給湯室から、リオナを引き連れて戻ったとき。
研究室内の配置が、かなり変化していることにイズミは気づいた。
さきほどまで壁際にあったアシスタント用のデスクが、なぜか不破のいるL字デスクの真横にピタリと寄せられている。
それを見て「リオナ」と呼んですぐさま手伝わせ、また壁側ギリギリまで移動させる。
それから角度を90度動かして、不破のL字デスクがなるべく視界に入らないように設置し直した。
不服そうな男の顔は無視して、できればパテーション代わりになる観葉植物が欲しかったが、ちょっと給湯室に行っている間に、窓際で枯れかけていたパキラは鉢ごと撤去されていた。
「成瀬さん。とても美味しいです」
窓のブラインドがあげられ、太陽の光を背に受けた不破は、イズミが淹れてきたエスプレッソかというくらい濃く淹れたコーヒーを片手に、幸せそうに微笑んだ。
気持ちワル。頭もイカれているけど、舌もイカれてるわね。
「そうですか」
そっけなく返事をしたイズミは、移動したてのデスクでパソコンを起動させ、パスワードの設定などをリオナにさせてから、大学内組織のサイトにアクセスした。
さっそく【不破理人】とキーボードを叩いて、本人を目の前に、高校卒業後の経歴をチェックする。
不破理人 (28歳)
東帝大学理工学部応用化学科 准教授
青双学園理数科 卒業
東帝大学に首席合格……
そこからは、大学在学中に受賞した数々の意味不明な論文名がダラダラとつづき、スクロールして読み飛ばしていくと、大学3年次に大学院に飛び級。修士課程から博士課程に飛び級。25歳で博士号を取得した――とある。
飛びっぱなしの天才は、同大学の講師に採用され、あっという間に助手から准教授になった、というわけだ。
中学、高校時代から知っているけれど、不破理人は、いわゆる【天才】という部類の人間で、高校卒業後、泉の知らない10年間も、その天才ぶりは健在だったことが、パソコンのディスプレイに羅列された輝かしい経歴からもうかがえる。
不破と似たような経歴を持つ、現在行方知らずの男を思い出した。
「いるんだよねえ、こういうヤツ」
ひとりごとだったのに、
「成瀬さん、何か言った?」
即座に不破が反応した。
「なんでもありません」
そっけなく答えたイズミは、その経歴を画面からすぐに消して、
「少しよろしいでしょうか」
不破の返事を待つことなく一方的に話はじめた。
「5分で辞める予定でしたが、五十嵐さんとの話し合いで、1か月間はこちらに勤めさせていただきます。ただし、延長する予定は限りなく低いかと。それから、もし、わたしの意にそぐわないことを不破准教授がなされたときは、即日辞めます」
「わかった。それで、僕のどんな行動が、成瀬さんの意に反することになるの?」
「それはのちほど、五十嵐さんが明文化しますので御一読ください。本日はひとまず、わたしに触れないこと。仕事以外で話しかけないこと。就業中、終業後に、わたしのあとを付け回さないこと。以上です」
視界の端で、不破が頷いたのがわかった。
「うん。わかった……それを守ったら、成瀬さんは僕のとなりにいてくれるんだね」
「となりではありません。 斜め前、壁側寄りです。もっと離れたいぐらいです」
キツめに訂正を入れたところで、備品を取りに行っていたリオナが、ハァハァ言いながら荷台を押して研究室に戻ってきた。
「不破先生、これでいいですか? 空気清浄機とティーセットに丸テーブル」
それらを一瞥した不破は、不服をあらわにする。
「空気清浄機以外は持って帰ってください。デザインがいまいちだ。僕が用意します。それから、明日までにブラインドとカーペットを新品にしてください。成瀬さんのデスクとチェアも新品がいい。彼女が使うパソコンも最新のものを導入してください」
額に汗をかくリオナが、さすがに言い返した。
「……はあ?! そんなの無理に決まっているでしょう。さすがにそこまでの権限ないわよ」
不破の無理難題に対して「できない」とリオナが首を振っている間に、デスクの上にある電話の受話器をあげた無理難題男。
電話に出た相手に、こう告げた。
「不破です……研究室の環境改善について五十嵐さんに伝えてありますので、よろしく……ええ、そうです。そうしないと、今月中に論文をあげるのは難しいかと。はい、ではそのように」
1分も経たずに電話を切り上げた不破が、頬杖をつきながらリオナに冷たい視線を向ける。
「五十嵐さん、いますぐ、学長室へ。理工学部長も同席するそうですから。権限のある人に、僕の要望をしっかり伝えてきてください。それが、キミの今日最大の仕事です」
その不遜な態度に「キイイイィッ、腹立つ!」と地団駄を踏んだリオナは、研究室の扉を開けると捨て台詞を吐いた。
「どうぞ、お忘れなく! 親友の大不況を買うとわかっていながら、このわたしがっ! 成瀬さんに声をかけたんですからね。どっかの未練タラタラな准教授に、最後のチャンスを与えるために!」
「それは感謝している。ありがとう。ほら、はやく行って。さっきも言ったけど、キミの声も顔も、耳障りで目障り。僕、成瀬さんとふたりがいいんだ。たとえ触れられなくても……ふたりだけの空気を吸いたいんだ」
じっとりとした視線を向けられたイズミは無言で、近場にあった分厚いファイルをパテーションがわりに積み上げた。
研究室に、乱暴に扉を閉める音が響いた。
ご機嫌な不破の鼻歌が聴こえてくる。
両手で耳を塞いで、イズミは思った。
わたし、アイツを殴らないで1か月過ごせるかな。
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