第九章 薊
青城烈 新春
書いてる手が止まった。
冬休みが終わり、初めに待ち受けるのは願書を書くことだ。
上から試験区分、志望学科、氏名、住所、出身中学、保護者名を書いていく。
俺は白金医大付属ではなく、水祷宮に行くことにした。
清羅は変わらず白金医大付属に行くと今朝、聞いた。
家から出ることも志望校を変えることも結局は許されなかった。
お金すら出してもらえないのでは話にならない。
本人は大丈夫だと言っていたが、十二月下旬に暴力を振るわれてから常に目が腫れぼったかった。
あれほど理想的な学校を断念すれば、悲しみに明け暮れるのも納得する。
俺も気が気ではなかった。
最後の保護者氏名のためだけに、あの女と会話しなければならないのかと思うと憂鬱になる。
同居しても保護者は変わらないし、俺の両親はあいつらで変わらない。
せめて育ての親であってほしい。
あの女の腹から出てきたのが俺だったなんて信じられない。
感情を押し殺し、メッセージを見た。
あの日、あの時、清羅は俺に衝撃的な提案をした。
──あの人達を殺しましょう。
本当にこれは俺がいつも見る清羅の姿なのだろうか。
それとも俺が変えてしまったのだろうか。
これには返信が出来なかった。
誰かを殺めるのはいとも簡単だというのに、何故だか清羅の母親を殺めるのは躊躇してしまう。
他人と身内の境界線が引っかかっている。
扉のノック音が聞こえ、振り返ると、世間にとって醜い清羅が立っていた。
「なに?」
「願書、書き終えたの?」
以前と比べて元気が無くなった。
事あるごとに身体を求め合って、掛け合わせていくだけ。
重く寄せ合う口付けも軽々しいモノになっていた。
とりあえずでしているように。
「まだ。清羅は?」
「私は終わった。もう郵便に出す。」
「早く行ってこいよ。白金医大付属は期限早いんだろ。」
「烈と行きたい。」
「….印鑑あいつらから貰わないと。」
「なら、一緒に来て。」
清羅が甘えるのは初めてだった。
それがとても嬉しい。
水祷宮の願書締切日はあと十日ほどだ。
まだ大丈夫。
「うん。着替えるから待ってろ。」
扉を閉め、服に着替えた。
クローゼットの中に服は数着ほどしかない。
一週間分は鳴く、余ったスペースに清羅からの縫いぐるみや小説を置いている。
鞄の中に小さな縫いぐるみを入れた。
これがあれば何があろうと安心できる。
部屋を出て、エントランスで待つ清羅の肩を叩いた。
「寒くないの?」
視線を落とし、俺の格好を見た。
コートも着ないで、薄着だと確かに心配するのも頷ける。
「….寒い。」
「マフラー巻いてあげる。烈が来るまでの間、ずっと巻いてたから暖かいよ。」
白く、雪のようなマフラーを俺の首元に巻きつける。
内側からの緩い温度が、じめりと広がっていく。
暖かい。
「ありがと。暖かい。」
「そうでしょう。あと、郵便に出す前にケーキ屋さん寄ろう。」
「良いけど、お昼食べたばっかだろ。大丈夫か?」
「何か物足りなくて。」
清羅の過食症が酷くなっている。
学校でよくお手洗いに行っているのも、食べた物を吐き出しているからだ。
身体に負担がかかってウエストが以前よりもずっと細くなっている気がする。
──何が清羅をそんなに…
「ケーキは控えろよ。また吐くつもりだろ。」
「違うよ、ただ物足りないだけ。」
「それが….過食症の悪化に繋がる。心配なんだよ。」
「過食症じゃない。空腹感があるだけだよ。」
あっけらかんに笑う清羅にイラッときた。
その空腹感、物足りないが過食症だと言っている。
こういう人には何を言っても無駄なことくらい自分でも分かっているけれど、止めようとしてしまう。
「清羅、分かれよ。お前がそうやって食べてるから症状は更に酷くなるってことを。」
「前と変わってないから、大丈夫だよ。」
「….変わってるから言ってんだよ。鏡でよく見ろよ。清羅はガリガリしてる。」
少し足が当たっただけで折れてしまいそうな。
「してないよ。烈の幻覚だよ。」
「幻覚だったら良かったよ。だけど、誰が見ても明らかにおかしいから言ってんだよ。分かってくれよ。」
「え…そんなことない、きっと、違う。私はガリガリじゃない…」
「ケーキ屋には行かないから。代わりに小説でも買うから。」
「何か食べないと私は死んじゃう。だから、お願い。食べさせて。」
「申し訳ないけど、それは無理な話に過ぎない。小説買うって言ってるんだから、それに従ってくれ。」
「い、嫌だ ──」
「だから、それは思い込みなんだよ!」
清羅がびくっとした。
縁いっぱいまで注がれたものが溢れていく。
こんな所で怒鳴るとは、本当になす術がなかった。
「ごめん、怒鳴って。でも、俺が心配してること、お前にもわかって欲しい。」
頭を撫で、マフラーを返した。
今はもう寒くない。
むしろあついくらいだ。
「わかってる、わかってるよ…」
諦めたように返したマフラーを巻きつけた。
俺だって言いたくて言ってるわけではない。
清羅を思って言ってることだ。
それを理解してほしいと思うのは傲慢なのだろうか。
「….ガリレオの星人って小説ほしい。」
「分かった。」
頷き、マンションから出た。
落ち着きを与えるために手を繋いでいると、やはり周りの人達はコソコソと話題に出そうとする。
お金持ちの娘、息子というのは良くも悪くも有名になりやすい。
人とは卓越した才能を持つ俺たちを見物し、己と比較したがるのだ。
そして勝手に落ち込み、勝手に元気づけようとして勝手に俺たちを批判する。
勝手、勝手…
世の中は勝手の汚染で溢れている。
──ほら、やっぱりあの二人は付き合ってるのよ!
──でも付き合ってる割には幸せそうじゃ無いじゃない。
それは合ってる。
合ってるけど、付き合ってるのに幸せじゃないカップルはいっぱいいる。
そこは違う。
「烈。」
「なに?」
「私、しにたい。」
「え、何で。」
「こんな状態になって、烈以外に愛されない人生なんて生きる価値ない。大人になってから愛されるよとか綺麗事もいらないの。今が愛されないならまた必要性も感じられない。烈、いつか救うって前言われたけど、そのいつかっていつ来るの?」
ああ、確かにそうだ。
妙に納得する。
俺や清羅が殺人犯、犯罪者としてなったからには救いなど出来ない。
救おうともがいたところで、むしろ落とされるのが現状。
綺麗事だったのだ、救いとは。
「綺麗事だな。」
「悪く言えばそう。あそこにいるお父様が不貞関係を築いてしまったのだからまた露呈されていくのも時間の問題だよ。」
えっと指さす方を見た。
まただ。
またこれだ。
募る怒り心頭に発する。
──もういっそ、全てを終わらせてしまえたら。
忍び寄る清羅に着いて行った。
「せ、清羅…?!」
こちらに気付いた清羅の父親は慌ててスーツに着替える。
「えっ、どういうこと?」
まだ浮気相手の女は理解できていないようだ。
本当に安藤商事の娘が浮気相手とは思わなかった。
「貴方が愛梨さんですね。初めまして、柏柳修一の娘、柏柳清羅です。」
「なんで、修一さんの娘さんがここに…?」
「さぁ、何ででしょうね。」
冷たく視線を落とした。
清羅にとったら、父親と同等の人に理由など教えたくないだろう。
殺人犯にしたのは清羅の父親とは言いたくないけれど、人格を形成させたのはまさしく清羅の父親だ。
あの男と同様に胡散臭いところが気持ち悪い。
「….奥さんと似てるその顔とその仕草、薄気味悪いわ。」
「それならそれで結構です。お父様、これはいったいどういうことですか?やはり浮気していたのはお父様も一緒だったのですね。」
「い、いや、違うんだ….!これはたまたまだよ!な?!」
勢いよく浮気相手の方を向いた。
浮気相手はつまらなそうに髪をいじっている。
「え?あ、あぁ、そうですわ。たまたまバッタリ出会っただけです。清羅さんが勘違いなさってる浮気とは、全てたまたま出会ったものですわ。」
「たまたまなら何故服が乱れているのでしょう?」
あっと気づき、それも嘘だと弁明を図った。
「もう良いです。そういうの嫌いなんです。」
「なんですって?」
浮気相手はムキになった。
「私はお父様やお母様が不貞関係を築いていても別に何とも思わないです。ですが、それによって私が築き上げてきた努力全てを壊されるのだけは嫌いなのです。さっさと死んでほしいなと思います。」
「なら、殺してみなさいよ!社会問題に発展するかもしれないけれど、それで良いなら。」
「おい、愛梨….!」
これほどの屈辱があるだろうか。
何故そこまでしてこちらが悪いように仕向けていくのだろう。
俺自身もこういう人間が一番嫌いだ。
幼き頃のあの女とあの男を見ているようで。
「清羅、良い。俺がやるから。」
気がつくと、俺は前に出ていた。
罪を俺へと向けるようにする。
そうすれば警察はまさか清羅が殺人を犯したのかと思わないだろうし、何より俺が清羅を守るべき存在だと認知してくれるから。
殺意を伴う殺人に武器など必要なかった。
ただ死ねば死ぬ、生きれば生きる、そこに向こう側は無い。
つまりここが戦場の終章、過程など取っ払うべき結果の殺人だ。
清羅の父親とその浮気相手の死はあっけなく花が絞れるように散っていった。
もう俺たちは捕まる身だ。
死体を隠すつもりはない。
「これで良いだろ。俺たちが求めていた背景はこれで始まる。」
だが後悔はあった。
少年法が適用される十四歳、つまり一年前に殺しておけば刑は減刑される。
死刑は免れるかもしれないということだ。
まぁ、良い。
全てがどうでも良い。
誰かが死のうが、俺がどうなろうが。
「烈は面白いことを言うんだね。」
「清羅を笑わせてやりたい。ただそれだけ。」
「そう。やっぱりそういうところが一番好き。」
清羅は初めて少し救われたようだった。
自己完結していれば良い。
そう考えてしまった。
きゃーという甲高い叫び声が聞こえた。
郵便局の裏路地は殺した場所から遠いというのに、ここまで聞こえてくるとは、どれほどの人が絶句しているのか容易に想像がつく。
浮気相手が言った通り、これは社会問題に発展していくだろう。
社会に大いに貢献する安藤商事の一人娘が死んだとなれば、新たな枠を埋めなければならない。
そして日本に震撼を与える。
パトカーのサイレンが横を通り過ぎていく。
「烈….」
「大丈夫。あぁ、そうだ。子供の頃、約束した窮地に陥ったら死ねば良いって言ってたな。」
「それ何年前だっけ。」
「十年前くらい。」
五歳の頃、清羅が川で溺れたことがある。
絶対的な窮地に清羅の母親と父親は助けてくれなかった。
俺が助けるばかりで、大人たちは見向きもしない。
警察に通報するわけでも、周りに助けを求めるわけでもない。
それは俺と清羅にとって心の中で傷として刻み込まれている。
その時に誓った小指での約束。
「懐かしい。そんなことは今後思い出さないと思っていたのに。」
「俺もだよ。だから、清羅の母親を殺したら、死のうと思う。」
「なら私もいくよ。二人だったら安心する。」
「うん、そうだな。」
清羅と過ごせる時間はもう少ないのだと思うと、哀しい。
俺たちは生まれた場所から間違っていた。
あの家、あの環境、あの姿、あの臭い。
それはきっと第三者からとれば恵まれたものだろう。
でも一度俺や清羅になってほしい。
その気持ちは痛いほど分かるはず。
分かってくれないとおかしい。
俺は正当化できない。
死ぬことは全てに対しての贖罪なのだから憎むことくらいは罪にしないでほしい。
「清羅、最後の時くらい、いっぱい食べたらどうだ。」
「良いの?」
「どうせ死ぬんだから、健康とか気にしないで食べろよ。俺が保証する。」
「そっか。ありがとね、烈。」
その笑顔が見たかった。
蟠りがもう少しで解けることを意味する貴重な宝物。
その初々しさに口付けをして、俺の濁りを溶かすケーキを買いに行った。
柏柳清羅 新春
先生に生徒会で使う資料を届けた。
生徒会はもう退任しているが、先生は何かと私を呼びつけて仕事をよこしてくる。
今年の後期生徒会は良くも悪くも普通だ。
成績は私が所属していた頃よりも落ち着いていて、絶大な人気を誇るわけでもなく、空気に適応した存在だと言える。
そのため、面白みが無い資料作成だけして完結してしまう。
先生が私に押し付ける理由はちゃんとした資料をつくってほしいという願いを込めてだ。
「助かるわー、清羅さんがいると資料作成も早めに終わるし、行事予定も綺麗に決められるし一石二鳥よ。いつもありがとうね。」
「いえ、お気になさらず。」
「そんなに謙遜しないの。職員室も少し騒がしくてごめんなさいね。ここ最近起こってる連続殺人事件にうちの学校が関連してると勘違いしてるみたいで。」
ここ数日、警察は只事ではないと気づいたのか、事件を詳しく調べている。
調べるの中には、うちの学校に聞き込みをいれるということも入っている。
ニュースで見た時は感銘を受けたほどだ。
無能な警察が今頃になって動き始めるのかと。
だがその行動もきっと無意味に終わってしまうだろう。
今年の校長は誰よりも学校のイメージを損なわせず、送り返そうとしている。
由緒正しき歴史ある超名門中学、数々の成績を残し、ご子息ご令嬢が多く通うことで有名。
そんな肩書きを狭きところに置いている。
こんな校長がいたら落ちぶれていくのも時間の問題だ。
「お話中、失礼します。警察の者ですが、赤田先生にお話を伺ってもよろしいでしょうか。」
「構いませんわ。」
警官は先生ではなく、私へと一礼する。
それを確認し、職員室から出て行った。
壁に貼られる無数のポスターには私が写っている。
どれも私が私ではないみたいで、大層なことだと思った。
誰もいなければ、ポスターをバリバリに破いているところだ。
ふと廊下の棚の上にある手紙を取った。
未来の貴方へ。
水祷宮のキャッチコピーだ。
この高校に行くためだけにどれだけ憧れと勇気、羨望を抱いたか。
見つけてから毎日のように対策問題や、面接の練習をした。
それは今の私の夢だった。
涙が溢れ出そうだ。
なんて現実は息苦しいのだろう。
私があの時に説得できていれば、夢は夢じゃなくなるかもしれなかった。
羨ましい。
普通の子が。
とても。
私は母が憎い。
殺してやりたい。
いいや、でも今日がその決行日である。
なら、もう少しだけ夢に浸らせてくれ。
もう私はこの世界に生きていたくないのだ。
目を閉じ、もしもの世界線を思い浮かべる。
黒曜石で染まった中にある一粒の真珠。
それこそが私の夢だ。
目を開け、手紙を鞄の中に入れる。
「清羅、イルミネーション観に行かないのか。」
ちょうど良いタイミングに烈が来た。
「行くよ。行きたい。」
烈の場所へと駆け寄り、腕に手を添えた。
「苺クレープと、チョコクレープと、野菜クレープを一つずつください。」
イルミネーション付近のクレープ屋さんはいつもに増して混んでいる。
こんなに並んでるけど、良いのかよと小声で囁いた烈を何とか説得し、出来上がるのを待った。
待っている間にも何かを食したい気分だ。
初めて烈が私の症状を気づき、それは過食症だと指摘した時、大きい不安に襲われた。
ごく稀に番組で話題に出していたのは知っていたが、まさか自分がなるとは思わなかった。
なる原因すら気にも溜めずに、こんなのがあるのかと無関心だった自分を恨む。
ギリっと歯軋りをした。
「歯軋りされるのは見ていて良い気分じゃない。」
「そんな…。私、してた?」
「してた。」
「無意識だった。ごめんね。」
「うん。」
過食症の原因もまた無意識なのだろう。
深い波に呑み込まれたように制服の裾を強く握った。
「丸の内のイルミネーションは全国でもトップクラスに綺麗だと噂されているけれど、本当に綺麗だな。」
そう言って子供のようにはしゃぐ烈の方が可愛くて、綺麗だ。
「うん、そうだね。綺麗。」
出来上がったクレープを受け取り、イルミネーションに近い席に座った。
「でもやっぱり、六時に来た方が良かったんじゃない。」
「放課後に来れるとしたらこの時間しかないだろ。あまりに遅いとSPの人が来てしまうから。」
「お母様が手配したあの人達、うざったらしくて嫌い。」
「バレないようにしてるんだろうが、バレてるのがまた癪に触る。」
「ほんとにそう。でも今日でそれは終わりだし、遅めでも良かったかも。」
「お前はアホだな。遅めだと捕まってしまうだろ。」
「確かに。だけど、アホは言い過ぎじゃない?」
「いつもに増してアホ面ってこと。」
「ふざけないで。」
わざとらしく怒ると、ほらなと付け足した。
烈と話すと話が途切れてしまう昔ではない。
布団でくるまりながら話す時間以外に機会が無かった。
今は不手際によってその機会がつくれている。
母に対してそこは感謝したい。
「イルミネーション、写真におさめなくて良いのか。」
「うん。この目できちんと見ておきたいの。」
洗練された雰囲気の景色と、そこに置かれるキャンバスの中のメルヘン。
子供になれたようで楽しい。
死んだらこんなことは聞くことも、見ることもできない。
悔いは残っていないけれど、反射的に愛したいと思ってしまう。
「そう言えば、午後五時三十分に、イルミネーション近くの湖にいるんだよね。」
「うん。そうやって話してるのを少し前に聞いた。」
烈の聴力は本当に優れている。
おかげで私達の計画は成り立っている。
烈は紙を見せ、指差した。
「現在地点は⭐︎地点、目的地はI地点。ここまでは一㎞ある。清羅の母親とあの男は人に目撃されないように十分で立ち去るを繰り返している。だからあと五分で行かなければならない。」
「そんなに早いものなのね。」
「それくらいしないとあいつらを殺せない。この計画は延期されてしまう。踏ん張れ、清羅。」
高校選びの時に言った魔法のような合言葉。
それは決まって覚悟を持てと真摯に向き合われているように感じさせる。
唾を飲み込み、恐る恐る頷いた。
「….烈、待って。」
「なに?」
「予報で十七時三十五分、雨が降るって。」
「は…?それ冗談だろ。」
「いや、違うの。本当にそうなの。」
スマホ画面を見せると、痺れるような反動がくる。
これではもしかしたら早めに密会を済ませる場合がある。
頭の中で二分の一の確率が過った。
終焉の時計がパチンっと鳴った。
だめだ…!
これでは私たちの全てが終わってしまう…!
こんな私達が生きていて許す大人などいるものか…!!
冷や汗が止まらない。
クレープをそのままにし、私達は終焉を辿るようにひたすらに走った。
心拍数が徐々に増え、どくんという音が続けて鳴っていく。
「だめだ、あの男がこの雨を予測していないわけがない…しくじった…!」
「烈、大丈夫。きっとお母様がいる以上、提案は断れないはず。あの二人は愛し合ってるから。」
「ほんとに最悪だ…」
「烈、いつものように平常を保って、いつものように禁忌を犯してしまえばいいの…!」
「わかってる…」
息が切れながら、足まで痛くなってくる。
巨豚に捕らわれる家畜が試行錯誤などできずに、どこかを彷徨い、悩むような挙動不審につけられている感覚。
早く終わってくれ。
早く。
早く。
早く…
早く…!
早く…!!
──学さーん!
──未知子。
求めていたものがこんなに酷いとは思ってもいなかった。
私が見た殺人よりも摩訶不思議で、末恐ろしい所業が身を包む。
「気持ち悪いんだよ。しね…不出来ものが…」
お互いに息を切らして、その場で立ち尽くした。
ターゲット二人は、私達がいることにお構いなしにキスをし始めた。
アルコールを飲んだ時とは違う吐き気が死に至らしめようとする。
おえっと嘔吐物を吐き出し、様子を観察していた。
あれが私を産んだ母だとは思えない。
あんな身体を烈の父親は…!
「平気か。」
「大丈夫だよ…」
本当は大丈夫ではない。
ただ、ここでそう言わなければ計画は悲劇を迎えてしまう。
勿体無い機会だ。
雰囲気をつくっているところを襲えば、全て終わる。
──学さんったら…
──やはり俺はお前が良いんだ。未知子。
そう言い、首元やら指やらを舐める。
「まだ?まだなの?烈…」
「まだだ。服装が乱れれば…」
待てば復讐が終えられると考えれば、待つことなど簡単なものだ。
張り詰めた状況の中、私達はその時を待った。
三分経った時、烈の立ち尽くしていた身体が一歩を踏み出す。
まるで運命への十三階段を登っているようだ。
「踏ん張って。烈。」
「うん、踏ん張ってみる。」
──烈?!
──まさか見てたっていうの?!
ばちっと母と目が合い、分かってはいながらも怯えた。
来ないでくれ ──。
怖い…
咄嗟のあまり、目をぎゅっと閉じる。
だが、それはもう手遅れだった。
「清羅。」
その低い声で迷うべき感情に素直になって、目を開けた。
「れつ…..」
私は絶望した。
私が最後に見た烈の笑顔は汚かった。
エピローグ 菅芍薬
繋いでる手を離した。
冷たさから凍る手先を烈と共有したくない。
私の気持ちが烈へと伝ってしまいそうだ。
こんなに気まずいのは初めてかもしれない。
異質な何かをこの世から取り除いた後、烈は私を慰めるようにいつも通り手を繋いでくれた。
なのに心はちっとも安堵しなかった。
これから死ねるという開放感と、その前に警察に現行犯逮捕されてしまったらどうしようという焦り。
度々、母の顔が頭にちらつく。
呪縛はまだ解かれていないように私ヘの罵りの言葉を並べてくる。
身体がじめじめとするのもそれが理由だ。
「どこに向かってるの?」
「遠く離れた海。」
烈は海が嫌いだ。
私が溺れた時の川を連想させるようで、海関連の話題を出されるといつも話を切り替える。
それをわざわざ行くとは本当に死ぬ覚悟があるのだろう。
「電車乗らないとね。」
「都営三田線に乗る。乗り換え少しあるけど、そうしないと俺たちは死ねない。」
「うん。そうだね。」
ぞっとする。
計画を緻密に立てていたことが分かった。
烈にとって計画を企てるのは簡単なことで、過去問を解くのと同じくらい、すぐに練り上げてしまう。
本当に怖い。
白金高輪駅に入り、改札口を通る。
時刻表には十七時四十五分発と書かれている。
腕時計で時間を確認すると、あと五分で来るようだった。
夕方だからなのか、そこまで人はおらず私達が誰かも皆興味が無い。
いつもは誰かがSNSに拡散したり、盗撮する。
それが無いのは初めてだ。
「皆んな私たちに興味無いみたい。」
「当たり前だろ。若者は誰一人としていないし、いるのは帰宅するサラリーマンや観光客だけ。」
白金は高級住宅街として有名からか、週一で地方から来る人を見る。
これが本物の金持ちかぁーと嘆く人もいれば、所詮は金かよと不満を漏らす者もいる。
後者にとても頷いてしまう。
所詮、この街も世界も貨幣制度で成り立っていて、それが無ければ序列が下がる。
自分の武器が無い人を見ると、私もいつかああなるのかなと夢に思えた。
夢は子供だけが抱ける幻想に過ぎない。
少しくらい私が夢を見たって良いではないか。
馬鹿にしてくる異質な何かや、疑問に思う祖父母。
弱々しく惨めな塊。
そういうものは夢を否定された気分で、悔しい。
周りにいる人たちは私達の夢を頭ごなしに否定しない気がした。
私が一粒の星を感じた時だ。
突然、私と烈の間を切り裂くようなライトを浴びた。
目を微かに閉じながら浴びせられた方向を見ると、私が毛嫌いしている集団がいた。
──うわ、あれ柏柳清羅じゃん。
──まじ?うわ、まじじゃん。拡散しようぜ。
慌てて咄嗟に目を逸らす。
烈が急いで顔を覆ってくれるも、もう自滅する寸前だった。
──あそこに不倫した女の娘と不倫した男の息子がいまーす!付き合ってるんですかー?
──まじでやめろって。
満更でも無さそうな金髪の男子高校生がスマホでカメラを向けている。
徐々に私達の方へと視線が集まっていく。
犯罪者のような扱いも同然で、公開処刑に晒される。
遠くから来る電車に助けを求めるように見つめた。
早く来い、早く ──電車さえ乗ってしまえば終わる。
プシューッと鳴る気笛に合わせて周りの人達がドアの前に立つ。
中へと入ると幸い、座ることが出来た。
その横にはさっきの集団が横並びで座っている。
烈は小声で、車両を変えようと言ってきた。
本当にこの人達は着いてこないのか心配だが、頷き、車両変更をする。
歩きながら後ろを見ると、まだあの人達はいる。
ひっそりと隠れているだけで、バレないように尾行している。
ストーキングと呼ばれるこの行為は久々だ。
全然慣れていない。
今日に限ってSPはおらずに休暇をとっている。
代わりもいない。
窓際の席に座った。
ちょうど二人でおさまり、あの集団は遠目からこちらを見ている。
キリがない。
電車から降りても同じだし、警察に頼ろうとしても逆に私達の犯罪が明るみになってしまう。
まぁ、どうせ死ぬから良いかと楽に考えるしかなかった。
「あいつら….」
烈はわざと電車から降りて、あの集団を都合よく殺めようとする。
「まだここではダメ。」
「何で。」
「ここの駅、有名だからすぐにバレちゃうんだよ。どうせなら目的地の駅に着いてからにしましょう。」
あの集団が今日死んだところで、変わりはない。
ああいう人たちは世間でいう馬鹿である。
馬鹿な集団が偉業を成し遂げるわけでも、社会に貢献するわけでも、価値があるわけでもない。
人は誰しも死ぬものだ。
それが今日であっただけで、死ぬことに変わりはないのだ。
馬鹿は死んだ方がいい。
「清羅は本当に殺人鬼になったみたいだな。」
「何言ってるの。」
「冗談。ただのジョーク。」
ジョークにしては重い空気だ。
深く問いただしたかったけれど、面倒くさくなって聞かないでおいた。
その方が烈にとっても良き選択だろう。
「そう言えば、私がお勧めした小説読んだ?」
「読んだ。あれはどうにも理解し難い。」
「やっぱり?」
「うん。主人公の梨花が己の正義のために敵陣に向かっていく描写は何ともありきたりで、つまらない。面白く考えようとしても考えられない。でも、最後、男主人公と結ばれるのは良かった。ストーリーがというより、言葉の表現が良かったと言うべきだろう。」
烈がここまで熱中して語るのは初めてだ。
私たちとは違う価値観のキャラクターが摩訶不思議な世界に飛び立ってしまうのは転生系としてはありきたりだ。
でもそこに惹かれてしまうだけの魅力はある。
さすが有名作と言ったところだろうか。
「私もそう思う。裏切り者であるユダが敵陣にいるのではなく、味方側にいたことが一番驚いたよ。」
「どんでん返し展開は俺もあまりよめない。筆者は素晴らしい人だ。」
笑い合わなくても笑い合っているような会話が楽しくて仕方がない。
私にとって様々な初めてを教えてくれたのは烈であり、私も烈にとっての初めてを教えた。
馬鹿みたいに喋るこの時が一番の青春だったのかもしれない。
駅から降りると、あの集団は私達をまたストーキングする。
烈とスマホでやり取りした画面を確認して、人目がつかない場所ヘと入って行った。
ここから海まではそう遠くない。
一石二鳥だ。
──ねえ、これやばいんじゃない?
──あいつらを拡散するって決めただろ。まだ引き返せねぇよ。
──やっぱ戻ろ!ね?うちら怖いし。
怖気付いた女子高生に若干の仕方なさを感じ、男子高校生は引き返した。
──つまらない。
あの集団は悪い意味で人間らしい。
典型的な感情と、何の苦労もなく付き合いできる浅はかな関係。
全て普通の人間だからできることだ。
だから私は小説の主人公である梨花に共感できない。
正義は何を根拠にして正義と決めつけるのか。
仲間や家族のためとあるが、仲間や家族がいなければ必ずしも人間は悪であるのだろうか。
悪は本当に悪いことなのだろうか。
小説は非現実的な空想を書いたに過ぎないので、それを口に出すことはタブーだ。
でもここだけは納得できない。
「つまんない。」
あっと気づいた。
それが恐ろしい失言だったことに。
「殺す?」
「….そうだね。」
私の横を通り過ぎる烈を見送りはしない。
何事も頼る私の癖が滑稽だ。
なるほど。
私も典型的な人間であり、人とは異なるきっかけがあっただけのただの人間か。
烈は ──。
考えてるうちに烈は足早に来て、私の肩を揺らす。
「清羅、警察が来る。今は殺せない。ごめん。」
「分かってた。」
言葉足らずで口に出す。
不甲斐なさに気抜けしてしまう。
小指だけをつないで、私達は海へと向かうことにした。
海は烈の血で薄赤く染まる。
足に浸かり、どんどんと奥にいる烈を追いかけた。
夕方の海は満月だけを反射させている。
私や烈を照らしてはくれない。
当然かと口の端が上がった。
「清羅!早く来いよ。」
「はいはい。分かってるよ。烈。」
烈のそれは開放感からだろうか。
それともまだ青春を味わっていたいからだろうか。
「許可されてない海で遊ぶのは楽しいな。まるで煙草みたいだ。」
海関連の話題で話を切り替える烈はいない。
私の母や烈の父親から解放されて、綻ぶ青春真っ只中の青年がそこにいる。
私が今まで見た烈は烈ではなかった。
「烈ったら、子供みたい。」
「俺らは元々まだ未成年だろ。子供ではないけど。」
「私からしてみれば、まだまだ子供だよ。」
緩やかな波とひんやりとする冬の風が気持ち良い。
持っていたスマホを落とし、足を踏み込む。
──そこの中学生二人組!今すぐ止まりなさい!
「….?」
後ろを振り向くと、赤色が点滅するサイレンがくるくると回っている。
全然聞こえなかった。
私たちの空間は完全に遮断される。
──あなた達は、連続殺人犯として指名手配されている!今すぐ海から離れなさい。今離れれば弁明の余地は与える!
「….そうです。私たちが殺しました。弁明の余地は要りません。」
警察官は絶句する。
後ろを振り返り、烈の身体へと身を寄せた。
「….なんてこと….」
警察官が驚くのも無理はない。
私たちは日常を暮らすように口付けをして、当たり前のように抱き合っている。
身体全体を汚していくように、お互いが持つナイフでお互いの身体を刺していく。
ここにはもう痛みが存在しない。
力が抜けたように陸へと上がることが出来なくなっていた。
海底…
綺麗だ。
烈は本当に様々なことを見せてくれる。
生きることへの失望も、死んだことへの熱望も。
それは全て叶うと言うように。
何も悲しくはなかった。
きっと選択肢は正しく、終焉を迎えられた。
海だけがこの身を理解してくれて、小鳥の囀りの中に私たちが確かに在る。
そして冬の空へと階段を使って駆け上がっていける。
烈はもうそこに辿り着いていた。
同じ空と満月、夜の星を見つめている。
これが感動 ──。
刹那の時間、感情に感化されながら私はゆっくりと目を閉じた。
コメント
12件
ミステリーにしては切ない恋要素もあった笑笑 最後は二人を応援してしまいました(¯―¯٥) 犯罪を肯定するわけではないけど、自然と受け入れてしまいます...作者さんは天才なんじゃないかと思った ずっと面白かったです!