俺の住む村には、山姥がいる。
とはいえ、実際に目にしたことがあるわけではないので、“いるらしい”と言った方が正しいのかもしれない。“それ”がいつからこの村に棲み着いているのか、それを知る者は誰一人として存在しない。
けれど、遥か昔から間違いなくこの村には山姥がいるのだそうだ──。
それまで俺はただ漠然と、立ち入りが禁止されている場所があることだけは知っていた。幼い頃から、決して入ってはならないと聞かされていたその山。俺はそんな山にさほど興味なんてものはなかったし、その理由に関しても全く興味がなかった。
周りの子供達が元気に走り回って遊んでいる中、本の虫だった俺は、家の中で一人でいることの方が多かったせいもあるのかもしれない。
そんな俺が初めてその山に興味を持ったのは、まだ小学五年生の頃だった。
趣味も性格もてんでバラバラだというのに、いつも気付けば自然と一緒にいることの多かった四人組。そんないつもと変わらない顔ぶれとの下校中、ピタリと足を止めたK君は前方に見える山を指差した。
「なぁなぁ、あの山に山姥がおるってじいちゃんから聞いたんだけど。知っとった?」
唐突にK君がそう切り出したのは、通い慣れた畦道を半分程進んだ時だった。
「ヤマンバって、何?」
「よう知らんけど……たぶん、鬼みたいなやつ。山に迷い込んだ人間を食べてまうんだって」
「えっ……。あの山に、鬼がおるが?」
「うん」
「そんなの嘘やちゃ。鬼なんて実在せんし」
「けど、じいちゃんがおるって言うとったし」
「じゃあ、今から見に行ってみんまいけ」
そう皆が口々に盛り上がっている横で、俺は前方に見える山を静かに見つめていた。
幼い頃から、決して入ってはならないと大人達に言われているあの山。“何か恐ろしいことが起こる”とだけ聞かされていたその理由は、どうやらその山姥が関係しているらしい。そう考えると、これまで一切関心のなかったあの山にも、少しだけ興味が湧いてくる。
「たけちゃんも、一緒に行くやろ?」
そんな俺の様子に気付いたのか、K君はそう告げるとニッコリと微笑んだ。
「行きたいけど、留守番せんにゃいけんがや。今日ちゃ親がおらんさかい、妹の面倒見んにゃいけんで」
「じゃあさ、妹も連れて来りゃいいんでない?」
「まだ五歳やさかい、山登りはできんやろうし無理やわ」
「そっか……一緒に行けんの残念やわ。じゃあ、また今度一緒に行かんまいけ。今日は三人で行ってくるさかい」
一緒に行けないことを心底残念に思いながらも、俺はK君達を見送ると一人自宅へと帰ることとなった。
山姥なんて“鬼”が本当に実在するのかは定かではないものの、昔から忽然と消息を断ってしまう人間というのは存在するらしい。獣にでも襲われたのか、あるいは事故なのか。それは時に、神隠しとも言われたそうだ。
山姥という“鬼”の存在も、実際には間引きによる姥捨の生き残りなのではないかという説もある。
(山姥なんて、本当に存在するがやろうか……)
そんな事を思いながらも、俺は自宅の窓から見える山を眺めて小さく息を吐いた。
◆◆◆
──翌日。いつものように学校へとやって来た俺は、K君の姿を見つけるとその背中越しに声を掛けた。
「K君、おはよう。今日“ムツミ屋”におらなんだけど、どうしたが?」
いつも待ち合わせている駄菓子屋の前に姿を現さなかった理由を問うと、ゆっくりと振り返ったK君は気不味そうな顔を見せた。
「かんに。忘れとった」
そう言って小さく微笑んだK君は、なんだかいつもより元気がない様子だった。
「具合でも悪いが?」
「いや、ちょっこし疲れとるだけ」
「そっか、昨日ちゃ山に入ったさかいね。……で、山姥には会えたが?」
昨日から気になっていた事を口にすると、途端に顔色を悪くしたK君は小さく声を震わせた。
「会うたよ。じいちゃんの言う通り、本当に山姥がおった。けど……何も覚えとらんがや」
「え? 何も覚えとらんって、山姥には会うたんやろ?」
「うん、会うたのは覚えとる。えらい恐ろしゅうて……山に入ったのを後悔した。もう死ぬんだって、覚悟もした。……けど、気付いたら家におった。山を降りた記憶ものうて、どうやって帰ったのかも全く覚えとらんがや」
山姥に遭遇してからの記憶が一切ないと言ったK君は、酷く怯えた様子で目の前の俺を見つめた。
「ただ、えらい恐ろしいことが起きたのは間違いないんや。けど、それが何やったのかはよう覚えとらん」
「そんな奇妙なことがあるもんなんや。それにしても、本当に山姥がおるなんて凄いなぁ。俺も一回見てみたいわ」
「見ん方がいい。あの山に入ったら、恐ろしい事が起きるさかい」
まるで大人達と同じ様な台詞を口にしたK君は、先生が来たことに気付くと静かに自分の席へと着いた。それに倣うようにして自分の席へと着いた俺は、少しばかり晴れない気持ちのまま先生が話している姿をぼんやりと眺めた。
確かに山姥は存在すると口にしながらも、その記憶があまり鮮明ではない様子のK君。そのあまりの不透明さに、俺はどうにも納得がしきれなかった。
(K君が見たのは、本当に山姥やったがけ……?)
そんな疑問を抱きながら配られたプリントを受け取ると、俺は残りの一枚を手に持って後ろを振り返った。
「……あれ?」
誰も居ない空席を見つめながらポツリと小さな声を溢した俺は、プリント片手に目的を失った右手を宙に彷徨わせた。
(……これ、誰の席やったっけ?)
一瞬、昨日まで誰かがこの席を使っていたような気もしたけれど、よくよく考えてみれば列の最後尾は自分だった。そう思い直した俺は、余ったプリントを片手に声を上げた。
「先生、一枚多いちゃ」
「あれ? 五人やった気がしたけど……四人やったか。かんにかんに、勘違いしとったわ」
そう言って余ったプリントを受け取った先生は、俺のすぐ後ろに視線を移すとポツリと呟いた。
「何で席が余っとるんだ……?」
暫しの間不思議そうな顔を浮かべた先生は、その後何事もなく授業を終えると、余った机を持って教室を出て行った。
そんな光景を見て少しの違和感を感じながらも、けれど、俺を含めた誰もが大して気に留めることもなかった。
「──で、次はいつあの山に行くが?」
いつもの帰り道。まるで昨日の出来事など何もなかったかのように話し続けていたK君は、俺のその言葉を聞いた途端に顔を強張らせた。
どうやら記憶が曖昧なのはK君だけではなかったようで、誰に聞いても山姥に遭遇した後のことはよく分からなかった。そんな話に納得ができる訳もなく、俺は一度、この目で山姥の存在を確かめてみるべきだと思っていた。
「あんなとこ、二度と行かんちゃ」
「え……もう行かんの? 見てみたかったわ、山姥」
予想外の返事に軽く肩を落とすと、そんな俺を見たK君達は焦ったような声音を上げた。
「絶対、あの山に入ったらだちかん! 行ったら山姥に食われるぞっ!」
「そや! 鬼や……っ、鬼が食うたんだ!」
あまりの勢いにビクリと驚きながらも、何かに怯えるような素振りを見せる二人を凝視する。
「食うたって……一体、誰のこと言うとるが? 皆んな無事でないけ」
「……え? ……あ、あれ……っ? 誰も……食われとらんっけ……?」
「いや、確かにだっかが……」
困ったように狼狽えるK君達の姿を見て、俺は小さく溜め息を吐いた。
「けど、皆んなここにおるでないけ」
「そや、ちゃな……皆んな無事で良かったわ……。けど、もう二度とあの山には行かん。たけちゃんも、あの山には近付かん方がいい。絶対や」
「そや、絶対に行かん方がいい。……恐ろしい事が起きるさかい」
「う、うん……分かったちゃ」
あまりの必死さに気圧されつつもコクリと小さく頷くと、そんな俺を見た二人は心底安堵したような表情を見せた。
二人が見たという山姥の姿は、一体どんなものだったのか──。その興味が消えた訳ではなかったものの、だからといって、一人であの山に入るつもりはない。なにより、K君達がこんなにも必死で止めている姿を見ると、それを振り切ってでも見に行こうとはどうしても思えなかった。
あの怯えぶりからすると、よほど怖い目にでも遭ったのだろう。もしかしたら、記憶が曖昧なのもそのせいなのかもしれない。そうと分かっていて、一人で山に入る程の勇気も俺にはなかった。
「なあなあ、今から家に来ん? 久しぶりに対戦せんまいけ」
すっかりといつもの調子に戻ったK君は、そう告げるとニッコリと微笑んだ。
「ああ……あのゲームけ。うん、やろうかな。相変わらず下手やけど」
「いいちゃ、いいちゃ。いつもみたくチームで分かれて対戦せんまいけ。負けた方ちゃ罰ゲームな」
「いいけど。三人しかおらんけど、どうやってチーム組むが?」
「いつもみたく二・二でいいやろ」
「いや、けど三人しかおらんし……」
「あれ……? いつも四人で一緒に……いや、三人やったか……?」
「「…………」」
確かにK君の言う通り、いつも四人で遊んでいたような気もする。けれど、一体どこの誰だったのか全く思い浮かばないことを考えると、きっとそれは気のせいなのだろう。
「何言うとるがや、いつも三人やったやろ」
まるで自分自身を納得させるようにしてそう告げると、ヘラリと薄く笑ったK君は頬を掻いた。
「あー……、やっちゃね。なんか勘違いしとったわ」
「僕も一瞬、四人おったかて思うたちゃ。K君に騙されるとこやったわ」
そう言いながら小さく微笑んだA君は、一瞬何かを考えるような素振りを見せて小さく首を捻った。
そんなA君の姿を見て、何か胸を騒つかせるような不快感が生まれた俺は、思わず顔を歪めると左胸を抑えた。けれど、それが一体何なのか。その正体は俺には分からなかった。
その小さな塊のようなモヤは、あれから二十年以上経った今も俺の中に残っている。
結局、あれから一度もあの山に入ることもなく、あの時K君達が見たという山姥の正体も、未だに俺はよく分かっていない。けれど、それならそれでいいとも思っている。
それを確かめようとすれば、きっと間違いなく良くないことが起きるのだろう。そんな気がしてならないのだ。
「ご飯の時間ちゃ。ゲームは終わりにして、早うこっちに来っしゃい」
そう言われて食卓に腰を下ろすと、俺は目の前にいる嫁に向けて口を開いた。
「ゲームなんてせんぞ。何言うてんだ?」
「……あら? そうやったっけ。けど、あそこにゲームあるでない」
そう言ってテレビ台を指差した嫁は、もう一度俺の方へと視線を移すと首を傾げた。
「じゃあ、あれ誰のゲーム機?」
ゲームなど子供の頃以来した覚えなどなかったが、確かにあのゲーム機には見覚えがある。ということは、やはり俺のゲーム機なのだろう。もしかしたら、甥っ子が来た時の為にと用意したものなのかもしれない。
そう考えてみると、子供の横で苦戦しながらゲームをしていた記憶もちゃんとある。
(…………。あの子供、本当に甥っ子やったっけ……?)
ボンヤリとした記憶を手繰り寄せながらも、俺は目の前にいる嫁に向かって口を開いた。
「やっぱ俺のやわ。甥っ子が来た時に遊べるように買うたの、忘れとったわ」
「なんや、やっぱたけちゃんのか。忘れるなんてボケちゃったが?」
クスクスと笑い声を漏らす嫁を見つめながら、俺は騒つき始めた胸元を抑えて小さく顔を歪めた。
二十年以上前のあの時から、ずっと鳴りを潜めていたあの小さなモヤのようなもの。それは大きな不快感と共に再び姿を現すと、俺の胸の中で確かな存在感を増してゆく。
けれど、やはりその正体が何なのかは俺には分からなかった。
「茜こそボケたんでない? これ、誰の分のご飯や?」
俺は静かに涙を流すと、テーブルに置かれた一組の食事を指差した。
そこにあるのは、誰もいない場所に置かれた子供用の食器類。それを見ているだけで、何故か胸が締め付けられる程の悲しみが襲ってくる。
「あ、本当や。私ったら、ボケたみたい。うちには子供なんておらんのにね……」
そう言ってクスリと声を漏らした嫁は、穏やかな笑顔を浮かべながらも静かに涙を流し続けた。
─完─
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