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第二十七話 星還りの門、手紙を胸に
別れの日の朝は、静かだった。
雨は降っていない。
風も強くない。
空は青く、雲は白く、庭の小さな芽には朝露が乗っている。
昨日と同じ朝に見える。
けれど、同じではない。
衛宮邸の空気には、薄い透明な緊張が混じっていた。
誰も大声では話さない。
けれど、沈黙しているわけでもない。
箸の音。
湯呑みを置く音。
味噌汁を啜る音。
イリヤが卵焼きの皿を置く音。
その一つ一つが、いつもより少しだけ大切に聞こえた。
「今日は、ちゃんと巻けた」
イリヤは皿の上の卵焼きを見て、真剣に言った。
昨日よりも形が整っている。
少し焦げているところはあるが、ちゃんと卵焼きだった。
士郎は一切れ食べて、頷いた。
「うまい」
イリヤの表情がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ああ。今までで一番うまい」
「やった」
ユイも一口食べる。
「甘い。温かい。昨日より、形がある」
ミライがすかさず言う。
「料理技能、明確に向上。記録更新」
イリヤは得意げに胸を張った。
「ふふん」
その隣で、アルトリアも卵焼きを口に運んだ。
「本当に美味しいです、イリヤ」
「セイバーもそう思う?」
「はい。努力の味がします」
イリヤは少し照れた。
「努力の味って、なんかすごいね」
凛は宝石板を見ながらも、口元を緩めていた。
メディアは静かに茶を飲み、ジャンヌは祈るような微笑みを浮かべている。
ギルガメッシュは当然のように卵焼きを食べ、短く言った。
「悪くない」
イリヤはもうその言葉が褒め言葉だと理解していた。
「ありがと、英雄王」
ギルガメッシュはふん、と鼻を鳴らす。
エルキドゥはその横で楽しそうに笑った。
だが、その指先は朝の光の中で薄く透けている。
アルトリアも。
ジャンヌも。
クー・フーリンも。
リチャードも。
イスカンダルも。
ランスロットも。
英霊たちの霊基は、確実に帰還へ向かっていた。
凛が宝石板を閉じる。
「帰還門、安定したわ」
居間の空気が止まる。
凛はゆっくり続けた。
「柳洞寺地下大空洞。願いの畑と願録聖堂の送別頁を接続して、英霊の座へ戻る道を作った。強制帰還じゃない。本人の意思と、契約の整理を経由して通る門」
メディアが補足する。
「帰る者は、送別頁を通して未練を整理できる。残る側の願いも、鎖ではなく手紙として処理される。術式としては、かなり綺麗にまとまったわ」
凛が少し疲れたように笑う。
「まあ、私とメディアがやったんだから当然だけど」
士郎は頷いた。
「ありがとう、凛。メディアも」
メディアは肩をすくめた。
「礼を言うなら、帰還門を壊さないように静かに使ってちょうだい」
クー・フーリンが笑う。
「俺らを何だと思ってんだ」
「騒がしい英霊の群れ」
「否定できねぇな」
イスカンダルが豪快に笑った。
「ならば盛大に帰るのが礼儀だな!」
エルメロイⅡ世が即座に言った。
「盛大に壊すなという話です!」
リチャードが楽しそうに頷く。
「物語的には、門が光り輝き、皆が笑って手を振るのが美しい!」
凛が半目で言う。
「だから演出じゃなくて術式の話をしてるのよ」
少しだけ笑いが起きた。
寂しさは消えない。
けれど、笑える。
それは、送る準備ができ始めている証だった。
◆
柳洞寺へ向かう前に、イリヤは地下の願いの畑へ行きたいと言った。
士郎はもちろん頷いた。
凛も、メディアも、何も言わなかった。
イリヤは小さな包みを持っていた。
中には、朝作った卵焼きが入っている。
甘い卵焼き。
ヘラクレスへ見せるためのもの。
柳洞寺地下の願いの畑は、以前よりもさらに穏やかになっていた。
地面の下に眠る願いの種は、静かに光っている。
燃えていない。
叫んでいない。
ただ、眠っている。
その中央に、守護の巨人がいた。
ヘラクレスの霊基は、もはや完全な姿ではない。
巨人の輪郭は大きな樹影のように畑へ溶け、斧剣の形をした守護結界が地面に深く根を張っている。
だが、そこにいる。
確かに。
イリヤは巨人の前に立つ。
「バーサーカー」
淡い光が揺れた。
イリヤは包みを開く。
「今日は、ちゃんと甘くできたよ」
小さな卵焼きを見せる。
ヘラクレスは食べられない。
声を出すこともできない。
それでも、守護結界が温かく揺れた。
イリヤは笑った。
「ね、上手くなったでしょ」
士郎は少し離れて見守っていた。
ユイとミライも隣にいる。
ユイが小さく言った。
「見せるだけでも、届くんだね」
ミライが頷く。
「共有行為として成立。物理摂取は不要」
イリヤは巨人の手に触れるように、畑の光へ指を伸ばした。
「今日は、みんなが帰る日なんだって」
ヘラクレスの光が静かに揺れる。
「寂しいね」
イリヤは笑っている。
でも、目には涙がある。
「でも、止めない。私、止めないよ。バーサーカーが私を守ってくれたみたいに、私もみんなの帰る道を守る」
その言葉に、守護結界が強く光った。
まるで巨人が頷いたようだった。
イリヤは卵焼きを包み直し、畑の端にそっと置いた。
「また来るね。次は、もっと上手く作る」
光が応える。
イリヤは涙を拭いた。
「じゃあ、行ってくる」
その声は、もう守られるだけの少女のものではなかった。
◆
柳洞寺地下大空洞。
そこには、巨大な門が開いていた。
門と言っても、石でできたものではない。
光の輪。
中心には星空が揺れている。
星の海の向こうに、英霊の座へ続く道がある。
周囲には、無数の白いページが漂っていた。
送別頁。
昨日、残ってほしい願いに対して、帰る者たちが返事を書いた手紙。
ページは鎖ではなく、道しるべとして門の周囲を回っている。
凛は宝石板を確認し、深く息を吐いた。
「帰還門、安定。今なら安全に送れる」
メディアが頷く。
「全員一度に通すと負荷が大きい。順番に行くわよ」
イスカンダルが胸を張る。
「ならばまずは余が行こう!」
エルメロイⅡ世がぎょっとする。
「いきなりですか!?」
「別れは勢いも肝心よ、坊主!」
「私はもう坊主ではありません!」
イスカンダルは豪快に笑い、エルメロイⅡ世の肩を叩いた。
「そうだったな。お前はもう、王の背を追うだけの少年ではない」
エルメロイⅡ世の表情が止まる。
イスカンダルはいつものように笑っている。
だが、その瞳は真剣だった。
「お前はよく歩いた。余のいない道を、よくぞここまで来た」
エルメロイⅡ世は唇を噛む。
「あなたは、いつも勝手だ」
「王だからな!」
「それで済ませないでください」
「はっはっは!」
エルメロイⅡ世は拳を握った。
「私は、あなたに言いたいことがまだ山ほどあります」
「ならば持っておけ。次に会った時に聞いてやる」
「次など、保証はありません」
「ならば夢見ろ。征服王の臣下なら、保証のない道を恐れるな」
エルメロイⅡ世は目を伏せた。
そして、深く息を吐く。
「……あなたに会えて、私の人生は滅茶苦茶になりました」
「うむ!」
「ですが、その滅茶苦茶がなければ、今の私はありません」
イスカンダルは満足そうに笑った。
「良い顔になったな、ウェイバー」
その名を呼ばれて、エルメロイⅡ世の表情が揺れた。
「……その名で呼ぶのは、反則です」
イスカンダルは門へ向かう。
途中で士郎たちへ振り返った。
「衛宮士郎! お前の戦、見事であった! 願いを支配せず、燃やさず、眠らせる。実に面白い征服だったぞ!」
士郎は苦笑した。
「征服したつもりはないんだけどな」
「結果として新たな地平を開いたなら、それは征服よ!」
イスカンダルは豪快に笑い、星の門へ歩き出す。
「ではさらばだ! またいずれ、どこかの戦場で!」
エルメロイⅡ世が叫ぶ。
「ライダー!」
イスカンダルは振り返らず、片手を上げた。
その背中が星の光に溶けていく。
送別頁が一枚、光となって門へ吸い込まれた。
征服王イスカンダルは、笑い声を残して帰っていった。
◆
次に進み出たのは、リチャード一世だった。
彼は剣を肩に担ぎ、どこか晴れやかな顔をしている。
「さて、私の章もここで一度閉じるとしよう!」
士郎が言う。
「リチャード」
「衛宮士郎。君は実に面白い主人公だった!」
「主人公って……」
「違うかね? 願いを巡る物語の中心に立ち、神も英雄も人も巻き込み、最後には卵焼きまで物語の象徴にしたのだぞ」
凛が小声で言う。
「卵焼きが象徴って何よ」
リチャードは笑う。
「日常こそ最大の象徴だ!」
ジャンヌが微笑む。
「その言葉には同意します」
リチャードはユイとミライを見る。
「ユイ、ミライ。君たちの物語は始まったばかりだ。名を得たなら、次はその名で何をするかだ」
ユイは頷く。
「まだ分からない」
「それでいい! 分からないからこそ、ページはめくられる!」
ミライも頷いた。
「未定領域、肯定」
「うむ、良い響きだ!」
リチャードは門の前で剣を掲げた。
「では、私は行こう。物語は別れで終わるのではない。語られた時、また始まる」
彼は士郎へ向かって笑った。
「君たちの物語を、誇れ」
リチャード一世は光の門へ入り、星の中へ消えていった。
◆
ジャンヌの番が来た時、大空洞は静かになった。
彼女は旗を抱え、全員へ向かって微笑んだ。
「皆さんと共に祈れたことを、私は忘れません」
イリヤが一歩前に出る。
「ジャンヌ」
「はい、イリヤ」
「私、ちゃんと生きるね」
ジャンヌは優しく頷いた。
「はい。あなたの生は、あなたのものです。どうか、急がずに育ててください」
イリヤは涙をこらえながら頷く。
ユイもジャンヌを見る。
「祈りって、まだよく分からない」
ジャンヌは答えた。
「誰かを思うことから始めればいいのです」
「思う」
「はい。温かいものを知りたいと思うことも、きっと祈りの始まりです」
ユイは胸に手を当てた。
「じゃあ、私も少し祈れる?」
「もちろん」
ユイは小さく頷いた。
ジャンヌは士郎へ向き直る。
「衛宮士郎。あなたは自分の願いを、何度も呪いにされかけました。それでも、あなたはそれを自分の手へ取り戻した」
士郎は静かに聞く。
「どうかこれからも、救えなかったものを罪として燃やすのではなく、祈りとして抱いてください」
士郎は頷いた。
「ありがとう、ジャンヌ」
ジャンヌは微笑み、旗を掲げた。
「皆さんの道に、祈りがありますように」
白い光が広がる。
ジャンヌ・ダルクは、祈りの余韻を残して星の門へ還っていった。
◆
クー・フーリンは、いかにも気楽そうに前へ出た。
「さて、次は俺かね」
バゼットが隣に立つ。
「ランサー」
「そんな顔すんなよ、バゼット。戦は終わった。なら帰るだけだ」
「あなたはいつも、簡単そうに言う」
「難しく言うと帰りづらくなるだろ」
バゼットは黙った。
クー・フーリンは赤い槍を肩に担ぎ、士郎を見る。
「坊主。いや、衛宮士郎」
「何だ」
「いい戦だった」
士郎は少しだけ笑う。
「あんたにそう言われると、変な感じだな」
「褒めてんだよ。素直に受け取れ」
「ありがとう」
クー・フーリンはアーチャーを見る。
「弓兵、お前ともまたやり合いたかったがな」
アーチャーは肩をすくめる。
「こちらは遠慮したい」
「嘘つけ」
クー・フーリンは笑った。
そして、バゼットへ向き直る。
「バゼット」
「はい」
「お前はお前の戦いをしろ。決着ってのは、一回勝った負けたで終わるもんじゃねぇ。生きてる限り、何度でも来る」
バゼットの拳が震えた。
「また、あなたと戦えますか」
クー・フーリンはにやりと笑う。
「呼ばれりゃな。その時は、遠慮なく来い」
「はい」
バゼットは深く頷いた。
クー・フーリンは門へ歩き、最後に振り返った。
「じゃあな。飯は美味かったぜ」
イリヤが小さく手を振る。
「魚、また焼いてね」
「次呼ばれたらな」
赤い槍兵は笑いながら星の門へ消えた。
バゼットはその光が消えるまで、ずっと見ていた。
◆
ランスロットの番が来た時、アルトリアが前へ出た。
ランスロットは彼女の前で膝をつく。
「王よ」
アルトリアは静かに彼を見下ろしていた。
大空洞に、張り詰めた沈黙が落ちる。
ランスロットは言った。
「私は、罪を抱えたまま帰ります」
アルトリアは頷く。
「はい」
「ですが、罪だけを名にはしません」
「それでよいのです」
ランスロットの肩が震えた。
「再び、貴女の剣として戦えたこと。この身に余る誉れでした」
アルトリアは一歩近づく。
「ランスロット卿。貴方は私の騎士でした。そして今も、私の騎士です」
ランスロットは顔を上げる。
その目には、涙はない。
けれど、長い後悔が少しだけほどけたような光があった。
アルトリアは続ける。
「ですが、どうか貴方自身としても帰りなさい。罪を持つ者としてだけでなく、剣を捧げ、悔い、なお立った騎士として」
ランスロットは深く頭を下げた。
「御意」
士郎はその光景を見ていた。
赦しは一度で終わらない。
だが、確かに始まる。
ランスロットは立ち上がり、士郎へ向いた。
「士郎殿。王を頼みます、などとは言いません」
士郎は少し驚く。
ランスロットは穏やかに言った。
「王は、王ご自身の道を歩まれる。貴方も、貴方の道を」
士郎は頷いた。
「ああ」
ランスロットは最後にアルトリアへ一礼し、星の門へ歩いていった。
黒き騎士の姿は、静かな光に包まれ、やがて消えた。
アルトリアはその光を、最後まで見送った。
◆
次に消えるはずだったのは、メドゥーサだった。
彼女の霊基も淡くなっている。
だが、凛が宝石板を見て眉をひそめた。
「メドゥーサの帰還反応、少し遅い。桜との契約がかなり強く残ってる」
メディアが言う。
「月影の層で再定義された分、普通の帰還路とはズレているのね。今すぐ帰すと、桜側へ負荷が来る」
桜が不安そうにメドゥーサを見る。
「ライダーさん」
メドゥーサは静かに桜の手を取った。
「どうやら、私はもう少し傍にいられるようです」
桜の目に、安堵と戸惑いが浮かぶ。
「嬉しい、です。でも……」
メドゥーサは頷く。
「はい。いずれ帰る日は来るでしょう」
「はい」
「その日まで、少しずつ準備しましょう」
桜は深く息を吸った。
「泣く準備も?」
「もちろん」
桜は少しだけ笑った。
「じゃあ、もう少しだけ、よろしくお願いします」
「はい、サクラ」
メドゥーサはまだ帰らない。
そのことに、士郎も少し安心した。
別れは一度に来ない。
それもまた、優しさなのかもしれなかった。
◆
門の前に、ギルガメッシュとエルキドゥが立った。
大空洞の空気が変わる。
英雄王と、その友。
二人の帰還は、他の英霊とは少し違う重さがあった。
ギルガメッシュは腕を組み、門を睨むように見ている。
「つまらぬ門だ」
凛が疲れた声で言う。
「文句言うなら使わなくていいわよ」
「誰が使わぬと言った」
エルキドゥは微笑んだ。
「ギル、素直じゃないね」
「黙れ」
士郎は二人へ歩み寄る。
「ギルガメッシュ。エルキドゥ」
ギルガメッシュは士郎を見る。
「雑種。今回の件、貴様にしては悪くなかった」
「最後まで上からだな」
「我が下から物を言うと思うか」
「思わない」
エルキドゥが笑う。
「でも、ギルは感謝してるよ」
「エルキドゥ」
「違う?」
ギルガメッシュは黙った。
しばらくして、士郎へ向き直る。
「願いを宝として扱うなら、覚えておけ。宝はしまい込むだけでは腐る。使い、渡し、失い、また見出すものだ」
士郎は頷いた。
「覚えておく」
「忘れれば、次に会った時に笑ってやる」
「できれば笑われたくないな」
「ならば忘れるな」
エルキドゥはユイとミライを見た。
「君たちも、元気で」
ユイが小さく手を振る。
「また会える?」
エルキドゥは少し考えた。
「分からない。でも、会えたら嬉しい」
ミライが言う。
「再会可能性、未定」
エルキドゥは笑った。
「うん。未定って、いい言葉だね」
ギルガメッシュは門へ歩き出す。
エルキドゥも隣に並ぶ。
その途中で、ギルガメッシュが立ち止まった。
「エルキドゥ」
「何?」
「行くぞ、友よ」
エルキドゥは柔らかく微笑んだ。
「うん、ギル」
二人は星の門へ入った。
金と緑の光が絡み合い、やがて星空の奥へ消えていく。
大空洞に、しばらく誰も声を出せなかった。
◆
門の光はまだ消えない。
だが、かなり静かになっていた。
多くの英霊たちが帰った。
残っているのは、アルトリア、アーチャー、メドゥーサ、そしてメディアなど、強い契約や特殊な縁を持つ者たち。
イリヤは士郎の袖を掴んだ。
「みんな、行っちゃったね」
士郎は頷く。
「ああ」
「寂しいね」
「ああ」
士郎は、その言葉を否定しなかった。
寂しい。
ちゃんと寂しい。
それでいいのだと思った。
ユイは門を見つめている。
「消えた?」
ミライが答える。
「帰還。消滅とは異なる」
ユイは胸に手を当てる。
「でも、見えない」
イリヤが言った。
「見えないけど、今日話したことはあるよ」
「ある」
「うん。温かいままある」
ユイは小さく頷いた。
凛は宝石板を確認し、静かに言った。
「今日の帰還はここまで。門はまだ保てるけど、これ以上続けると送る側の負荷が大きい」
メディアも頷く。
「続きは明日以降ね」
士郎はアルトリアを見た。
アルトリアも士郎を見ている。
言葉はない。
まだ、彼女は帰らない。
アーチャーも凛の横に立っている。
まだ、帰らない。
その事実に、士郎は安堵した。
同時に、それが次の別れを先延ばしにしているだけだとも分かっていた。
それでも、今はそれでいい。
別れは一度に受け止めなくていい。
ページは、少しずつめくればいい。
◆
衛宮邸へ戻った夜。
居間はいつもより広く感じた。
実際には、まだ十分すぎるほど人がいる。
アルトリア。
アーチャー。
メドゥーサ。
メディア。
凛。
桜。
イリヤ。
ユイ。
ミライ。
バゼット。
玄礼は監視下で別室にいる。
それでも、空席がある。
イスカンダルが座っていた場所。
リチャードが騒いでいた場所。
ジャンヌが祈っていた場所。
クー・フーリンが柱にもたれていた場所。
ギルガメッシュとエルキドゥが並んでいた縁側。
誰もそこに座っていない。
士郎はその空席を見た。
寂しさが胸に来る。
だが、それは黒いものではなかった。
温かくて、痛い。
ユイがぽつりと言った。
「空いてる場所がある」
イリヤが頷く。
「うん」
「そこに、いたんだね」
「うん」
ミライが静かに言う。
「空席は不在の記録」
士郎はその言葉を聞いて、少し笑った。
「そうだな。でも、閉じ込める記録じゃない」
凛が頷く。
「座る人が変わることもあるし、空いたままでもいい」
桜が湯呑みを置きながら言った。
「でも、覚えていてもいい」
アルトリアが静かに続ける。
「はい。覚えていて、縛らない。それが今日の答えですね」
士郎は頷いた。
その夜の夕飯は、少し静かだった。
でも、ちゃんと温かかった。
◆
深夜。
士郎は庭に出た。
空には星が見えている。
帰っていった英霊たちが、あの星のどこかへ戻ったわけではない。
英霊の座はそんな単純な場所ではない。
それでも、星を見上げてしまう。
人はたぶん、見えないものを見上げるために星を使うのだ。
アルトリアが隣に来た。
「眠れませんか」
「少しな」
「私もです」
士郎は驚いた。
「サーヴァントも眠れないのか」
「眠る必要は薄いですが、心が静まらないことはあります」
「そっか」
二人はしばらく星を見ていた。
やがて士郎が言った。
「明日か?」
アルトリアは答えない。
少しだけ沈黙してから、言った。
「近いでしょう」
士郎は拳を握った。
逃げたい。
そう思った。
でも、逃げないと決めた。
「ちゃんと送る」
アルトリアは士郎を見る。
「ありがとうございます」
「でも、寂しいとは言う」
アルトリアは柔らかく微笑んだ。
「はい。聞きます」
士郎は星を見上げたまま言う。
「寂しい」
アルトリアは静かに答えた。
「私もです」
その言葉だけで、十分だった。
別れはまだ来ていない。
けれど、来る。
その時、ちゃんと言葉にできるように。
士郎は星を見上げ続けた。
◆
同じ頃。
願録聖堂の送別頁は、静かに光っていた。
イスカンダルの頁。
リチャードの頁。
ジャンヌの頁。
クー・フーリンの頁。
ランスロットの頁。
ギルガメッシュとエルキドゥの頁。
どれも閉じられていない。
いつか、誰かが思い出した時。
いつか、誰かが語った時。
また余白に言葉が増えるかもしれない。
願いの畑では、ヘラクレスの守護結界が淡く光っている。
まるで帰っていった英霊たちへ、静かに敬意を送るように。
神杯戦争、第二十七夜。
帰還門が開き、星へ還る者たちはそれぞれの言葉を残して旅立った。
征服王は笑い、獅子心王は物語を語り、聖女は祈り、槍兵は戦の余韻を残し、湖の騎士は王へ別れを告げ、英雄王と友は二人だけの続きを抱えて帰っていった。
残った者たちは、空席を見つめる。
そこにいたことを覚えながら。
そこに縛られないように。
そして次の朝。
もっとも近く、もっとも重い別れが待っている。
アルトリア・ペンドラゴン。
エミヤ。
士郎と凛のもとへ再び来た二騎の英霊が、帰る時が近づいていた。
第二十八話へ続く。
コメント
1件
第27話、読み終えたよ……。もうね、さすがに泣いたわ。 イスカンダルが「ウェイバー」って呼んだところ、イリヤがヘラクレスに卵焼き見せるところ、ギルとエルキドゥが並んで門に入るところ——全部刺さった。別れって「寂しい」で終わらせない強さがこの話にはあるよね。「空席は不在の記録」ってミライの言葉も良かった。明日のアルトリアとエミヤの帰還、覚悟して読むわ。