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辺りは暗くなり始めていた。恭介が運転する車の助手席で、智絵里は欠伸をした。
一週間前に智絵里の実家に挨拶に行った時は、両親から歓迎を受け、恭介は珍しく酔っ払っていた。しかも二人の住まいからさほど離れていなかったため、混んでいない時間を見計らって電車で行くことが出来た。
だが恭介の両親は定年を機に、昔からの憧れだったという自給自足の田舎暮らしを始めたのだ。そのため二人は挨拶のために、車で向かった。
「まさか智絵里があんなに虫とか泥とかが平気だとは思わなかったよ。お陰で父さんと母さんも大喜びだったけど」
智絵里が恭介の両親に会うのは高校卒業以来のことだったが、何度か遊びに行ったことがあったので、恭介の相手が智絵里だと知った時は心から喜んでくれた。
「昔からお兄ちゃんと虫取りしたりしてたからねぇ。あまり抵抗はないかも。それよりも、おじさんとおばさんがお元気そうで嬉しかった。でもこれからはお義父さん、お義母さんなのよね……なんか不思議な感じ」
恭介は車をサービスエリアに停めると、智絵里の手を引く。
「ここ、海がキレイに見えるって有名なんだ。せっかくだから行ってみない?」
「うん、行きたい」
二人は夕食時で賑わう店内を抜けると、階段を昇り外へ出る。すると目の前に、沈む夕焼けを映し出す海が広がっていた。
「おっ、タイミング良かったな」
「本当だ……キレイだねぇ……」
「智絵里って海好きだよな。前に旅行に行った時も喜んでくれたし」
「そうかも……なんか海って無心になれるんだよね。嫌なこともみんな流してくれそうだし……」
二人は手すりに手を乗せ、並んで立った。波の音がこちらにまで聴こえてくる。
夜ということもあり、周りにはカップルが寄り添って同じように海を眺めていた。
「大学のそばに海があったの……寂しくなるとよく一人で砂浜に座って海を眺めてた。そうすると恭介と行った水族館のことを思い出したりしてね……楽しかったなぁって振り返ったり……」
少し肌寒さを感じて腕を撫でると、恭介は智絵里を後ろから抱きしめる。
「……まさか恭介と再会出来るなんて思ってなかったから、私にとって奇跡の一年だった……」
「そうだね……智絵里と再会して、ようやく止まっていた時計が動き出した。俺自身も前に進めたし、何より毎日が楽しいんだ」
「私も……楽しいなんて感覚、忘れてたもの。でも……なんていうか、恭介と一緒にいる楽しさを取り戻したんだよね。家族とか一花とか日比野さんとかとは違うの。自分らしくいられる心地良さ……ワガママ言ってるだけかもしれないけど、受け止めてもらえる安心感っていうのかな。これは恭介にしか感じないの」
「俺だけ特別ってこと?」
「うふふ、よく考えてみたらあの頃からずっと特別だったのかもね。だってその恭介に拒絶されるのが怖くて逃げ出したんだから」
特別か……恭介は腕に力を込める。
「智絵里と再会した時に、俺にだけ拒絶反応が出なかったよな。あの時すごく嬉しかったんだ。智絵里の隣は俺にとって特別な場所だった。そこに《《俺だけ》》が立てる。またそこに戻れると思ったら、気持ちが抑えられなくなった」
そして智絵里にあの日のことを聞いてから、俺の中で後悔も生まれていた。音楽準備室から走り去った智絵里の姿が蘇り、どうして助けられなかったんだろうと何度も後悔した。
『私の初めて、恭介にあげる』
智絵里のあの言葉で俺は救われたんだ。現実にはもう終わったことでも、二人の間にはそれを超える想いと記憶と絆が出来た。
「恭介が私を見つけてくれて良かった……」
「うん……正確には松尾さんだけど」
「でも私を離さないでくれた。私、恭介と再会出来て本当に幸せだよ……」
「……俺だって……ずっと探し求めていたのは智絵里だった。だから……俺のそばに戻って来てくれて嬉しいんだ」
いつの間にか夕日は沈み、暗闇の中に月明かりに照らされた波が光る。
「今の会社って、ずっと私が愛用してた部屋着のメーカーで、縁があって働かせてもらえることになったんだ。社名の『|aube《オーブ》』ってフランス語で『夜明け』っていう意味なんだって」
智絵里は恭介の腕の中で体の向きを変え、彼の体を抱きしめる。
「私の気持ちにもいつか夜明けが来ればいいなって思ってたの。そうしたら恭介が会社に現れた。私にとっては恭介が太陽で、暗闇にいた私を救い出してくれた」
「……そんなことない。俺にとっても智絵里は太陽だよ。やっと未来に目を向けることが出来たんだから」
「じゃあ二人一緒なら、迷っていても道は開けそうね」
「そうだね……」
二人は微笑み合うと、そっと唇を重ねた。そして智絵里は恭介の耳元で囁く。
「いつか恭介との赤ちゃんが欲しいな……」
「えっ……本当に?」
「恭介となら、大丈夫って思えるの。授かりものだから自分の意思だけではどうにもならないけど、いつかね……」
「……そうだね……でももう暫く二人でイチャイチャしてもいいんだけどなぁ……」
「……それも一理ある」
恭介と再会するまで、私の生活には色がなかった。その日暮らしの生き方をしていたのに、一体どういうことかしら。あなたと一緒にいると、毎日が彩り豊かに輝く。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
「うん」
居場所のなかった私に、帰る場所をくれた。
味わうことがないと思っていた愛情を注いでくれた。
不思議ね……あなたとなら未来が描けるの。諦めていた夢も、二人でなら叶えられると思う。
智絵里は恭介の差し出した手を取り、歩き始めた。