いざ金沢市役所に向かったが、女性専用シェルターの相談窓口は”女性相談支援室”で他の建物に在ると言われた。
そこで西村と朱音は電信柱2本分離れてその場所へと向かう。石畳の小径、向日葵が首を傾げる門の奥には古めかしい黒い瓦をふいた木造の日本家屋、ここは金沢市の中心部にも関わらず木立が夏の日差しに影を作り、蝉時雨が降り注ぐ。大通りで横断歩道が赤になった。
振り返ると白いワンピースを着た桜色の朱音が小さく微笑んでいる。彼女がデリバリーヘルス嬢であるとは誰も思わないだろう。少しばかり個性的なヘアスタイルの何処にでも居る19歳。
ピッポーピッポーピッポー
機械的な小鳥がさえずり、青信号へと変わる。アスファルトに描かれた白い横断歩道に陽炎が揺らめいている。
そんな15:00、朱音は必死に西村の大きな背中を目で追いながら赤い靴を履いて白い線を踏み、その道を渡った。
(・・・・遅せえなぁ)
仄暗い廊下、茶色くて硬い長椅子で膝を組んだ西村は大きな欠伸をした。
手にドメスティックバイオレンスや性被害、暴力、売春抑止等のパンフレットを持ち、それぞれのページをパラパラと捲りながらぼんやりと朱音が入っていった味気ない灰色のドアを眺めていた。
15:40
朱音が相談室とやらに招き入れられ、とうに40分が経過していた。あまりに帰りが遅いと会社に夜の連中が出勤し始める。どうしてわざわざ|此処《会社》で私服から制服に着替える必要があるのかと色々勘繰られるのは勘弁して欲しい。最悪私服で帰宅し、「それは如何したの?」と智に尋ねられた時に「乗せた客が吐いてさぁ、制服、汚れたからクリーニングに出したわ。」等と不自然極まりない言い訳をする事は何としても避けたかった。
(仲間と飯食ってたってのもアリだな、うん)
あれこれと嫁への言い訳を模索していると、朱音が姿を消したドアの向こうで何かが激しく倒れる音が聞こえた。それは止まる事なくドアや壁にぶつかり廊下まで響いた。真向かいの事務所から数人の男性職員が慌てて駆けつけ、ドアのノブを回そうとした所で悲痛な叫び声が上がった。
「止めなさい!落ち着いて!やめて!やめて!」
西村は124号車の北が言った言葉を思い出した。
=あのお嬢ちゃんなぁ、発作起こしやがって笑いながら運転している俺の首を後ろから絞めやがったんだよ!=
西村は長椅子から跳ねるように飛び上がると男性職員の壁を掻き分けて部屋に入り、思わず足が|竦《すく》んだ。
「朱音!?」
会議室によくある茶色い長机が何台もひっくり返り、床にはパンフレットが散乱していた。二脚のパイプ椅子が無惨な形で倒れている。ハラハラと舞い落ちる書類の向こうで女性相談員に馬乗りになった朱音が今まさに首に手を掛ける所だった。
西村は鳥肌が立つ思いがしたが無我夢中で朱音を羽交いしめにして身体を強張らせた相手から引き剥がした。咽せ込んで喉を押さえる女性相談員は何が起きたか分からないという顔をしている。
「朱音、何してるんだ!おい!」
紅潮した朱音の頬を2、3回叩くと虚だった目の色が変わり西村を凝視して叫んだ。
「だって、あいつが!」
桜色の髪の毛を振り乱して女性相談員を指差して壊れた人形の様に手足をバタつかせる。
「だって!あいつがシェルターに入る時は携帯電話を持ち込んじゃいけないって言うんだもの!携帯電話がなかったら西村さんと話せない、会えなくなっちゃうじゃない!」
「そ、それは・・・携帯電話のG、GPS機能で相手に居場所を突き止められない様に・・・する為・・です」
女性相談員は乱れた襟元を正しながらしどろもどろに説明を続けた。
「・・・・だって!だって!」
「朱音、来い!」
朱音はそんな言葉に一切耳を貸さず、涙を流して泣き叫ぶ。
「駄目!携帯電話は駄目!」
「すんません、また来ます!申し訳ない!」
「あ、ちょと!待ちなさい!君!」
朱音の腕を掴んだ西村は、長椅子に置いてあったショッピングバッグを手に走り出した。すかさず2人の後を追おうとする男性職員を振り払うと相手は激しく転び呻き声をあげる。汗ばむ指先、手摺りにつかまりながら階段を駆け下りる。
「お前、何やってるんだよ!」
「だって!だって!」
無愛想なビルを後目に石畳を蹴り上げた西村は、泣きじゃくる朱音を半ば無理矢理に引き摺りその場を後にした。
横断歩道の信号を無視した所でハッと息を呑む。その向かいは金沢中警察署、正面玄関の駐車スペースには白と黒のツートーンに赤色灯のパトカーが2台停まっている。
(《《こんな所で》》傷害でとっつかまるとか冗談じゃねぇ!)
バス停で待つ人の目線が背中に刺さる。泣き叫ぶ少女を引き摺る中年男性。路上のドライバーがジロジロとこちらを見ている様な気がして目を逸らした。坂道を駆け下りた所の交差点で足止めを喰らう。
(いや、ここは自転車専用交差点だ。地下道、地下道だ、地下道!)
2人の背中が薄暗い穴に吸い込まれる。西村の革靴に朱音の赤い靴、煙草の吸殻や空き缶が転がる階段を慌ただしく駆け降りた。ハァハァと息が上がる、靴音が響く、額から顎にかけて汗が流れる、パチパチと角が割れた蛍光灯が天井に続く。暗い地下道の中央付近で忙しなかった靴音が徐々に止んだ。
ハァハァ ハァハァ ハァハァ
息も絶え絶えに中腰で両膝に腕を付いた西村が朱音の顔を見上げる。白い顔が浮かび上がり、碧眼の目がギョロギョロと左右に動く。
「な、なんであんな事した」
「・・・携帯電話」
「それよりも・・・それより住む場所、だろう?」
「・・・携帯電話」
「携帯・・・携帯電話、無くても連絡出来るって」
ハァハァ ハァハァ
西村は額から噴き出し顎を伝う汗を拭うが、朱音は汗一つかいて居ない。
「大丈夫、大丈夫だ」
「・・・携帯電話」
「大丈夫だ」
適当な大丈夫を口にした西村は朱音を抱き寄せたが、思わず背中に回した指を1本、2本と外してしまった。
(・・・・冷たい、氷の様に・・・冷たい)
チラリと横目で見る彼女は無表情だ。数分前までの朱音とは別人のようだ。
全体に纏う全てを遮断したような雰囲気、これは・・・・目の前に居るのは、《《金魚》》だ。
西村の背中をヒヤリとした今までとは違う汗が流れた。女性職員を組み敷いたあれが発作だとしたら?此処で俺も首を締められてしまうのか?まさか、そんな筈は、いや、無いと如何して断言出来る?
「あ・・・・朱音」
「なに」
やはり何処かが違う、説明しようが無い悍ましさが革靴から黒いジーンズを伝い、臍を撫で西村の両頬を包み込む。身の毛がよだつ。
(・・・・外、外へ)
とにかくこの暗闇から抜け出して外の空気が吸いたい。冷たい氷の様な朱音の両手をしっかりと握ると西村は碧眼の瞳を見据え、緊張で乾ききった口をゆっくりと開いた。
「朱音、大丈夫だ。会える、離れていてもいつまでも一緒だ」
「・・・・・・」
「だからそんな顔、するな」
「・・・・・・」
「俺が守るから。大丈夫だ」
「・・・・・・」
「な?」
「・・・携帯電話」
「携帯電話、分かったよ。大丈夫だ」
西村は氷のように冷たい朱音の背に手を回すとタクシーに乗せる時と同じく《《エスコート》》して、一段、また一段と階段を上がり、無事明るい地上に出る事が出来た。
先程走り降りた坂が道路の向こう側に見える。交差点から少し先のコンビニエンスストアの前まで歩くと朱音の表情がやや和らぎ、繋いでいた手がほんのりと温かくなるのが分かった。
(・・・・・・助かった)
すると乗車客を探して通りを流している他社のタクシーの行燈が近付いて来た。西村はスっと左手を挙げてドライバーの目を見る。スーっと止まった黄色いタクシー、後部座席のドアが開いた。
「ほれ、乗れよ」
西村はそう言うと朱音を奥まで押し込み、座席に片手を突いてドライバーに30,000円を手渡した。
「釣りはいらねぇから、この子、山代温泉の総湯ロータリーまで頼むわ」
「あ、わかりました。良いんですか、こんなに頂いて」
「良いんだよ」
(あんたの《《首》》の保険がわりだ、すまんね)
朱音は西村を見上げて何か言いたそうな顔をしている。
「ほれ、これ、忘れもん」
西村は赤いワンピースが入ったショップバッグを手渡すと朱音の赤い唇に軽く口付けた。
「朱音、明日で|お勤め《デリヘル》終わりだろう?」
「うん」
「いつもの時間に迎えに行くから・・・・泣くな。大丈夫だ」
「うん。分かった」
桜色の髪、碧眼は涙に潤み、小さな唇は儚げに微笑む。いつもの朱音だ。
「じゃ、運転手さん、出して」
バタンと後部座席のドアが閉まると朱音は桜色の指、窓ガラスに顔を近付け(西村さん)と小さな声で呟いた。そして手を振って見送る西村の姿を最後まで目に焼き付けようと、彼女は座面に膝を突き後ろを振り向いてリアウィンドウからいつまでもいつまでもその姿を見つめていた。
そのテールランプは交差点を右折し、やがて見えなくなった。
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