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東堂家の上品で広い和室の一室。畳の上で私は倒れ込んでいた。床の間に飾れた掛け軸、活けている花は真珠のように白い白百合。白貝のごとく、美しい障子に差し込む明るい陽の光。
全てが清廉とした空気を纏っているのに、それらの存在を塗り潰すかのような東堂家当主のねっとりとした泥のような嗤い声。
私の婚約者、|東堂《とうどう》|凪《なぎ》の不愉快な声が耳に届く。
「真那ぁ、ほら。辛いだろう? 『助けて下さい、凪様』って可愛く言えば助けてあげるよ? ククッ」
「ぐぅ、……うぅっ」
朦朧とする意識のなか、ぎりッと歯を食いしばって混濁する意識を正しく保とうと目を強く瞑り、記憶を整理する──
そう、私は三日前。
蒼波様に決死の覚悟で私の血を与えて、この世から消えて無くなるものばかりだと思っていたが、現実は違った。
私が意識を取り戻すと、やっとお母様、お父様に会えると思っていたのに、目の前には両親の面影などなく、見知った私の部屋の薄暗い天井だった。
周囲には壁にびっしりと医療関係の本や、辞書があった。
東堂家の母屋とは切り離された、古い紙の匂いが漂う、古書店みたいな部屋。
ここは私の部屋に違いなかった。
森の中を駆け抜けて、蒼波様と出会ったことは夢だったのかと思ったが、いつも左右に結んでいた髪紐が一本しかなかったので夢ではないと思った。
私は命を落とすことなく、東堂家に連れ戻されたのだろう。
自分の生命力、いや人魚の血の強さに恐れをなすが──どこかほっとした自分もいた。
あれだけ消えたいと思っていたのに。
死んであの世で両親に会えるから、何も怖くないと思っていたのに……。
心臓が動いていると思うと尊くて、なんだか泣きそうになった。
きっと、森で出会った蒼波様のせいかもしれない。
あの人は死が間近に迫っていても、生だけを真っ直ぐに見ていた。
そんな命の輝きを目の当たりにして、どんな理由があっても、自ら手放してはならないと思えた。
自分の行動を顧みて涙が溢れる前に、蒼波様が無事なのか気になった。
どうか生きていて欲しい。
私の血が役に立っていて欲しい。
どれだけ蒼波様の無事を祈ったところで、血の口付けをしたあと気を失った私には、その後何が起こったのか全く分からなかった。
記憶がぷつりと途切れている。
それでも、あのあと何が起こったか必死に薄い布団を握りしめて記憶を手繰り寄せようと思ったけど、はっと気付いた。
私にはそんな悠長な時間などない、と。
ここに戻って来たと言うことは、次こそ逃げられないように、本当に縄で繋がれる可能性があるかもしれない。いや、婚礼を無駄にしたと折檻されてもおかしくない。
背筋にぞくりと冷たい汗が流れたとき、東堂家の女中達がぞろりと部屋に入って来た。
女中は淡々と『凪様がお呼びです。ご支度をして下さいと』と、一方的に言うだけ。
そして私は逃げる暇もなく、入浴と食事を進められた。
否応なく風呂場に連れて行かれて湯浴みをして、進まない食事が終わって、膳を引かれて和室に一人になった頃には少しは状況が掴めた。
それは私が婚礼から逃げ出して、連れ戻されてから三日程経っていたこと。
私はどうやら森の中で倒れてからずっと寝込んでいたらしい。
──蒼波様のことは分からずじまい。
婚礼に関しては、花嫁が急な体調不良と言う触れ込みで、また日を改めるということで祝宴の形を取ってどうにか東堂家の体裁を整えたということを、女中達からはなんとか聞き出せた。
和室に取り残され、普段とは違う立派な着物に袖を通して、今から東堂凪に会うことになると思うと、無理やり食べた食事が胃からせり上がって来そうだった。
ずっと張り付いていた女中が消えた今、このまま、やはり逃げ出すべきだろう。
そう思った瞬間にスパンっと障子が荒々しく開け放された。そこには東堂凪がいた。
驚く暇もなく、東堂凪は有無を言わさず私の顎を乱暴に掴み。
口に薬瓶を突っ込んで、何かよく分からない液体を口内に流し込んだ。
それは舌の上に苦みと渋みが染み渡り、口腔内を焼き尽くすような刺激がする液体。
吐き出したくとも、瓶を押し込まれ液体を嚥下してしまった。
液体は思った通り、喉を通過すると痛みをも伴っていた。
あまりにも苦しくて、痛くて、そうして私は和室で倒れ込んだのだった──
苦しさに視界が暗転しかけたが、必死に意識を繋ぎ止めて、記憶がバラバラにならないようにと、ざりっと畳に爪を立てた。
爪先がペキッと割れる音がして、痛みが指先を走った。しかし、そのおかげで意識は大丈夫。
私は正しく現状を認識していると把握出来た。
すると、凪の笑い声が上から降ってきた。
「真那ァ、はぁはぁ言って、僕を誘っているのかい? 君は本当に虐めがいがある。その珠のような美貌が歪むのが堪らなく魅力的だ」
「く、うっ……っ」
粘っこい言葉に余計気持ちが悪くなる。
現状を把握出来たところで、東堂凪の態度は変わらない。
私を悠々と見下ろして、薄笑いを軽薄な顔に貼り付けている。
畳のイグサの香りを感じながら、私の偽りの婚約者──凪を見上げる。
コメント
1件
第3話、読ませていただきました。 東堂凪のねっとりとした声と、畳に爪を立てて必死に意識を繋ぎ止める真那さんの描写が対照的で、緊張感が途切れませんでした。特に「心臓が動いていると思うと尊くて、泣きそうになった」という一文がとても好きです。蒼波様の命の輝きが、彼女の中で確かに息づいているんだなと感じられて、胸が熱くなりました。この先、どうなるのか気になって仕方ないです…!