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これは精神ミニ本であって、
スキルやスキルの内容は別物なので、そこは
これを下地に、自力で進んでいくように。
大きく大きくみてふたつの生き方の仕組みが見えている。どちらでも選べる生き方のそれを、、ふたつ並行してなるべく、一つの特徴の見方として、わかりやすく文字化する。
眠っている人からまるで覚醒しているような人までさまざまな精神人種が、同じ人でも様々な精神顔面をもち歩いて、社会や社会の外で生きている。その中でも覚醒しきっていないまさに人目を気にして気にしてしょうがない、目的が他人他人になってしょうがない、気づかず我慢しちゃって抑制抑制しちゃってしょうがない、実行寸前でおそれて立ち止まっている中途半端から抜け出せない状態の人ための 中途半端を脱するための実験的ノウハウ。開放感へ向かい、解放感、やらされ感微塵もなく生きる。 自ずから、自ずよりも本能的に動きだすからくりに溶け込んで生きる、、。
存在感がクリア、一見しても圧巻、ひと味違う重要人物の共通しているものから、成熟している親の影響を受けたであろう神童っぽい子に共通しているもの、観察し観察し観察し、執拗に観察し、絞りだしかき集め、消化寸前で貯め込んだ情報を、正に今、消化したいという人が今すぐ取り掛かれるよう、手厚めに変換した。それでも全然足りないが執拗に観察中である。
2文字で強制的にかけというなら自由 が。。
3文字で強制的にかけというなら無条件 が。
いつも見当たる。
また、いつもの分析ではなくて、、
それをじゃあどうするんだいということが肝
それを哲学っぽい罠に落ちず変換していることがとてもポイントだ。哲学の反対に行かないと、いつまでも分析に終始するハメになり、目は硬直し、頭は固くなり、身体は脱力もパワーも出ず、プライドだけが山のようになり、行動は止まり、自分に近づいているような錯覚で勉強を進めるなか自分から遠ざかり、なりたい像だけが高まり遠ざかり、一向に現実世界の自分に帰還することがない沼に落ちいる。非常に残念である。まさに哲学は素晴らしい出発前のきびだんごである。だがしかし、そうならないために見方を持つと、哲学は理性、立派すぎる囚われだ。よく効くと聞いた薬は効果が出るというが、そういうものであると同時に、壮大な足枷であることには、本当に本当に甚だしいかぎりである。それに特に配慮して、実戦直前段階のノウハウを、実戦への落とし込みまでしっくりとした足掛かりとなれるよう、なるべく効果率をあげて効果率の低いものを省いて、印象的に方向感覚をイメージできるように描くよう努めた。
おっと、ここでむだに詳細な口出しが入りますがよく注意して、踏まないように飛び越えてください。以下の小さめのパートは失敗しても良い人は読み飛ばしても構わない。過激めな描写にはご容赦いただきたい、、
印象的には書く。が、間違っても想像力の罠にも落ちてはいけない。盲信的になってしまっていることをイマジコン、と呼ぶことにする。盲信癖の依存人間はぐずぐずになる。自然的な仕組みの方の、いちばんとも言える能力がどこにも生まれにくい状態。哲学だけじゃない、イマジコンにも注意が必要だ。無条件かける依存性質の掛け合わせは、そうであるくらいなら、全く自然ではないが条件的、強制力的緊張感、でピリッとあった方がいいくらい幼児化が止まらない。甘いという、それの最下層を知っておくことは重要なので、地図として最初に記す。後退願望、胎帰願望、成功するのを恐れる子、あえて失敗して見せる子にはこういうからくりが潜んで、その子も親も気付けないうちにニヤニヤして居座っている細菌のようだ。書きすぎた。これは続きはわかりやすくのちに書くとして、、
精神の1ミリの違いは踊りの中で圧倒的な差になる。何をするにしても、形だけでは限界がある。むしろ形があとからついてくるパラドックスには形の意識がどれほど高い人とも、比べる以前であるほどに、謎の圧倒的完成度、只者ではない質がある。そのパワーのモト、謎の抜け感を追求したい人の分析過程。意識が眠っている子とそうでない子では踊りはあまりにも身体つきが違う。その点について、真実性が美しさ、 琴線の鍵である仮定で進む。真実性のことを言い表わすとき、一枚舌の人もいれば蛇のようなチラチラっとした2枚舌の人もいる。このようなイメージでみるとわかりやすいかもしれない。二枚舌はあちらではこう嘘をつきあちらではこう正当性を申し出る、そういう整合性がだんだん麻痺してきている人のことを言い表している。本当の自分はさておいて、よく見せたいために頑張る子や、自分の頭の中で本音に正直になれず本当ではない別のとってつけた理由を重ねづけして自分でも自分を見失っている人も、これと似ているからくりに囚われているだろう。耳がいたいことこの上ない。二元論で見始めたらきりがないが、シーソーのように分析がなくなっただけ体感モードになるから、分析はほどほどに。猫をかぶっているほぼ全員のうち猫をぬいだ真実性の高い人のことについて書く。ああ耳がいたい。
はずだ。
参考osho etc。
まあそんなのもとも子もない
そんな表面的なことばかり話していても一向に現実で腹決めれない、
そういうところ
分析から実際への橋渡しが難関なので
それをeasygoingに。
遠回りが近道だという
パラドックス感の突き進み方。
わかりにくい抽象語の連発にもやもやしてきたであろうとこで一章に入っていく。実行しやすい習慣の深めるとっかかり、土台、踏み台、足がかり、しっくりと根を張り、自分で進んでいくためのかぎ針の鍵、、そういうのが、入り口がきっと超大事なので、、。
既知の理屈をAとする
既知があって少し未知が理解できる、これをB
完全な未知への飛び込みをCとする
Aからの脱却がこのミニ本の目的だ。
自分の踊りの能力開発の取説でもある。
注意書き
前置きが長すぎる、本編どうぞ
14枚のざっと概要
0今ここと目的、自由について
123事実のふたつの目について感性と商業性
456毒について 光と闇と両目について
78 サイコパスについて 我慢と忍耐の違い
9 ポジティブと自分への嘘について
10 ネガティブと自由の関係について
11 無条件と無欲とドープについて
12 強欲と品と地味さについて
13 人目や他人と貪欲について 自分の道
14何も考えない何もしない 瞑想の素材
引き戻される普通である方 について
15感謝と自分を意図をなくすことについて
16ありのまま いかに恐れずにー自分らしく
自信について
❶今ここと目的、自由について
えーっとまず重要なのが深刻を通り越してふざけ倒してる何も考えてない子供みたいに遊んでたくさんふざけてなりきって、キモくなって、おかまみたいになって、きたなくなって、変な虹色みたいな人になって、苦〜いとか渋〜いとかきちゃな〜いとか黒〜いとか、おしりーとか、想像に制限かかってる以上のあり得ないそういうディープでドープでもっとブラックなマイナスサイドのおふざけを大の大人も子どもも一緒になって、子どもより子どもらしくふざけて笑うような、無条件おふざけスタイルをずーっとすることだ。これは理屈というより感覚から入る入り口だ。できる場があればふざけ倒す。この人が特別だからそれをやっているのではない。それをやっているその現象が特別なのだ。一度ではわからない、2度3度飛び込んでみて何度も色々やってみる。失敗してもいい。snsが適度に人目があって、割といい場かもしれない。白い目は最高のドープだ。人目を脱しているかの自分の指標になる。完全に人目を克服しているが度胸とも少し違う。街ゆく鈍感な人の方がむしろ度胸という感じだろう。無条件、文明に犯されていないのだ。むしろ、人目からfreeということだ。無条件と自由は音楽と踊りのエクスタシーの本質、蜜だ。誰かにコンテストとかカタクルシクないノリでふざけ踊って遊んじゃうようなそこに爆笑がはいるような、どうでもいいことにどうでもいいとも思わず、天真見たく、マイナスサイドへの受け入れの底を知らない、本来なら誰もが恥ずかしいはずの、やりたがらないもののはずを、世間に社会に受け入れられないはずのものを、マイナスドープサイドを楽しくふざけまくる、こういうのはいいんじゃないかなと思う。大真面目に、こういう人がだいぶ愛情深く幸せそうで覚醒している。目は異常に透明だ。身体にはみずみずしく色気と生命エネルギー、神経が起きて耳を澄ませている。度胸ではなく、無条件な受け入れなのだと思う。
ただし、保障はない笑
(悲しいとか狂ってるとかbadとかサイコパスでもいい、かもしれない。何せ、通り過ぎた先があると信じて飛びこむことかもしれない。)
兎角なにも考えてないっていうのがポイントだ
ふたつ目に実戦できる内容、それはビジョンだ
ビジョンする、自分で自分のなりたいものをビジョンすることと言っているのに、それ自体は、考えるような言葉の癖に、考えないで居ろという、この矛盾した、パラドックスのような、まさにパラドックスのようなこの中で、今ここ自発的に動く意志が勝手に発動するものであり、それに従順すぎるくらいに今ここで波乗りをして集中していくと、夢が勝手に素材がアンテナが、超がつくほどのマニアックな情報まで、集中を途切らさなければ集まってくる。この仕組みだろうと思う。この自動感にのっていると、のるっていうかのりのり、にふと気づくとなっていて、楽しんじゃってるようになっていると、一個の動画でも映画でも100回は余裕で見てる、みたいなことになるんだと思う。この夢に対して制限ない状態をいかにつくるかというのが、まずとりあえずでもビジョンを紙に書くこと。そして紙に書くに決してとどまらず、日々の生活や考え方を捉えて打ちこわして飛び込んでいくような冒険をしているスタイル、これを小さくても毎日、小さくても毎日、しているとその状態に1番近づくと仮に予想している。何をするかよりもそのスタイルを維持することのほうが重要だ。なぜ小さくても毎日かというと、その一日一日という隙間、そこで制限が生まれると思うからだ。だから、ごまかすためではなくwork so hardでいること、そのスタイルの維持自体が何をするかに関わらず、制限のないビジョンに近づけてくれるはずだ。その一日一日という隙間、を無法地帯にし続けると、制限のみならず行動していないことに罪悪感が生まれ、ただの本能的に望んだ純粋な青写真のビジョンに罪悪感ボンドがひっつき加速され、今できてない自分は存在価値がないなどと純粋だったものが固く重く変わってゆき、執着と化するのだ。そうすると連動するように、言い訳までペタペタひっついてゆき、それが自分の本音で言い訳内容が本当のことだと主張する偽物意識がとって変わるようになり、そうすると自分のビジョンが思い出せないということになってしまう。挑戦以前の問題となってしまう。
ビジョンを鈍らせないで誤魔化さないでいられたら、次はどうするか。
それは、どうあがいても何もせず何も持っていなくてもむしろマイナスをいくら抱えていても幸せというコンディション、存在に問題はない、すべていい「無欲」を持ってることが必須項目である。未来への輝かしい神々しいまでの神のようにすごい自分はここにはおらず、そうありたいという想いがあるだけであり、今ここにはその妄想はいないということが重要。それをよく理解して、兎角何も考えず今ここの徹底である。今ここに未来はないという理解のためには、文字的に当たり前だが、今ここに未来はないということをイメージすることかもしれない。今ここに、未来へ向かってびょーーーんと目が飛び出しているキョロちゃんスーパー目が飛び出てる自分、そういうのを想像したらわかりやすい。今実際ありもしない未来へ居るというか、目がびっくり箱みたいに飛んでいってしまっ て、今ここの自分付近には自分の目はないし、自分がすっからかん。こういうイメージがわかりやすいかもしれない。
今ここのために未来への今から落ち着いて観ている視点、未来の欲に注意して、このあたりが大体足枷だなぁって大きめのぼんやりした目安を見るか見ないかでも見失わず、思い切って集中するのが1番今ここのために、ざっくりしている。
まだまだ同様に過去他人と続いていくが、、
進みすぎると哲学になるから、進みすぎない。大きく占めていることが多い未来が置きどころとしてはファーストステップでいいだろう。
哲学は微塵も入れない、これが大事だ。
こだわるといえば深刻でなくっていう、重くないfeeling。言葉ってだけでけっこう深刻だ。人間が超囚われやすいものっていうのがある程度幾つかあって、それはある程度見慣れた常連客のようであり、大体いつも同じ顔ぶれなので、其奴らの幹部を挙げて、ぼんやりと気付けるようにしてみる。ただし直視しても解決にはならない。見つけたとしても間違ってもコントロールしようとするんじゃなく、ただぼんやりおおらかーに眺め続ける。羅列しても表面的になってしまい、解決策にならないが、
「言葉、数字、集団同調性、欲、おそれ」
全部固定概念、とも言える。全部囚われ。
自由以外全て囚われ。
大きくはこんだけでいいとにかく考えないで、今ここ動いているために考える。今考えないで、それでも意識が眠らないでいるために、考えないで落とし穴におちず進むために、ぼんやりと知っているけど知っていない、みたいな、大きく、おおらかに、でもあることはわかってる、そんなような透明なフォルダーとしてもっておくのがいいのだ。
とにかく考えないのが いい。といいつつ、
自発的にめーっちゃ考えてる新しい思考回路、
そのパラドックス感を今ここする、そうだ、
パラドックス感を今ここしていく。
やることは、
囚われをなくすこと
ビジョンしてなりたいものに向かうことと
マイナスサイドでふざけてなりきって踊ること
頭の中は少なければ少ないほどいい
リッチな人のよく知っている法則だ。
ものは少なければ少ないほど把握できる。
頭の中はこれだけおいといて
もっと動く、あれこれ動く、動き続ける、
むしろ
止まらない、きらなさい、
飛び込んでいく、既存壊して進む、冒険心
考えない人が考える必要がある場合、
条件に囚われて社会の奴隷化する場合が、
両親レールにのってしまって自分忘れてる場合
恋愛の異性軸になってしまいがちな場合が、
シンプルにこれ、この三つが大多数占めすぎていると思う。逆に言えばそれ以外の要因は少ない。
囚われをなくすというのは詳細には、
ただおおらかに柔らかく眺めることと
時には腹を括って素早く断ち切ることである。
一章の最後は、
一歩目を踏み出すのがこわい問題。
瞑想ではreasonを聴いていくものとwhatdoyouwantを聴いていくものがあるが、その1歩目を踏み出せない、こわくて踏み出していないことに気づいてもいない原因の根っこは、 人目や他人が自分の中に入ってきているからだ。 人目、、解放的でないfeelingのほぼ全ての原因は人目だ。これは解消できることが実証されまくっている。突き抜けるとか入り込みとかゾーンとか言われるが、そんな大げさなことではないことで実際には集中していく。
まずそのために自分が自分を味方して、、。自分と他人との境界をハッキリと自覚するように、「好かれても嫌われてもフウー、人は人、気にしない、生きているから美しい、おそれないで自分らしく」と口に出してみる。素読は未知の自分の最良のコンディションへの道しるべだ。「ありがとうごめんなさい許してください大好きです愛しています」と自分が自分に言い聞かせる。大好きや愛していますも自分が自分にだ、それは自覚へ誘導する素読になるかもしれない。C完全な未知の自由な自分へ飛び込むために素読はきっと重要だ。
「⚪︎⚪︎は自由です、⚪︎⚪︎は対等です、」これも自由へのキラーワード。直接的に理解しようとするとかわかったフリをするのはA、未知のさらに自由でさらに突き抜けている自分への冒険としての素読はCだ。他人によって自分を変えることも傷つけることも正確に意識すればできない話だし、超正確に見れば日常してることは全部、自分がそれを受け取って、自分が自分に言い聞かせるという二重段階であるということに明確に気づくように、気づくことができるはずだ。おおよそそんな感じとぼーんやり見ずに見ておく。そうでないときにただそうでないと眺めれるように、というだけだ。
それによって自分と他者の境界線が非常に明確になり、それと同時に自分は他者であり、他者は自分であるという、自覚を持つようになる。
投影という現象に気づくと、フィルターという周りの事象に対する幻影に気づくと、自分が自分に責任を持つということがわかるようになる、それが自覚というもので、自覚があると、人目を克服できたり、それにより 自分が本当に好きな感性の上澄を追求できたりする。逆に言えば、これが混ざっている分だけ、混沌としている分だけ、その人は意識が眠っていて、おなかに実質的にも力が入っていない、いくらスキルは高くても、中心がふ抜けた踊りになる。
眠っているというのは、また、こういうことかもしれない。過去の思い出の合成を見ている今、それが過去に生きているとも言えるが、夢を見ている時、過去の思い出の合成を見ているような、そういう夢がある。それは夢の中生きているようだ。今は寝ている。寝ているというのはまるでこういうことかもしれない。
🚀🚀🚀
何も考えてない
自分がない
人目他人が入ってない
周り気にしてない
自分を圧倒的にと思っている 自分軸を保ってる
ドープおふざけ受け入れの日々
自由 ふりこに目的を取られてない
ふりこにエネルギー吸収されてない生き生き
感謝の探究心
親の意思半分 自分の意思半分 半分起きてる子
やらなきゃの動機がおそれか 天か
天才か秀才か 世間社会頑張るとかってのがもう
突き抜けてる
飾りがついてるのか踊りか🚀🚀🚀 メモ