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やっとマンションのエントランスにたどり着いた時には、日は傾いていた。
「あ、おかえりー」
エントランスで凌空と鉢合わせた。
「……ちょっと!」
夕方だというのに制服を着て帰ってきたのではなく、私服に着替えて出ていこうとする次男を呼び止める。
「なに?」
次男はキョトンと大きな目で見つめ返した。
整形する前の自分の目とは違う。
夫の小さな目とも違う。
この目で見つめ返されると、強く言えない。
こんな時間からどうして出掛けるの。
誰と会って何をしてくるの。
今日は何時に帰るの。
全ての質問を飲み込み、
「どこに行くの」
晴子はあからさまに声のトーンを落として言った。
「友達んとこ。みんなでテスト勉強しようって約束してんの」
(――嘘つき)
そう言いたいのに言葉が出てこない。
「ねえ。もう行っていい?みんな待ってるから」
全てを見透かしたような目。
強く言えない理由も。
その理由に隠れた罪も。
この目が嫌いだ。
心の底からこの目が嫌いで、
「……あまり遅くならないようにね」
死ぬほどこの目を愛してる。
◇◇◇◇
猫背な後ろ姿を見送りながら、晴子はため息をついた。
エレベーターに乗り込みボタンを押した。
鏡のついた壁に凭れかかる。
自分の人生というのは一体何なんだろうか。
家庭を顧みない夫。
こっちが知らないと思って好き勝手に女と遊んでる長男。
大学にもいかないで高い金を払わせて専門学校でお絵描きしている長女。
そして高校生だというのに夜な夜な何をしているかわからない次男。
私は何のために……。
扉が開いたところで、
「!!」
「あっと、すみません」
屋内用の観葉植物にしては大きなアレカヤシが喋った。
晴子は目を見開いた。
「失礼しました。よく前が見えなくて……」
放射線状に広がる細い葉の隙間から、男がこちらを覗いた。
(この人は確か、お隣の……)
「……城咲さん?」
晴子は葉の下からのぞき込むようにして聞いた。
「名前覚えていてくださって、ありがとうございます……って、おっと!」
慌てて晴子が鉢を支えると、
「……ありがとうございます!」
城咲は爽やかな笑顔で微笑んだ。
◇◇◇◇
「どうしてあなたが?」
晴子は城咲が持っている鉢を支えてあげながら、エレベーターの番号表示を見上げた。
「実は僕、花屋なんです。以前からここのマンションの植栽管理を任されていて。それで管理人さんと仲良くなって、空きが出たからって誘ってもらったんです」
「ふーん」
晴子は胡散臭いまでに爽やかな男を葉っぱ越しに見上げた。
身長は、輝馬より少し高いくらい。
ルックスは、輝馬より少し劣るくらい。
髪の毛は、輝馬よりサラサラで、
肌の色は、輝馬より濃い。
ポン。
息子と比べている間に、エレベーターは1階に着いた。
「置いていた場所がまぶしすぎたのか葉焼けを起こしていたので、室内で様子を見ていたのです。おかげでだいぶ元気になりました」
城咲は、エントランスに置いたアラカヤシに霧吹きで水を吹きかけながら言った。
「……アラカヤシは室内でも直接太陽を当てると、すぐ焼けちゃうものね。耐陰性があるから、かえって少し暗い場所の方がいいと聞くわ」
晴子はエントランスを見回すと、応接用のソファを振り返った。
「あのソファの脇ならレースカーテンがかかってるし、良いんじゃないかしら。よく目に入るし」
「…………」
城咲はアラカヤシの前に膝を立ててしゃがんだまま、ポカンとこちらを見上げた。
「……奥さんは、植物、お好きなんですか?」
どうしてそこまで驚くのかわからない。
「え、ええ。まあ……」
晴子は首を捻りながら、あいまいに頷いた。
「植物というよりは、お花が好きなの。バルコニーはいつも花でいっぱいにしておきたくて。ガーデンラックやフラワースタンドがいくつも置いてあるわ」
「……!」
城咲は霧吹きを大理石のタイルに置いて、勢いよく立ち上がった。
「僕もそうなんです!実家に広い花壇があったので、常に花がある環境じゃないと落ち着かなくて!」
「……わかるわ。花の移ろいを眺めないと季節を感じられないもの」
晴子が戸惑いながらも同意すると、
「……こんなに近くに花好きな人がいたなんて……!」
城咲は晴子の手を握った。
「花好きな人に悪い人はいません。ぜひ仲良くしてください」
「……はあ」
晴子は唖然としながら、自分の手を握る城咲の手を見つめた。
普段から土いじりをしているのだろう。
爽やかな顔に反してゴツゴツと男らしい手だ。
長い指……。
膨らんだ関節……。
若くて皺ひとつなく、滑らかで健康的な、力強い男の手だ。
「…………」
思わずゴクンと唾液を飲み込んだ。
身体の奥がじわっと熱くなる。
晴子は城咲を見上げた。
「もしよかったらお店にも遊びに来てください」
城咲は白い歯をのぞかせながら微笑んだ。
なんて血色のいい、陽炎色の唇。
「……ええ、ぜひ」
晴子はその唇を見ながら微笑んだ。
花好きな人に、悪い人はいないかは知らない。
けど花が嫌いな人に、いい人はいない。
夫は、
花が嫌いだった。
◆◆◆◆
それから数日たったある日。
数週間ぶりに夕食で4人が揃った。
もちろんすでに独立している輝馬はいないが、夫の仕事が早く終わり、凌空が夜遊びに出掛けないというのは、天文学的な確立とでも言うべき稀有なことで、慌てた晴子は4人分の食器選びと配列に10分以上もかかってしまった。
「いただきます」
夫の声を合図に皆が箸を握る。
「――――」
「…………」
「ふう……」
「…………」
共通の話題もなければ、互いに興味もない4つの口から会話が飛び出すことはない。
鶏肉とジャガイモの醤油蒸しと、クリームチーズのコールスロー、小松菜とえのきのスープを口を運び、旨いと褒めるでもなく不味いと貶すのでもなく、ただ食べ続けるだけだ。
「そういえばさ」
沈黙を破ったのは、紫音だった。
「お隣の城咲さん、独り暮らしじゃなかった。家族と一緒に住むために部屋を買ったんだって!結婚するのはこれからだけど」
「……!」
思わぬ話題に、晴子は思わず箸を止めた。
「へえ!」
いつも姉の話には耳も貸さない凌空が、珍しく反応した。
「じゃあ、嫁さんと子供も直に引っ越してくるってこと?」
「違うってば!話ちゃんと聞いてた?婚約中なの。結婚したら一緒に住むんだって。子供ができることを想定して、このマンションを買ったんだって」
晴子は3人に気づかれないように眉をしかめた。
将来を約束した相手がいるのに、彼は隣に住む人妻の手を握ったのか。
爽やかな好青年だと思っていたが、相当なやり手か、それとも思慮の浅い阿保なのか。
どちらにしてもそこまで程度の低い男だったとは残念だ。
晴子は紫音の話を聞き流しながら、少し硬すぎた小松菜の茎をコリコリと奥歯で噛んだ。
「新婚さん、ね」
凌空が意味深な低い声を出す。
「子作りの音、聞こえてこないといいね」
その言葉にカッと頬が熱くなる。
「――凌空」
思わずその名前を口にしていた。
凌空はもちろん隣に座る紫音でさえ、こちらを意外そうに見つめている。
晴子は慌てて目を伏せ、今度はコールスローサラダに箸を突っ込んだ。
「……きもっ。エロガキ!」
紫音が父親そっくりの小さな目で凌空を睨み、
「黙れよ、処女」
凌空が父親とは似ても似つかない大きな目で紫音を睨む。
そのあからさまな違いに、まるで異星間交流を見ているような不思議な気持ちになる。
晴子は鼻で笑いそうになるのをこらえつつ、
「どっちにしろ、大丈夫でしょ」
静かに続けた。
視界にギリギリ映る達彦の動きが、一瞬止まった。
その父親の動きに、紫音と凌空が同時に反応する。
「――――」
気にしていないふりをして、3人の反応を伺う。
達彦は数秒停止したのちまた動き出し、鶏肉を掴もうとして箸を滑らせた。
凌空は晴子、達彦、紫音の順に視線を流した後、白飯を口に搔っ込んだ。
紫音だけは、
「…………」
その部屋を振り返った。
LDKを中央に構え、東側に水回りと主寝室、西側に3部屋並んでいる。
北側が紫音の部屋。
南側が輝馬と凌空の部屋。
そして真ん中の部屋のドアには、
ダイヤル式の南京錠が取り付けられていた。