テラーノベル
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火曜日の朝の教室は、月曜日の朝の教室よりほんの少しだけ、空気が軽い。
月曜日のあの「一週間が、また始まってしまった」という、教室全体の淡い疲労感が、火曜日の朝には、もう半分くらい消えている。その代わりに、まだ水曜の中だるみは来ていない。
たぶん、一週間のうちで教室が一番普通に、機能している曜日が火曜日だ。
そんな普通の火曜日の、普通の朝のチャイムの、ちょうど七分くらい前に、藤宮陽人は、教室の自分の席にゆっくり座った。
教科書を机の中の決まった位置にしまう。
ペンケースを、机の上の、右上の位置に、置く。
ノートを、机の上の、左上の位置に、置く。
それから、一番最後に。
カバンの外ポケットから、淡い水色の無地のハンカチを一枚取り出した。
凛から、業務支給品として、押し付けられたハンカチだ。
俺はそれを、机の上の、ペンケースの左隣に、ぽつん、と置いた。
誰の目にも見える位置だった。
「誰の目にも見える位置」というのは、つまり、ひかりの席からも見える位置、ということだ。
俺の机の上に、ハンカチが一枚、無造作に置かれている。それは、火曜日の朝の教室の風景としては、たぶん、ほんの少しだけ、ちぐはぐな置物だった。
そして、その「ちぐはぐ」は、たぶん教室全体の中で、一人だけにちゃんと伝わる。
俺は、それを見ている、と見ていないの間の距離で、自分もぼんやり見ていた。
「藤宮、おはよ」
凛が、机の前を通り過ぎながら、いつもの淡々とした声で、軽く片手を上げた。
そして、机の上の淡い水色のハンカチを一瞥して、ふっ、と口の端だけで笑った。
「業務支給品、ちゃんと出してきたね」
「……うん」
「机の上に、わざわざ、見えるところに置いてる」
「……うん」
「だっせ」
「……」
凛は、すれ違いざまに、わざわざ、そう一言置いていって、自分の席のほうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、俺は心の中で、半分笑って、半分感謝した。
「だっせ」と言いに来てくれる人間が一人教室にいる、ということは、たぶんこういうときに一番ありがたいものだった。
それは、たぶん、「お前の作戦は、ちゃんと私のところからも見えてる」「だから、変なところで滑っても、私が一番近くで観察してる」という、凛なりの安全装置の声だった。
幼馴染というのは、たぶん、こういう距離だ。
踏み込んでこない代わりに、全部見ている。全部見ているのに、一言もこちらの背中を押さない。押さないことが、一番の押し方になっている。
そういう距離の人間が、一人いると。
ハンカチ一枚を、机の上に置くだけのことが、全然怖くなくなる。
——のだけれど。
俺は、ふと、凛の自分の席に向かう途中の後ろ姿にもう一度目をやった。
凛は、いつも通りに、まっすぐ歩いていた。
背筋もきれいで、歩幅も普段と変わらなかった。
ただ、いつもとほんの少しだけ、違っていたのは。
彼女が、自分の席に着く直前、ほんのコンマ何秒、教室の対角線の一番端——七瀬ひかりの席のほうへ、視線を滑らせた、ということだった。
ひかりの席には、まだひかりの姿はなかった。
今朝のひかりは、まだ登校してきていなかった。
なのに、凛はそこを見た。
そこを見て、そこに誰もいないことを、自分の目で確認してから、自分の席に、ストンと腰を下ろした。
そして、座ったあとで、ほんの一瞬だけ、自分の短いボーイッシュな黒髪を片手で軽く押さえた。
——あれは、なんだろう。
俺は、その仕草を見て、頭の中で軽く引っかかるものを感じた。
たぶん、凛は今、ひかりが来る前に、自分の心の準備を一つ整えていた。
「『藤宮の机のハンカチを最初に見つける』のは、絶対にひかりにする」
「自分は、それより先に、それを何か言うのはやめる」
「自分は、全部見える位置にいるけれど、全部口は出さない」
そういう彼女の観察員としての、業務上の決意のようなものだった。
——のだけれど。
その決意のいちばん深い底のほうに。
たぶん、まだ彼女自身も、ちゃんと見ようとしていない別の温度のものが一つ混じっていた。
俺は、それに、まだ踏み込んではいけないことを本能的に知っていた。だから、視線を自分の机の上に戻した。
戻して、普段よりほんの少しだけ、自分の机の上のハンカチを丁寧に向きを揃え直した。
そのとき、教室の前の扉のほうで、軽い笑い声が聞こえた。
「あ、ひかり、おはよー」
「おはよ〜!」
七瀬ひかりが、教室に入ってきた。
ひかりは、月曜日とほぼ同じ髪型だった。
低い位置のゆるい一つ結び。
たぶん、彼女はもう、その髪型をしばらく続ける気でいる。
姿見の前で自分のうなじを、もう一度確認して家を出てきたに違いなかった。
彼女は、入り口で女子三人組と、軽く笑い合った。そして、笑顔のまま教室の中央の通路を自分の席のほうへ、歩いてきた。
歩いてくる途中、彼女の歩幅はいつも通り、半歩広かった。笑顔は、いつも通り、八十パーセントだった。声のトーンは、いつも通り、半トーン高かった。
全部、いつも通りだった。
全部、いつも通りだった、けれど。
ひかりが、自分の席にたどり着く前にいつもなら、絶対にしない寄り道を一回した。
——わざわざ教室の後ろのほうへ、軽く視線を振り向けた。
それも、教室の後ろのほう、全部ではなく。教室の対角線の一番遠い、一番端、エアコンの真下、廊下側の席。
俺の席。
ピンポイントに視線を置いた。
置いて、置いたまま、コンマ三秒くらい戻さなかった。
そのコンマ三秒で、ひかりは、机の上の、ペンケースと、ノートと、その隣の淡い水色のハンカチを全部見た。
そして、一番最後にハンカチの上に視線を軽く止めた。
ハンカチの上に止めた瞬間、ひかりの口角が、ほんの一瞬だけ、八十パーセントの位置から、ぐらりとズレた。
ズレた、というよりも。
正確には、八十パーセントの笑顔のまま、別の
、二十パーセントの、まだ名前のついていない笑みが、その上に薄く重なったように見えた。
そして、そのコンマ三秒の間に、彼女の左手の指先がほんの少しだけ、ブレザーの胸元——内ポケットのあたりに軽く添えられた。
そこには、たぶん、まだ白いレースのハンカチが入っていた。
昨日、廊下で俺が拾ったアレだ。
彼女は、家でちゃんと洗ってきた、に違いなかった。
洗ってきて、何故かまだ返さずに、内ポケットに閉まったまま登校してきていた。
——それは、たぶん、「貸し」というセリフの続きを、彼女がちゃんと覚えている、という証拠だった。
ひかりは、コンマ三秒のあと、すぐに視線を自分の席のほうへ戻した。
戻して、いつも通りの半歩広い歩幅で、自分の席まで歩いて座った。
座ってから、一旦息を一つ吐いた。
吐いたあと、彼女は自分のノートを机の上に置いた。
ノートの右上に、シャープペンで「火曜日」と書いた。「火曜日」のあとに、書くべき教科の名前を、彼女は書こうとして、書く前に、一度、シャープペンを止めた。
止めて、ほんの一瞬、彼女は教室の対角線の一番端のほうへ、もう一度視線を戻した。
俺は、その視線が戻ってくる前に、自分のノートに視線を落としていた。
落としていた、はずだったのだけれど。
たぶん、ひかりはそれをちゃんと見つけてしまっていた。
俺の視線が、ほんのコンマ何秒、ハンカチと、自分のほうのあいだを、何度か、行き来したことを。
たぶん彼女は、内心こう思った。
——「藤宮くんの机のハンカチは、たぶん、私のために置いてある」。
そして、それはたぶん、ほとんど当たっていた。
朝のホームルームの間。
俺は、頭の中で一つだけ、シナリオを組み立てていた。
「『おはよう』とか、そういう当たり障りのない一言は、たぶん今教室で、俺から彼女にかけることはできない」。
なぜなら、教室はまだ俺の側の定義では、「一番暗い席の住人が、一番明るい場所の住人に、わざわざ話しかける」場所ではなかった。
そのルールを、いきなり火曜日の朝にぶっ壊すのは、たぶん彼女のほうにも、いろんなものを壊す。
だから、俺は、教室で「話しかけ」はしない。
代わりに「教室の外で、自然に会う」ための入り口だけ置いておく。
具体的には、机の上のハンカチをホームルームの終わりに、わざと机の角から、半分はみ出した位置にズラしておく。
ひかりが、休み時間の最初に、教室の後ろを通るときに、それに気づく。気づいたうえで、彼女がこちらに、何か一言声をかけるかどうかは、彼女に任せる。
声をかけてこなければ、それはそれで、いい。
入り口は開けたけれど、入るかどうかは向こうの選択。
——それが「正解には、触れない」「ただ、入り口だけは開ける」の、いちばん具体的な形だった。
朝のホームルームが終わった。
担任が教室の前の扉を閉めて、出ていった。
俺は、自分のノートを机の上で、軽く整え直した。
整え直すついでに、淡い水色のハンカチを机の上の自分から見て、一番右側——通路側の机の角のちょうど半分、はみ出すあたりまでズラした。
ずらした瞬間、教室の対角線の、いちばん遠い席で、ひかりの肩が、ほんの少しだけ、こわばった。
その「こわばり」を、たぶん教室で見ていた人間は、俺ともう一人いた。
凛だった。
凛は、自分の席で、シャープペンの後ろを軽く頬に当てながら、教室の対角線の二つの席を、ほぼ同時に視界の端に入れていた。
その顔は、たぶん観察員の顔だった。
だったけれど。
頬に当てていたシャープペンの後ろが、ほんの少しだけ、いつもより強く頬の肉に押し込まれていた。
凛は、今自分の中の「観察員」と、別のまだ名前のついていない誰かが、同じ場面を別の角度から見ようとして、軽くぶつかっていた。
ぶつかっていたのを、たぶん本人はまだちゃんと自覚していなかった。
自覚していないかわりに、凛は自分のシャープペンの先で、ノートの右上の何もないところに、ごく小さく、何かを書こうとして、結局書かなかった。
書こうとして、書かなかった字の最初のいち画めは、たぶんひらがなの「ふ」だった。
「ふ」のあとに、何を書きかけたのかは、たぶん本人すら、まだちゃんと認めていなかった。
「ふじみや」かもしれなかった。
「ふと」かもしれなかった。
「ふつう」、だったかもしれない。
「ふつうの幼馴染でいるのが、一番いい」——その「ふ」だったかもしれない。
凛は、書きかけの字をシャープペンの後ろの消しゴムで、ほんの少しだけ、こすって、消した。消した後に、彼女はもう一度、頬杖をついた。そして、教室の一番明るい席と、一番暗い席の対角線を、もう一度ぼんやりと視界の端に戻した。
その目つきは、いつもの観察員の目つきだった。
だった、けれど。
その一番奥のほうに、たぶん、初めて「自分もたまには、その対角線の外側に、ちゃんと立っていることを、確認しなきゃいけない」という、彼女自身の小さな小さな警報音が、鳴り始めていた。
凛は、その警報音を聞いていないことにした。
聞いていないことにしながら、自分のシャープペンをペンケースの中に、一旦戻した。戻して、ふと教室の窓の外を見た。
火曜日の朝の、ふつうの青空が、そこにあった。
ふつうの、青空だった。
——ふつう、で、いられる間は、普通でいる。
凛は自分自身に、心の中で、そう一言念を押した。
そして、その念押しのちょうど最後の音節と同時に。
教室の対角線の一番遠いところで、七瀬ひかりがゆっくり立ち上がった。
休み時間の女子の三人組の輪に、いつも通り混ざるフリをして。
ひかりは、自分の席から教室の後ろのほうへ、ゆっくり、ゆっくり、歩いてきた。
歩いてくるその通路の一番奥の角。
そこに、淡い水色の無地のハンカチが、机の角から半分はみ出していた。
ひかりの半歩広い歩幅が、その机の手前でほんの一瞬だけ止まった。
止まって、彼女は、深く息を吸った。
教室の対角線が火曜日の朝、確かに半歩ズレた。
その「半歩」を教室の中で、一番最初に認めなければいけなかったのは。
たぶん、ひかりでも俺でもなくて。
教室のちょうど中間で頬杖をついていた、黒澤凛という、一人の幼馴染、だった。
教室の対角線の、いちばん細い場所で。
一人の女の子の覚悟と、もう一人の女の子の、まだ名前のついていない感情が、ほぼ同じ深さで息を吸った。その小さな音が、たぶん誰にも聞こえないまま、教室の天井のあたりまで、立ち上がっていた。
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