テラーノベル
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その日は、何の前触れもなくやってきた。
紬は、いつも通りの顔で現れた。
いつも通りの笑顔で、いつも通りの声。
「お疲れさま」
そう言って、僕の部屋に入ってくる。
コートを脱いで、靴を揃えて、
それだけで、十分「大丈夫な人」に見えた。
でも、分かってしまう。
玄関のドアが閉まった瞬間、
紬の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
「今日はどうだった?」
そう聞くと、紬は一拍置いてから答える。
「……普通」
その“普通”が、もう限界に近いことを、
僕は何度も見てきた。
部屋の中は静かだった。
時計の針の音だけが、やけに大きい。
紬はソファに座って、膝の上で手を組んだ。
指先が、白くなるほど力が入っている。
「紬」
名前を呼ぶと、紬は顔を上げた。
「なに?」
笑っている。
でも、目が笑っていない。
「無理してない?」
その言葉に、紬は一瞬、固まった。
そして、すぐに首を振る。
「してないよ」
条件反射みたいな速さ。
「大丈夫」
その言葉が出た瞬間、
何かが、ぷつんと切れる音がした。
紬自身の中で。
「……っ」
紬は口を押さえて、俯いた。
「紬?」
「……ごめん」
声が、震えていた。
「ごめんね、陽介」
「なにが?」
「また、大丈夫って言っちゃった」
肩が、小刻みに揺れ始める。
「本当は」
息を吸おうとして、うまく吸えない。
「全然、大丈夫じゃないのに……!」
そこから先は、言葉にならなかった。
紬は、崩れるようにソファから床に座り込んだ。
膝を抱えて、背中を丸めて、
まるで小さな子みたいに。
「頑張らなきゃって」
嗚咽まじりの声。
「私がちゃんとしてないと、みんな困るって」
涙が、床に落ちる。
「弱いって思われたら、見放されるって」
僕は、何も言わなかった。
ただ、紬の前に座った。
触れない距離。
逃げられる距離。
「ずっとね」
紬は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま続ける。
「大丈夫って言えば、全部丸く収まるから」
「誰も心配しないし」
「私も、嫌われないから」
声が、だんだん壊れていく。
「でも……」
顔を上げて、僕を見る。
「もう、無理だった」
「陽介の前でまで、大丈夫って言ったら」
胸を押さえて、
「息、できなくなった」
その言葉が、痛いほど刺さる。
僕は、ゆっくり手を伸ばした。
「……抱きしめてもいい?」
紬は、答えなかった。
でも、震える体が、ほんの少し前に傾いた。
それで、十分だった。
紬を抱きしめる。
壊れ物みたいに、慎重に。
でも、逃げ場は作らない。
「……こわかった」
紬が、僕の服を掴んで言う。
「こんなふうに泣いたら」
「嫌われるって思ってた」
僕は、紬の背中を、一定のリズムで撫でる。
「嫌いになる理由が、どこにある?」
「だって……」
「だって、何?」
「迷惑じゃん」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「迷惑じゃない」
はっきり言う。
「紬が泣くことは、迷惑じゃない」
「……ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ」
紬は、声を震わせながら続ける。
「泣いても、そばにいてくれる?」
「いるよ」
即答だった。
「どんな顔でも?」
「どんな顔でも」
「強くなくても?」
「……強くなくても」
紬は、堰を切ったように泣いた。
声を押し殺すこともせず、
子どもみたいに、感情のまま。
僕の胸を濡らしながら、
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返す。
「ごめん」
「こわかった」
「ひとりにしないで」
その全部に、僕は同じように答えた。
「大丈夫だよ」
でも、今度のそれは、
“頑張れ”じゃない。
“ここにいていい”という意味の、大丈夫。
しばらくして、紬の泣き声が小さくなった。
しゃくり上げながら、紬はぽつりと言う。
「……ねえ、陽介」
「うん」
「私さ」
深く息を吸って、
「大丈夫じゃない私を、初めて生きてる気がする」
僕は、紬の髪に顔を埋めた。
「それでいい」
「それで、いいんだよ」
紬は、力なく笑った。
「……疲れるね」
「うん」
「でも」
僕を見上げて、
「ちょっと、楽」
その言葉で、全部が救われた。
夜は、静かに更けていった。
泣き疲れて眠る紬を、僕は抱えたまま動かなかった。
この人は、もう一人で立たなくていい。
つよがりの君は、
今日、泣き崩れた。
でもそれは、壊れたんじゃない。
やっと、
誰かの腕の中で、立ち止まれただけだ。
そして僕は、
これからも何度だって会いにいく。
紬が、また強がりそうになった、その場所へ。
コメント
3件
陽介さん優しすぎる🥹