「千夏、お前みたいな娘にはもったいない程のお話なんだ。決して相手の機嫌を損ねたりしないように気を付けなさい」
この人の言葉は娘に言い聞かせるというより、ほとんど命令に聞こえる。自分の隣に私を立たせるのが心底不満でしょうがないって顔をしてるの、そんなの私だって同じ気持ちなのに。
今まで散々隠してきた娘をこうして外に出すと言う事は、この話は二階堂の家にとって余程大事って事なんでしょうけれど。
たとえどんな人が私の相手になるのだとしても、この家に隠されているだけの人形のような私に拒否する権利なんてない。だから……
「はい、お父様……」
ただ静かに返事をして頷いてみせる、そうしなければこの人がもっと不機嫌になるのは目に見えているから。
「全く、どうしてよりにもよってこの娘を選ばれたんだか。こんな娘よりも私の娘たちの方がよっぽど……!」
ええ、それが貴方の本音でしょうね。私のような後ろめたい存在より、大事な本妻の娘たちに良縁が来なければ納得出来ないんでしょう?
父とって私は娘ではない、ずっと前からこの人の不手際を形にしただけの存在。
「ご主人様、そのような言い方は……」
周りの目を気にした使用人が小声で止めに来る、普段は見てみぬふりだというのに。義理の母は予定していたかのように、昨夜から体調を崩してここには来なかった。
何もかも私が思っていた通りの展開、後はこの部屋にやってくる未来の夫の手を取るだけでいいはず。
……何もかも諦めて、ただぼんやりと目の前の扉が開くのを待っていた。
ゆっくりと開かれる扉、礼儀正しく挨拶してきたその人には見覚えがあった。なぜこの人がこの場所に? そんなはずは無いと思うのに、何度見直してもその人に間違いなくて……
「ほら、千夏。彼があのSHINKAWAグループの御曹司、新河 櫂君だ」
「俺の名前も顔も知らなかったって顔しているな、やっぱり」
その言い方、やっぱりこの人はあの夜の男性と同一人物だと言う事なのよね? だったらなおさら彼の行動の意味が分からない、彼が何度も私の部屋の外に訪れた理由も。
「どうして……? SHINKAWA グループの跡取りだなんて一度も」
知らない、彼からは何も聞いてなかった。この人の名前も歳も私は何一つ知らないままで、それでも良いと思ってたのに。
ただ……フッと深夜に現れては、少しの時間話をしていただけ。
「千夏はどうしてだと思う? 最後の俺の言葉、次に会うまでに真剣に考えろって言ったのに」
それは確かに覚えてる、でも私にだって簡単にどうにか出来るような事ではなかったし。
「新河さんは……なにを企んでるんです? こんな事までして私を一体どうしたいんですか?」
そうやって訊ねれば彼は満足そうに笑って、私の手を取って囁いた。とても信じられないような言葉を……
「あの夜の約束通り、千夏を自由にしてやりに来た。お前はこれから俺の言う事に頷いていればいい」
「……え?」
訳が分からず戸惑っている私の手を取って、新河さんはハッキリと言った。
「決して悪いようにはしないと約束します。千夏さん、契約結婚……俺としてくれますよね?」
最初から断るなんて選択肢は私には与えられてなんかなかった、むしろそれくらいしか|二階堂《にかいどう》の役に立てる機会なんて無いのだからこの結婚話に感謝しろと言わんばかりで……
だけどこんなの私は想像してない、名前も知らなかったこの人が私の結婚相手だっただなんて。
「はい、私なんかでよろしければ……」
最初から用意されていた返事を、必死に声が震えないように目の前にいる新河さんへと伝える。
今はまだ夫となる人がこの人で良いのか、良くないのかも全く分からない。だけど私には新河さんの手を取る事しか出来ない、今まで暮らしていた二階堂家にはもう私の帰る部屋は無くなったのだから。
「そんな不安そうな顔をしなくてもいい、俺は千夏が嫌がる事をしようなんてハナから思っちゃいない」
大企業の御曹司だというのに、どこか軽さを感じさせる新河さん。こんな誰からでも好かれそうな人が、どうして私なんかを自分の結婚相手に選んだのだろうか?
そもそも普段は屋敷に隠れて生活しているので、私の存在を知っている人なんてそういないはず、それなのに……
「あの……新河さんはどうやって私の事を知ったのですか?」
「……千夏は初めてカフェで会った時、俺の名刺を渡したこと覚えてる?」
初めてカフェで会った時? そう言われてもピンとこない、私は普段から部屋に引き籠りよっぽどな事が無ければ屋敷から出る事なんて無かったし。
でも新河さんの言った【名刺】という言葉には心当たりがあった。少し前に従兄である柚瑠木兄さんとその奥さんと一緒に出掛けた時に、ある男性から名刺を渡されて思い出にと取っておいたから。
「あの時の……?」
余計に訳が分からなくなる、この人が私の部屋の下に現れるようになったのはいつから?
「千夏は俺に連絡くれなかっただろ? まあ……たまたま傍に座ってた二階堂財閥の御曹司に気付いていたからこうして探し出せたけど」
新河さんの言葉は信じられないような事ばかり、まさか柚瑠木兄さんの存在に気付いて私までたどり着くなんて。今までこんな風に自分を探した人なんていなかった、あの屋敷でいないものとして扱われてきた私なんかを。
「どうして新河さんはそこまでして私を……?」
「櫂だ」
私の質問には答えず、新河さんは私に名前を教えてきた。そんなのもう何度も聞かされて知ってますけど……
「……え?」
「俺の事は櫂と呼んでくれ、これからはアンタも同じ新河になるんだから」
思わず「はい、分かりました」と答えてしまったけれど、本当にその後すぐにこの人との結婚生活が始まるなんてこの時は夢にも思っていなかった。
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