その日の朝、 青 は腹痛で顔を顰《しか》めた。 青 は子宮内膜症で二十歳からマタニティクリニックに通院していた。
「大丈夫か」
「うん、いつもの事だから」
ピルが処方され月経を止めていたのだが、ここ数ヶ月「子どもが欲しいから」と自己判断でピルを服薬せずにいた。下着は赤く染まり下腹の鈍痛は時間を増すごとに強くなった。
「痛むのか」
「火で焼いた鉄の棒で掻き回されている感じ」
「顔、真っ青だぞ」
「タクシーで行くから大丈夫」
そう言った 青 はタクシーに乗り込むと後部座席に横になり下腹を押さえた。拓真はその背中を何度も摩るとドライバーに一万円札を手渡し「杉浦マタニティクリニックまでお願いします」と行き先を告げた。
バタン
拓真はタクシーのブレーキランプを見送るとカメラバッグを肩に担ぎ自転車に跨った。 青 の事があり出番寸前、額に汗が浮かんだ。
「あっ、乗ります!」
フォトスタジオのエレベーターに駆け込むとマネージャーの日村が上階へと向かうボタンを押し、満面の笑みを浮かべた。
「おはようございます」
「おはようございます、蒼井さん、先週の撮影だけど良かったよ」
「そうですか!」
「紺谷も喜んでいてね、結城紅専属カメラマンとしての契約を検討しているそうだよ」
「えっ!本当ですか!」
「紅は object《オブジェクト》 紺谷組で今一番推しているモデルだからね、新進気鋭のフォトグラファーAOとのコラボレーションは話題作りにもなるよ」
エレベーターは三階で止まった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
待合の長椅子に座ると日村はクリアファイルから企画書を取り出した。
「blos-somとのタイアップで二人のドキュメンタリーを撮る案が出ているんだよ」
「二人、ですか」
「なに惚《とぼ》けた事を言っているんですか!蒼井さんと紅ですよ!」
「二人」
「はい」
企画書を数枚捲ったところで資料を手渡された。
「ドキュメンタリーはblos-som商品のプロモーションビデオも兼ねていますから短編映画に近いかな。蒼井さんにとってこれは大きなお仕事になりますよ」
「それは、それは凄いですね」
「はい」
拓真の心臓は早鐘のように打った。
「ーーーー紅も蒼井さんを《《気に入って》》いますからね」
後頭部を殴られたような気がした。凝視するそこには二人が口付けた事を暗に示しているような気配すらあった。拓真の頬は引き攣った。
「節度ある話題作りは我々としても大歓迎です」
「どういう事でしょうか」
「そういう事です」
「さぁ、撮影の準備をお願いします」
「はい」
「今日は椿ですよ」
「はい」
暗幕の向こうには結城紅が待っている。拓真の胸は高鳴り、指先は震えた。
真っ白なバックスクリーンに同化した純白のドレスは、細いウェストから裾に向けて膨らみくるぶし辺りで蕾んだ。両性具有の美しさを際立たせる寂しげな面持ち、真っ赤な椿が幾つも|首《こうべ》を落として散らばっていた。
「今日は初冬、初雪が積もった椿のイメージでお願いします」
「初雪」
「はい」
ヘアメイクが髪型を整え、椿の位置を拓真に確認した。
「あぁ、すみません、その耳元の、はいもう少し上でお願いします」
その間も拓真と結城紅の視線は熱く絡み合った。それを眺めるマネージャーの日村はうんうんと頷いた。
「日村、ちょっと来い」
「はい、なんでしょうか」
object《オブジェクト》 紺谷組の企画会議で蒼井拓真と結城紅の今後の在り方について話し合いがなされた。その姿《紅》をカメラで追い続ける若きフォトグラファー蒼井拓真。紺谷信二郎はこの二人を、切磋琢磨しながら業界を登り詰めてゆく恋人として売り出す事とした。
「俳優と女優では良くある事だ。話題性にはなる」
「蒼井さんには夫人がいますが」
「その点については調べてある」
「はい」
「フォトスタジオは別に移す、その女は出入り禁止だ」
撮影がひと段落ついた所で結城紅は控室に戻る事となった。
「蒼井さん、ちょっと」
「はい」
「例のドキュメンタリーの打ち合わせで《《二時間ほど》》空きが出来るんですよ」
「分かりました」
「紅の控室で休憩して下さい」
「結城さんの控室ですか?」
「他の部屋が埋まっていまして、お嫌ですか」
「いえ、そんな事は」
横目で見ると結城紅は口元を緩めて手を振り暗幕の向こうに消えた。拓真の喉仏がゴクリと上下した。日村はそれを見逃さずに肩を叩くと耳元で囁いた。
「そういう事です」
「それはどういう意味でしょうか」
「これだけは気を付けて下さいね」
その手には避妊具が握らされた。
暗幕を捲ると直線の廊下が伸び、消防設備の赤いランプ、緑と白の避難誘導看板が点在していた。天井のLED電灯の白い明かりがビニル床シートを照らし、左右両側に控室が続いていた。
然し乍らそこに人の気配はなく、「部屋が埋まっていまして」と言うマネージャー日村の言葉が偽りであった事は容易に察する事が出来た。
(誰も、いない)
人払いがされた静寂の中、廊下の突き当たりの扉に<結城 紅 様>の看板が掲げられていた。すりガラス越しの室内は明るく、人の息遣いを感じた。
コンコンコン
握った手は汗ばんでいた。「はい」カナリアの声が中へと誘う。拓真は肩のカメラバッグを担ぎ直してドアノブを握った。鏡が設えられたドレッサーが視界に飛び込んで来た。
「あ」
それは合わせ鏡となり、何人、何十人もの結城紅の背中が続いていた。
「どうぞ」
「あ、はい」
震える指でドアノブを閉める。
結城紅は拓真に背中を向け、合わせ鏡に向いて色味のない薄い唇を開いた。その動きは合わせ鏡の深部まで続き、赤茶の瞳が拓真を見つめた。
「聞いてる?」
「なにが、でしょうか」
「ここで撮影するのよ、カメラを準備して」
拓真は「撮影」だと聞き胸を撫で下ろした。あれは日村の|性質《たち》の悪い冗談だったのだ。
「準備が出来たら言って」
「分かりました」
カメラレンズを装着して見上げると無表情な結城紅が見下ろしていた。これはドキュメンタリーの合間に静止画像として差し込む写真だと言った。
「自由に動くから撮って」
「はい」
結城紅はおもむろにドレッサーの前の椅子に腰掛けて肘を突いて見せ、そのまま手首を上げると|頸《うなじ》を見せつけるように髪を掻き上げた。
カシャカシャ カシャ
次に化粧箱を取り出すとコットンにネイルの除光液を染み込ませ真っ赤なネイルを拭き取り始めた。鼻に付く揮発性アセトンのにおい。
カシャカシャ
指先の色味を拭き取り、次に顔半分のメイクを落とし始めた。
カシャカシャカシャ
線対称の結城紅、メイクを落とした唇は淡い桜色で目元は優しくあどけない面持ちへと変化した。
カシャ
(あの両性具有の顔立ちはメイクで作っていたのか)
カシャカシャ
「拓真」
「はい」
「私の名前は結城 美由《ゆうきみゆ》なの」
「みゆ、可愛らしいお名前ですね」
メイクを全て落とし終え、ヘアバンドを着けると洗面所で顔を洗い出した。
「これも全部撮るんですか」
「そうみたいよ、紺谷さんからそう言われたの」
焦茶のタオルで頬の水滴を吸い取り、ヘアバンドを外す。そこに立っていたのは結城紅ではなく結城美由だった。
「え、そ、それも撮るんですか」
「拓真のその指が止まるまで撮って」
白いワンピースのボタンを上からゆっくりと外してゆく。モデルの撮影には有りがちだが下着は着けておらず、乳首を隠していたシールを片方ずつ外すとその度に貼りついた肌が伸びピンク色の乳首が揺れた。
カシャカシャ カシャ
(猥褻画像にならないように気を付けてください)
マネージャー日村の顔が脳裏を過った。
カシャカシャ
一枚また一枚と花弁が落ちるように結城美由が現れその赤茶の瞳が拓真に縋り付く。それはまるで「抱いてくれ」と言わんばかりの色香だった。ワンピースが床に落ち、最後の一枚を前屈みで脱ぐ。
カシャカシャ
薄い茂みを隠す事なく結城紅はドレッサーの上に跨った。
カシャカシャ
拓真の手が止まり、構えていたカメラを首から下げた。
「もう、撮れません」
「もう脱ぐものはないわ」
「はい」
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
拓真は大きく息を吸って吐いた。
「拓真、緊張した?」
「それはしました」
「私と二人きりだから?」
「そうです」
結城紅はドレッサーから降りると拓真の前に立った。
「私も緊張したわ」
「慣れているように見えました」
「それはプロだもの」
ふっと口元を緩めたその表情に、拓真は生身の女性を感じた。
「日村さんからなにか渡されなかった?」
「あーーーーはい」
「拓真がそれを使ったら私はあなたを軽蔑したわ」
「あーーーーはい」
「使いたかった?」
「正直、答えに困ります」
結城紅は手を差し出した。
「私たち《《恋人になれそうね》》」
「はい」
拓真はその手を握り握手を交わした。温かい血潮を感じた。
(結城美由、美由)
拓真の胸に何かが宿った。
暗幕の隙間を潜りスタジオに入るとマネージャー日村が腕を組んで立っていた。拓真は頭を下げた。
「やはり蒼井さんは我々の見立て通りの人だ」
「はい?」
「使わなかった」
「あ、はい」
「紺谷も喜びますよ、これで契約は成立です」
「契約成立、ですか」
「蒼井さんは object《オブジェクト》 紺谷組の一員です」
日村は大きくて厚みのある手を差し出し、拓真の手を強く握った。
「蒼井さんの手は優しいですね」
「そうですか」
「午前中の撮影も大変良かった」
「ありがとうございます」
「明日からドキュメンタリーの撮影も入ります。今度は撮られる側になりますが肩の力を抜いてお願いします」
「はい」
暗幕が捲り上げられ結城紅がスタジオに入って来た。黒いバックスクリーン、藤の椅子に腰掛けた彼女の顔はのっぺりとした表情に塗り替えられていた。
「日村さん」
「なんでしょうか」
「美由さんと仰るんですね」
それを聞いた日村は一瞬驚いた顔をした。
「紅が言ったんですか」
「はい」
「そうですか」
「それがなにか」
「いや、これは私たちが《《御膳立て》》する必要はなさそうですね」
「御膳立て」
日村は拓真の肩を叩いた。
「さぁ、時間、時間、蒼井さん入りまーーす!」
眩しいライトの中、結城紅は拓真に向かって微かに微笑んだ。そして赤茶の瞳がカメラのファインダー越しに拓真に語り掛ける。
あなたが好き
あなたが好き
あなたが好き
あなたが好き
拓真はその言葉に応えるように熱くシャッターを切り続けた。
「ただいま」
家の鍵を開けると陰鬱な空気に包まれた。
「拓真、おかえりなさい」
「腹の調子はどう」
「お医者さんに怒られちゃった、勝手に止めないで下さいって」
「それで」
「内膜症、あまり良くないみたい」
ソファに横になっていた 青 はゆっくりと起き上がり、拓真に向かって手を差し出した。今日の結城紅を見せろと言うのだ。
(ーーーー面倒臭い)
カメラバッグの中からカメラとバッテリーを取り出す自身の機械的な動きに息が詰まった。
「今日は椿なのね」
「ああ」
「私も見てみたかった」
「関係者以外は立ち入り禁止だよ」
「私は拓真の奥さんなんだけど」
「ーーーーそういう意味じゃないだろう!」
「なにを怒っているの」
青 は指先で画面をスライドさせながら呟いた。
「椿の花言葉は《《罪を犯す女》》」
妖しい笑みで拓真を見上げ、拓真はその目を睨み付けた。
「怖い顔」
「その花言葉、止めてくれ」
「なに、色々と心当たりでもあるの」
「気が滅入るんだよ、鬱陶しいんだよ!」
「そんな事言うんだ」
青 がテレビのリモコンボタンを押すと18:00の報道番組が放送されていた。それを目にした拓真の動きが止まった。
<昨夜からの大雨で崖崩れが起きました>
鬱蒼とした雑木林
<民家が押し流され>
見慣れたコテージ
<発見されました>
青いビニールシートを高々と掲げ挙げた捜査員の行列
「大雨だって」
青 は愕然とする拓真を凝視した。
そして 青 は報道番組をバラエティー番組に切り替えて笑い出した。
あはははは あははは
「ーーーーあれは違うだろう」
「なにが違うの」
「違うだろう!」
拓真はアイビーの蔦に絡め取られるような息苦しさに耐えかね 青 からカメラをむしり取るとカメラバッグを手に仕事部屋に向かった。
「もうすぐ夕ご飯よ」
「ーーーーーらない」
「拓真の好きなビーフシチューよ」
「いらない」
「子どもみたいね」
リビングに響く 青 の笑い声。拓真の精神状態は既に限界を超えていた。
あははははは あははは
耳を塞ぎながら拓真はカレンダーを壁から取り外し裏返すと1月の紙を無造作に破いた。デスクから鉛筆を持ち出しやや寝かせて擦るとうっすらと携帯電話番号が浮き上がった。
090ー32**ー0***
結城紅の連絡先だ。拓真はそれを財布に入れると玄関扉のドアノブを握った。
「ちょっと出てくる」
「カメラも持っていくの?」
「明日はそこからスタジオに行く」
「ホテルに泊まるの」
「今夜は 青 と一緒にいたくない」
「ふーーん」
後ろ手に扉を閉めると 青 の笑い声が聞こえた。拓真は背筋が凍った。このカメラバッグにも、靴にも、着ている服にもなんらかの仕掛けがあるようで怖気がした。携帯電話にはGPS追跡アプリが仕込まれている、それは確実だった。今頃、あの部屋のソファに座る 青 は携帯電話画面に表示される《《拓真の足跡》》を見てほくそ笑んでいるに違いなかった。
マンションから出て流しのタクシーを待った。一台のタクシーが交差点の赤信号で停まっている。青信号になり左手を挙げるとそれは流れるように拓真の前に停車し後部座席のドアが開いた。不意にマンションを見上げると 青 が手を振っていた。
「金沢駅までお願いします」
「はい」
拓真は 青 から逃げるようにマンションを後にし、携帯電話を取り出した。財布から取り出したカレンダーの切れ端の数字に目を落とし、ゆっくりとタップした。
ルルルル ルルルル ルルルル
発信音が三回、訝しげな息遣いを感じた。
「蒼井です」
「あぁ、蒼井さん、ごめんなさい分からなくて」
軽やかなカナリアの声に心が安らいだ。
「会いたい」
「ーーーえ」
「結城さん、会いたい、今から会えないかな」
「ーーーあの」
「あ、ごめん、突然、ごめん」
「あの」
「忘れて」
「あの」
「ーーーーじゃ、また明日」
指がボタンを押そうとした瞬間、カナリアが鳴いた。
「わ、私も会いたい!会いたいです!」
恥じらいが隠しきれない《《美由》》の上擦った声に拓真の心臓は跳ね上がった。結城紅はblos-somとの契約上、公の場で会う事は控えたいと言っていた。
「蒼井さん、私のマンションに来て」
「分かった」
「待ってる」
拓真は金沢駅前の商業施設で靴から靴下、下着、衣類を全て新しいものに買い替えた。念には念を入れ財布も買い換え中身を入れ替えた。カメラバッグにはこれまで使っていた財布とマナーモードにした携帯電話を入れ、身に付けていた物、手にしていた物を全てコインロッカーの中に預けた。
(ーーーこれで終わりだ)
青 の仕込んだGPS追跡アプリはこのコインロッカーで動かない。拓真は駅構内のホテルに宿泊している事になる筈だ。
「ちょっと近いんだけど西念《さいねん》四丁目のアルベルタ西念まで」
「はい」
拓真は金沢駅西口のタクシープールから結城紅のマンションへと向かった。
「オートロックなの、到着したら504のインターフォンを押して」
「分かりました」
結城紅の指定したマンションは、金沢駅から直線片側三車線の大通り沿いにあった。「新築六階建、赤茶のレンガを目印にして」と言われた。
「ここか」
第一線で活躍するモデルへの差し入れとして相応しくないとは思ったが、駅構内の洋菓子工房でガラスの器に入ったプディングを購入した。片手に感じる重み、拓真の喉仏はゴクリと上下した。このボタンを押した瞬間、全てが変わる。
あははははは あははははは
その時、 青 の狂気じみた笑い声が幻聴となって耳を掠め、消えた。
(もう、なにも隠す事はない、もう自由になりたい)
5 0 4 ピンポーンピンポーン
「はい」
「蒼井です」
「蒼井さん、こんばんは!」
結城紅とは真逆の溌剌とした声色は20歳の生身の女性、《《美由》》を感じさせた。
「今、開けます!」
「は、はい」
エントランスの扉が開く瞬間、拓真は思わず振り返った。電信柱の陰、建物の隙間から 青 がこちらを覗き見ているような気配に恐怖を感じた。ガラスの自動扉が閉まると拓真はエレベーターホールへと踵を返し、上階へ向かう五階のボタンを連打した。
(早く、早く、早く、早く!)
そのエレベーターの扉が開いた瞬間、マンションの住人と鉢合わせをした拓真は息を呑んだ。
「ーーーーヒッ!」
「えっ!」
「あ、すみません!」
怪訝な顔をされた拓真は何度も謝罪しながら頭を下げた。
(ーーー念の為に)
拓真は四階でエレベーターを降り、非常階段から五階へと向かった。
5 0 4 号室
ピンポーン
インターフォンを押す。扉が開いた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!