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「無理無理、絶対に無理――」
金曜の夜、自室で美月は抱き枕に顔をうずめていた。
佐伯とのライブ行きは断り切れず、翌日の土曜日に決まってしまった。
完全セルフプロデュースの地底アイドルに、チケット完売という概念はない。
会場が満員で入れない、なんて都合のいい言い訳は通用しないのだ。
(どうしよう。ステージに立った瞬間バレる)
ベッドの上に座り込み、美月は頭を抱えた。考えられる道は二つしかない。
案1:事前に正体を明かす。「実は私なんです」と打ち明ければ、少なくとも今夜のような胃の痛みからは解放される。でも、仕事もせずに何をやっているんだと呆れられるかもしれない。真面目な社員だと思われているぶん、幻滅されたときの落差が怖い。何より、課長に嫌われたくなかった。
案2:正体を隠したまま、素知らぬ顔でステージに立つ。うまくいけば、この先もずっと佐伯には気づかれずに済むかもしれない。だが、もしその場でバレてしまったら、隠していたこと自体が心証を悪くする可能性もある。どちらに転んでも、リスクしかない気がした。
胃がきりきりと痛む。
美月は鏡の前に立ち、「みずき」の姿を見つめた。厚塗りのファンデ、濃いアイライン、ツインテール。
普段のオフィス用の自分とは、まるで別人だ。
だとしても、油断はできない。
半年間、佐伯と毎日顔を合わせてきたのだ。
声や仕草の癖まで、案外覚えられているかもしれない。
頭の中で最悪のシナリオが次々と浮かんでは消えていく。
(賭けるしかない。ライブハウスは暗いし、課長は「会社員の美月」を探しに来るわけじゃない。ただ、部下が夢中になっているという「地底アイドル」を一目見に来るだけ)
「絶対にバレてはいけない、地底アイドル・みずき」
美月は自分に言い聞かせるように呟き、拳を握りしめた。
しかしその拳は、微かに震えていた。
決戦の土曜日。
美月は開演の一時間前から、ライブハウスの近くの喫茶店に潜んでいた。
窓の外を通行人が横切るたびに、心臓が飛び跳ねる。
コーヒーカップを持つ手も、震えが止まらなかった。
やがて、待ち合わせ場所に佐伯が現れるのが見えた。
休日のラフな格好の佐伯は、社内で見るよりも少し若く見えて、美月は思わず目を逸らした。
物陰から佐伯の到着を確認し、「急用で遅れるので先に入っていてください」とメールを送る。
裏口へ駆け込み、大急ぎで「みずき」に変身した。
出番のSEが流れ、美月は暗転したステージへ出た。
スポットライトがつく。フロアにいたのは、一人だけだった。
最前列中央、かつて翼がいた場所に、ジャケット姿の佐伯がぽつんと立っていた。
周りに他の客の姿はなく、パイプ椅子だけがずらりと空席のまま並んでいる。
「み、みんなー……こんばんはー、みずきです」
声が裏返る。
(近い。なんで最前列にいるの)
カラオケの重低音が響き、美月は必死で歌い始めた。
客が自分一人しかいない状況に、佐伯は最初、ネクタイを緩めながらどこか気まずそうにしていた。
慣れないライブハウスの空気に戸惑っているのが、遠目にも分かる。
しかし美月が汗を飛ばして歌ううち、佐伯の様子が少しずつ変わっていった。
視線が、美月の目元、そして緊張すると右手の小指が立つ癖に注がれる。
それは、オフィスで書類を読むときにも出る、美月自身も気づいていない癖だった。
佐伯の表情が固まった。
目を見開き、瞬きも忘れたようにステージ上の美月を見つめている。
(バレた……)
頭が真っ白になりかけたが、美月は歌をやめなかった。
ここで止まったら、自分の生き方まで嘘になってしまう気がした。
いっそのこと、と美月は開き直った。
バレているならバレているでいい。今さら取り繕っても仕方がない。
だったら、せめて最後まで、恥ずかしくないパフォーマンスを見せよう。
そう腹を括った瞬間、不思議と喉の震えが治まった。