を約束してくれた。
それなのに。
「お姉様が逃げなければ……」
そうすれば姉の代わりに嫁ぐことも、別邸に閉じ込められることも、女中たちから嫌がらせされることもなく、今もまだ実家で空気のような存在で過ごしていたはずだ。
よりにもよって、結婚式の当日に姿を消すなんて。
絶望した両親が姉の身代わりに差し出したのが、地味で美しくもない妹の私だった。
「冷たくて、味もないわね」
静香は震える手で、冷めきったスープを口に運ぶ。
パンはとても固く、まるで数日経ったパンのようだった。
『死なない程度にひっそりと暮らせ』
初夜はもちろんなかった。
結婚式で告げられた言葉と、征一郎の冷徹な瞳は今でも忘れられない。
「私だって好きでここに来たんじゃないわ」
今の自分にとって、命を削って生み出した特殊真珠だけが唯一の希望。
これを売り、自由を買えるだけのお金を手にするまでは、どんなに惨めな食事でも食べて生き延びなければならない。
静香は固くなったパンを小さくちぎり、必死に喉の奥へと押し込んだ。
穏やかな日差しが降り注ぐ本邸のリビングで、この屋敷の主、征一郎は新聞を広げながら珈琲を手に取った。
「あの女は?」
「はい。毎日わがままで困っております」
こんな食事は口に合わない、豪華な着物を準備しろ、私は公爵夫人なのだと威張っていると、女中の菊乃は征一郎に答える。
「もういい」
征一郎は溜息をつくと、再び新聞を読み始めた。
ずっと探し求めていた女性と結婚するはずだった。
だが、結婚式に現れたのは別人。
それなのに、家同士の政略結婚だと押し通され、間宮家が抱えていた莫大な負債の肩代わりだけさせられた。
男は結婚して一人前。
とりあえずその土俵に立ったことだけでもよしとしなくては。
これで煩わしい縁談を持ちかけられることも、半人前だと陰口を叩かれることもない。
征一郎は折りたたんだ新聞をテーブルに無造作に置き、立ち上がる。
「出かける」
「かしこまりました。お車を回させます」
菊乃は深々と頭を下げながら、口角に冷酷な歪みを浮かべた。