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コンテスト作品
感動部門
奇病パロ。瞳遷病
桃(女)×赤(男)
瞳の病
僕の瞳は、人の心を写す。
最初に気づいたのは、十五歳の夏だった。
母の怒鳴り声が響くキッチンで、ふと目が合った彼女の顔が、一瞬だけ水面に沈んだように歪んだ。
「どうしたの?りうら、何が見えてるの?」
泣きそうな顔をしてそう聞かれたとき、僕はただ黙っていた。見えているのは、現実じゃない。母の心に広がる、暗い湖のような何か。
医者に行っても、検査しても、原因は不明だった。だがそれから徐々に、僕の視界はおかしくなっていった。
学校で、通りすがりの人の目を見るたび、僕の中に異物が流れ込んでくる。
楽しいはずの学園生活は、いつの間にか地獄になった。人の感情は、思った以上に、ノイズだらけだった。
病名が付いたのは、十八のときだった。
「瞳遷病(どうせんびょう)」――視覚を通じて、他人の“心象風景”を受け取ってしまう奇病。
原因不明、治療法なし。
末期には、現実と心象の区別がつかなくなり、視力も喪失する可能性が高い。
つまり僕は、視覚を失う代わりに、世界中の“心”を背負わされていく病人だった。
*
「はじめまして、今日からあなたの主治医になります。内科のないこです」
無菌室のように白い診察室。
僕の前に現れたのは、年上のようで年下にも見える、不思議な雰囲気の女性だった。
医者にしては、どこか柔らかい。そう思ったのが第一印象だった。
「りうらさん……視界、どうですか?」
「……ぼやけてる。ずっと。時々、知らない場所が見える。昨日は、燃えてる森みたいなとこ」
「それ、私の中かも。最近、怒りのコントロールができなくて」
そう言って、ないこ先生は笑った。
その笑顔の奥には、怒りとは正反対の、ひどく乾いた静けさがあった。
――やっぱり、僕の病気は本物なんだな。
「あなたの視界に私の“心”が映るなら、私も覚悟して診ます。無理に隠したって、全部見えてしまうんでしょう?」
僕は、初めての感覚を覚えていた。
“この人なら、怖くないかもしれない”と。
見えるもの、見えなくなるもの
「今日は、どんな夢を見た?」
ないこが言う“夢”ってのは、俺の見た“心象風景”のことだ。
「白い部屋だった。花が、いっぱい。なのに音がしない。静かで、ちょっと、怖かった」
俺の言葉に、ないこは一瞬、指を止める。
机の上で動いていたペンが止まり、そのまま彼女の視線が俺に向けられた。
「それ……多分、私の小児科時代の記憶だわ。病室にいた子たちのことを、思い出してたから」
「……じゃあ、あれは、記憶か」
「ええ。私が大事に、でも、蓋をしてた風景」
俺は頷いた。
心象風景ってのは、夢よりも生々しい。
人が目を背けてるものほど、はっきり映る。
無意識に、強く焼きついてる景色だから。
「ねえ、りうらさん……じゃなくて、りうらくん。あなたの中にも、そういう場所はある?」
「……ある。俺の目が、まだ普通だった頃、母さんが怒鳴りながら泣いてた台所。あれが、いちばん強い」
「まだ、怒ってるの?」
「怒ってるのは母さんじゃなくて、俺だよ」
言ってから、少し笑った。
ないこは、目を細めた。彼女の視線は、冷たくもなく、優しすぎもしない。ただ、ちゃんと俺を“見て”くれてる。
「でも、変わったんだ。最近、誰かの心を見ても、怖いと思わなくなった。……多分、あんたのせいだよ」
「私のせい?」
「俺が“普通”のままでいられるのって、あんたと話してるときくらいだから。あんたの心は……冷たいけど、ちゃんと形がある。ブレない」
ないこは、口元を指で押さえた。
それが照れ隠しなのか、苦しさの表れなのか、俺にはまだ分からなかった。
*
診察後、病棟の廊下で、ないこの後ろ姿を見送るのが俺の日課になっていた。
背筋がまっすぐで、歩き方も静かで、美しいって思った。
医者としてじゃなく、女として――そう思い始めている自分が、いた。
「ないこ先生」
ある日、俺は自分でも驚くほど自然に声をかけた。
「ん?なに?」
振り向いた彼女の瞳に、俺の姿が映っていた。
それがなんか、嬉しかった。
「……俺さ、視力が消えてもいいって、ちょっと思ってる」
「どうして?」
「最後に見えるのが、あんただったら、きっと後悔しないから」
沈黙。
ないこは、数秒だけ何かを飲み込むようにしてから、俺に言った。
「じゃあ……私は、あなたが“俺の患者だったこと”を、誇りに思うよ」
涙が出そうになった。
それでも俺は、涙のかわりに、笑った。
「バカじゃん、俺たち」
「ほんと、ね」
ふたりで笑ったあの時間だけは、今も確かに、“現実”だったと思える。
境界線
「……どうして、黙ってたんですか」
俺の声は、自分でも聞き取れないくらい、かすれてた。
ないこは、何も答えず、俺の前にカルテを差し出した。
そこには、見慣れたラテン語が並んでいた。
“視神経変性第3期。視覚機能、心象認識ともに臨界点”
簡単に言えば――
俺の目は、もうすぐ“人の心”しか見えなくなる。
そして最後には、視力を完全に失う。
「俺に見えてるあんたは、ほんとのあんたじゃないのかもって、わかってた。でもさ、知りたかったよ。どこまでが病気で、どこからが……」
ないこは、ようやく口を開いた。
「ごめん」
その一言が、どれほど苦しかったか。
俺は、もう涙なんて流せる状態じゃなかった。
だけど、心の奥で、何かが崩れていく音がした。
「……あんた、ずっと俺を、医者としてしか見てなかった?」
「そんなこと、ないよ」
「だったら、なぜ黙ってた。もっと早く言ってくれれば……あんたを、ちゃんと好きになれたかもしれないのに」
ないこは顔を伏せた。
肩が、小さく震えていた。
「りう……じゃない、りうら。私、ずるかった。あなたが私を見るたびに、自分の弱さが映るのが怖かった。心まで診られてるみたいで……逃げてたの」
「逃げるなよ。あんたにだけは、逃げてほしくなかった」
「……わかってる。だから、今こうしてる。あなたの“目”が残ってるうちに、ちゃんと伝えたい」
ないこが、俺の手を握った。
温かくて、細くて、すぐに壊れそうな手だった。
「りうら、あなたの見ている“私”が、たとえ幻でも、私はあなたの隣にいたい。……もう、医者じゃなくてもいいから」
その瞬間、俺の視界に、桜の花が咲いた。
風が吹いて、白い部屋の中に、ほんのり色がつく。
誰かが差し出した手に、もう一人がそっと頬を寄せる。
――これは、ないこの心だ。
でも、俺の“好き”も、ちゃんと、そこにある。
「……きれいだ。あんたの心、こんなにきれいだったんだな」
「見えてるの?」
「見えてる。たぶん、最後の春だ」
*
その日から、俺たちはただの医者と患者じゃなくなった。
ないこは勤務の合間に病室に来て、俺は彼女の話を聞いた。
政治のこと、昔の恋愛のこと、病院のやっかいな人間関係のことまで、まるで古い友達みたいに語ってくれた。
そして、ある日の夜――
「俺が、全部見えなくなっても、そばにいてくれる?」
ないこは、一瞬だけ目を見開いて、そして静かに頷いた。
「何も見えなくなったら、今度は私が、あなたの“目”になる」
その言葉を信じたいと思った。
でも心のどこかで、信じるのが、怖くて仕方なかった。
消えゆく世界で
最初に“色”が消えた。
視界の端から少しずつ、灰色に変わっていく。
赤も青も、あんたの髪の色さえ、俺にはもう思い出せない。
その代わりに、俺の目には“あんたの心”がくっきり見えていた。
ひとりの少女が、火のない暖炉の前で本を抱えて泣いている。
傍には誰もいない。
けれど少女の耳には、誰かの声が確かに響いている。
――「だいじょうぶ、あなたはひとりじゃないよ」
それが、あんたの記憶なんだろ。
何度も、何度も、あんたの中で繰り返されてきた“孤独”と、それに差し込む“希望”。
俺はその景色が、たまらなく好きだった。
*
「りうら、手術の話……考えてくれない?」
あんたは、あの日そう言った。
「網膜を切除して、“心象”だけを遮断できる可能性があるの。もちろん、視力はもう戻らない。でも、これ以上あなたの精神が侵食される前に――」
「……それ、俺じゃなくなるってことだろ」
「そうじゃない。あなたの中にある“見える力”を、少しだけ閉じ込めるだけ。ちゃんと生きていけるように」
「俺は、あんたの心が見えなくなるのが、怖いんだよ」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。
あれだけ嫌だった“心象”が、今では俺の生きる糧になっていた。
この世界のどこにもない、あんたの中だけの風景を、俺は誰よりも近くで見ていた。
「でも俺……もうすぐ何も見えなくなる。あんたの声がなかったら、ほんとに、世界が終わっちまう」
ないこは、俺の手を握った。
ぎゅっと、強く。
「じゃあ、手術の前に、約束しよう」
「なにを?」
「私があなたの“瞳”になるって言ったでしょ。だから……私が、あなたの見るもの全部、残してあげる」
「どうやって?」
ないこは、ポケットから一冊のノートを取り出した。
「私の記録用のノート。ここに、あなたが“最後に見た景色”を、全部書いていく。あなただけのアルバムを、私が作るの」
「……そんなの、泣けるだろ」
「泣いていいよ」
俺はそこで、初めて人前で泣いた。
手術よりも怖かったのは、心の繋がりが切れることだった。
でもあんたが“残す”と言ってくれたから、俺は前を向けた。
「じゃあ、お願いしていい?」
「うん。あなたの瞳に映るもの、全部、私が受け取る」
手術の日。
全身麻酔の前、最後に目を開けたとき、あんたがいた。
白衣じゃなくて、淡いワンピースを着てた。
あれが、俺の“最後の視界”だった。
その中で、あんたは笑ってた。
泣いていたけど、笑っていた。
「りうら、ありがとう。あなたに見つめられた私は、ずっと、救われてたよ」
それを聞いた瞬間、何かが溶けていくようだった。
音が、光が、ゆっくりと沈んでいく。
そして、真っ暗な世界に、あんたの声だけが残った。
「――これからも、ずっと一緒だよ」
あなたの瞳に映るもの
術後、最初に気づいたのは、音だった。
足音、風の音、誰かの話し声。
全部が、遠くなった視界を補うように、鮮やかに響いていた。
「……りうらくん、聞こえる?」
耳元で、あんたの声がした。
いつもの、少し高めで落ち着いた声。
それだけで、俺は“まだここにいる”って実感できた。
「聞こえる……声だけで、泣けるくらいに」
「ふふ、うれしい」
しばらくの沈黙。
あんたが俺の手を握ってるのが分かった。
その手は、手術前と同じように、あたたかかった。
「……見えないって、やっぱり変だ」
「うん、でも、あなたの中にあった“景色”は、ここにあるよ」
そう言って、ないこは一冊のノートを俺の胸元に置いた。
「これは?」
「あなたが最後に話してくれた、あの“心象風景”たち。ぜんぶ、私が言葉にしたの。……あなたの目が見ていた、世界を」
俺はそっと指先で表紙をなぞった。
“Riu’s Eyes”
あんたの丁寧な文字。
一文字ずつ、想いを込めて書いたのが分かった。
「……ありがとう。こんなにちゃんと、俺のこと、見てくれたんだな」
「あなたに、見られてたからよ。あのときの私、本当は、泣き虫で弱くて、ひとりで何もできなかった。でも、あなたが見つめてくれたことで、ちゃんと“私”になれたの」
俺は、もう涙を流すことができなかった。
でも、心の奥が温かくなっていくのが分かった。
「なあ、ないこ」
「なに?」
「俺は、もう何も見えないけど……」
「うん」
「それでも、俺の中には、今もずっと“あんたの心”がある」
その言葉に、ないこは息を呑んだようだった。
「見ていた。あの春の桜も、白い病室も、ひとりで泣いてた少女も……全部、俺の中にある」
「うん……うん……ありがとう」
次にあんたが言った言葉は、小さな声だった。
それでも俺には、ちゃんと届いた。
「ねえ、りうら。目が見えなくても、私と一緒に生きてくれる?」
俺は、うなずいた。
「もちろん。俺の世界は、あんたがいれば、それでいい」
*
それからの時間は、穏やかで、静かで、そして確かなものだった。
俺は、手術後のリハビリを続けながら、ないこに言葉で世界を教えてもらった。
「今日は晴れてるよ。空は淡い水色で、雲がレースみたいに細くてね」
「病棟の前の木、若葉が芽吹いてる。光が透けて、葉っぱがきらきらしてるの」
「看護師さんが、新しいピアスしてたよ。ハート型の、あ、でもちょっと恥ずかしそうだった」
――あんたの言葉が、俺の“瞳”になってくれた。
俺の記憶の中にある心象風景と、今の世界を、つなげてくれる。
それは、どんな奇跡よりも、美しかった。
*
そして、あの日からちょうど一年後。
俺は、ないこにプロポーズをした。
「見えなくても、あんたが笑ってるのは分かる。俺のこの先の人生、あんたと一緒にいたい。俺の世界を、あんたで埋めたい」
ないこは、しばらく黙って、それから涙を流して笑った。
「うん……こちらこそ、私の心に、あなたを映していたい」
その答えに、俺は一生分の“光”を感じた。
*
俺はもう、誰の心も見えない。
けど、それでよかった。
ないこの“声”だけで、俺は世界のあたたかさを知ることができる。
あんたの中の景色を、あんたの言葉で教えてもらえるから。
見えなくなった世界で、俺は初めて“本当に愛する”ってことを知った。
だから今、こうして書いてる。
この“記憶のアルバム”を、また別の誰かに届けるために。
かつて俺が、ひとりじゃなかったように。
――俺の瞳に、確かに映っていた。
あんたの心が、世界でいちばん、まぶしかった。
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優勝おめでとう🎉