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都築七美
278
葉菜
54
もな
325
翌朝、小依が目を覚ましたころには夜の冷たさを残していた庭にも薄い陽が差し始めており、昨晩に月を映していた池の水面では、睡蓮の葉に溜まった露が朝風に揺らされながら、葉の縁を伝って一滴ずつ水へ落ちていた。
眠りについた時刻が普段より遅かったため、身体の奥にはまだ僅かな重さが残っていたものの、庭師の鋏が鳴り、台所から朝餉の支度をする音が聞こえ始めれば、昨日と何一つ変わらない朝が訪れたのだと自然に身体が理解した。
鏡台の前へ座れば女中が髪を梳き、朝餉を終えれば教師が訪れ、書の稽古では昨日より払いが僅かに乱れていると指摘され、その理由を問われても、昨晩に魚を眺めながら夜更かしをしていたとは何となく答えづらかった。
昨夜、胸の奥へ生まれたはずの小さな思いも、明るい朝の中で昨日までと同じ予定に囲まれてしまえば、夜の水面にだけ浮かんだ月のように輪郭を失い、本当に自分がそんなことを考えていたのかさえ少し不思議に思えてくる。
それでも廊下から庭を眺めるたび、昨日の魚は今も池のどこかを泳いでいるのだろうかと考えてしまうので、完全に忘れてしまったわけではないらしかった。
昼を少し過ぎたころ、小依が華道の稽古を終えて廊下へ出ると、普段は閉められている客間の障子が開かれ、使用人たちが大きな木箱を二人掛かりで運び込んでいるところに出会った。
箱は小さな箪笥ほどの大きさがあり、黒く磨かれた木の外装には細い真鍮の縁取りが施され、側面には熱を逃がすための細かな格子と、何本もの管を繋ぐためらしい金具が並んでいる。
「そちらは何ですか?」
小依が足を止めて尋ねると、箱を運んでいた使用人の一人が慌てて荷を下ろし、額へ浮かんだ汗を袖で拭うより先に頭を下げた。
「新しい投影箱でございます。旦那様がお取り寄せになったものが、先ほど届きまして」
「まあ。以前のものは壊れてしまったのですか?」
「いえ、まだ十分に使えるのですが、こちらは生映しにも対応している新型なのだそうで」
聞き慣れない言葉に、小依が僅かに首を傾けると、もう一人の使用人が箱の背面を示しながら、こちらからも映像と声を送れるのだと説明してくれた。
これまで篠倉家に置かれていた投影箱は、映写巻を読み込ませて芝居や記録映像を眺めるか、都の映送局から届く限られた番組を受け取るためのもので、小依にとって投影箱とは、本や新聞と同じく向こう側から届いたものを見るための道具だった。
ところが新しい箱には、前面の投影硝子の上へ小さな撮像筒が取り付けられ、その左右には音を拾うための集音孔があり、側面の送映把手を倒せば、そこに座る人間の姿と声を遠く離れた相手へほとんど同時に届けられるのだという。
「では、こちらからも見えるのですか?」
「はい。もっとも、こちらから送る場合には映路を開かなければならないそうですが」
「えいろ?」
「映像の通り道、とでも申しましょうか。最近は町の方々が、ご自分で映路を持つことも珍しくないとか」
小依は感心して新しい投影箱を眺めた。
同じ町の中に暮らしていながら、自分の知らないところでは随分と便利なものが当たり前になっているらしく、それを少し不思議に思ったが、考えてみれば自分が最後に町の様子を直接見たのがいつだったのかさえ、はっきりとは思い出せなかった。
幼いころ、母と共に輿へ乗って寺へ参った記憶はある。
けれど輿の簾越しに見えた町並みは断片的で、どの道を通ったのかも、どれほど遠くまで行ったのかも、今となっては曖昧だった。
「小依」
客間の奥から母の声が聞こえ、小依が顔を上げると、母は新しい投影箱の設置を見守りながら、楽しそうに手招きをしていた。
「ちょうどよかったわ。あなたも見ていきませんか。今から試しに生映しを受けてみるそうですよ」
次の稽古まではまだ少し時間があったので、小依は母の隣へ腰を下ろし、使用人たちが投影箱の背面へ細い通信管と電信線を接続していく様子を眺めた。
やがて側面の小さな圧力計が震え、箱の内部から低い唸りが聞こえ始めると、格子の奥で冷却用の小さな羽根が回転し、正面の乳白色をした硝子へ細い光の筋が一本走った。
その筋は上から下へ何度も往復し、最初は雨のような細かな乱れしか映していなかった画面が少しずつ明るくなるにつれて、人の輪郭らしきものが霞の向こうから浮かび上がってくる。
「少々お待ちください。ただいま同期を合わせております」
設置を担当していた技師が側面の調整輪を慎重に回すたび、横へ崩れていた顔が縮んだり伸びたりし、最後に小さな金属音と共に像がぴたりと重なると、そこには一人の少女が映っていた。
白銀の長い髪を肩から流し、白と淡い水色を基調とした衣を纏ったその少女は、海の底にあるという龍宮の姫を思わせる装いでありながら、古い絵巻の乙姫よりもずっと親しみやすい笑みを浮かべている。
右側の袖は白を多く残しながら淡青の刺繍が走り、反対の袖では淡い水色の生地へ白い文様が重ねられていたが、互いの色が細かな部分で行き来しているため、意識して眺めなければ左右の違いには気づきにくい。
髪の右側には白い花が飾られ、左側には青磁色をした小さな鈴が三つ下がっており、少女が画面へ顔を寄せるように首を傾けた瞬間、澄んだ音が僅かに響いた。
ちりん。
『皆様、お昼ですよ〜。お仕事の方も、お勉強の方も、お昼を忘れてはいけませんからねぇ』
「あら、廻さん」
母が嬉しそうに言った。
小依もその顔には見覚えがあった。
「水鏡廻さん、でしたよね」
『はい、水鏡廻でございます〜』
まるで小依の声へ返事をしたような間合いだったので、小依は思わず目を瞬いたが、すぐに画面の向こうの廻が別の話題を始めたため、偶然だったのだと分かった。
水鏡廻は、小依でさえ名前と顔を知っているほど有名な映し手だった。
歌や舞を披露することもあれば、料理を作りながら視聴者と話したり、各地の祭事を紹介したり、ときには朝から何時間も取り留めのない話を続けていることもあり、町では彼女の姿を模した人形や髪飾りまで売られているという。
篠倉家でも以前の投影箱で何度か放送を見たことがあり、母は特に廻の歌を気に入っていた。
ただ、小依が覚えている限り、彼女の放送は大きな映送局を通じて見るものだったので、こうして届いたばかりの家庭用投影箱で同じ映像が流れていることには少し驚いた。
「この方も、生映しなのですか?」
「ええ。今この瞬間にも、どこかでお話しになっているのですって」
母がそう答えると、画面の中の廻は机の上へ置いていた扇子を取り上げ、慣れた手つきでぱっと開いた。
白く半透明な扇面には、細い蔓の間を縫うように幾つもの花が描かれており、ところどころへ朝顔に似た青い花と、小さな葉が散らされている。
廻はそれを口元へ当てて笑ったあと、手首だけで器用に一回転させ、危うく取り落としかけて慌てて両手で受け止めた。
『あっ』
一瞬の沈黙のあと、画面の外から誰かの笑い声が聞こえた。
『……今のは見なかったことにしてくださいませ』
母が小さく笑い、小依もつられて口元を緩めた。
『本日は新型投影箱の発売日でもありますので、初めてこちらをご覧になっている方も多いのでしょうか。初めましての方は初めまして、ずっと見てくださっている方は――今日も見つけてくださって、ありがとうございます』
廻は扇子を閉じ、その先端を画面のこちら側へ向けた。
『せっかく誰もが声を届けられるようになったのですから、皆様も好きなものをたくさん見つけて、好きなことをたくさんお話ししてくださいね』
その言葉に母は「素敵ねぇ」と呟き、設置を終えた技師も満足そうに投影箱を眺めていた。
小依も素敵なことだと思った。
知らない土地の景色を見たり、遠くの人の話を聞いたり、自分の好きなことを誰かへ伝えたりできるのであれば、これほど便利な道具もないのだろう。
けれど画面を見つめているうち、小依はふと別のことが気になった。
「お母様」
「なあに?」
「こちらからも送れるのでしたら、わたしが今ここでお話ししたことを、遠くの方へ届けることもできるのでしょうか」
「もちろんできるのでしょうけれど……何かお話ししたいことでもあるの?」
そう尋ねられた途端、小依は答えに詰まった。
自分から誰かへ伝えたいこと。
そう考えてみると、すぐに思いつくものが一つもなかった。
琴なら弾ける。
歌も歌える。
花も生けられる。
茶も点てられるし、書も剣も人前へ出して恥ずかしくない程度には身につけている。
けれど、それらを誰かに見てほしいのかと問われれば、よく分からない。
「……いいえ。少し気になっただけです」
小依が笑うと母も深く尋ねることはなく、ちょうど次の稽古を知らせる女中が現れたため、小依は投影箱へもう一度だけ目を向けてから立ち上がった。
画面の中では廻が視聴者から届いた短い文を読み上げており、ときおり楽しそうに扇子で口元を隠して笑っている。
小依が客間を出る直前、午後の日差しが硝子戸から斜めに差し込み、投影箱の画面を越えて、ちょうど廻の開いた扇子へ重なった。
半透明の扇面が一瞬だけ強く透ける。
花と蔓の下に、別の細い線が見えたような気がした。
小依は足を止めた。
幾つもの点を繋ぎ、枝分かれしながら扇面いっぱいへ広がる、ごく細かな線だった。
けれど廻が扇子を傾けると、それはすぐ花模様の中へ消えてしまった。
「小依様?」
待っていた女中に呼ばれ、小依は視線を外した。
「……いいえ。参りましょう」
ただの飾りだったのだろうと思いながら、小依は客間を後にした。
その日の夕刻、空には朝から少しずつ増えていた雲が重なり、庭へ落ちる光も早いうちから薄くなっていた。
水路を流れる水は曇天を映して鈍い灰色を帯び、その両岸では昼間まで開いていた露草が青い花を閉じ始め、石の隙間へ生えた小さな草も湿り始めた風に葉を震わせている。
小依は琴の稽古を終えたあと、昨日と同じ縁側へ立ち、庭の向こうにある高い塀を眺めた。
昨日聞こえた子供たちの声は今日は聞こえず、代わりに塀の向こうから、町を走る蒸気車の低い音と、どこかの家から流れているらしい水鏡廻の歌声が風に乗って届いていた。
屋敷の中にいても、外の声は聞こえる。
投影箱を使えば、遠く離れた土地の景色さえ見ることができる。
それでも小依は、昨日の夜に考えたことを思い出していた。
本物の川は、投影箱で見る川と同じ音がするのだろうか。
映像の中で風に揺れている草は、触れればどのくらい柔らかいのだろう。
町を歩く人々の声は、映し箱を通さずに聞けば、どのくらい近く感じるのだろう。
細かな雨が降り始めた。
最初の一滴が紅葉の若葉へ落ち、その重みで葉先が僅かに下がると、溜まった水は葉脈を伝って先端へ集まり、やがて丸い雫となって水路へ落ちた。
水面に小さな輪が広がる。
次の雨粒が別の場所へ落ち、その輪へ重なる。
一つ、また一つと庭の水面へ輪が増えていくうち、静かだった流れの表面は細かな波で埋め尽くされていった。
「降ってきましたねぇ」
小依は軒下から片手を伸ばし、掌へ落ちた雨粒の冷たさに少しだけ笑った。
そのときだった。
庭の奥から、聞き慣れない金属音がした。
からん、と、何か硬いものが石へ触れたような音だった。
小依は手を引っ込め、音のした方へ顔を向けた。
池の向こうには植え込みがあり、そのさらに先には篠倉家の屋敷を囲む高い塀が続いている。
庭師も使用人も、今の時間にあちらへ入る予定はなかったはずだった。
しばらく待ってみても、何も聞こえない。
雨だけが少しずつ強くなり、菖蒲の細長い葉へ雫が当たる音と、水路へ落ちた雨粒が弾ける音が庭を満たしていく。
「……猫でしょうか」
そう呟いた直後、塀の上から何かが落ちた。
黒い影だった。
人ほどの大きさがある。
それは塀の内側へ真っ直ぐ落下したかと思うと、地面へ触れる寸前に短い蒸気音を発し、身体を横へ捻りながら植え込みの奥へ消えた。
しゅっ、と白い蒸気だけが葉の間から立ち上る。
小依は瞬きを忘れて、その場所を見つめた。
今のものが人だったのなら、どう考えても門から入ってきた客人ではない。
声を上げて使用人を呼ぶべきなのだろう。
そう思って口を開きかけたとき、植え込みの奥から葉を押し退ける音がして、一人の青年が姿を現した。
黒に近い鼠色の衣服は雨に濡れ、腰や腕には小依が見たこともない金属製の器具がいくつも取り付けられており、片手には細い綱の伸びた小さな機械を握っている。
青年は小依を見た。
小依も青年を見た。
雨の中で、二人はしばらく何も言わなかった。
やがて青年は、自分が屋敷の娘に見つかっているという状況を理解したらしく、ほんの少し眉を寄せた。
「……見た?」
小依は少し考えた。
「どこからでしょうか」
「そこから?」
「いいえ。どこから、ここへ入られたのでしょう」
青年は塀を指差した。
「上」
小依は高い塀を見上げ、それから青年へ視線を戻した。
「……上?」
「上」
朝に雀が越えていった塀だった。
昨日まで、小依にとってその向こう側は声が聞こえるだけの場所であり、昨晩になって初めて、自分も一度くらいは行ってみたいと思った場所だった。
そこから今、一人の人間が降ってきた。
青年は雨に濡れた髪を乱暴に掻き上げると、小依が声を上げないことを不審に思ったのか、警戒したように目を細めた。
「……叫ばないの?」
小依はまた少し考えた。
本来なら、叫ぶべきなのだろう。
けれどその前に、一つだけどうしても気になることがあった。
「その機械」
「は?」
小依は青年の手に握られている器具を指差した。
「先ほど、蒸気が出ていましたよね?」
青年は黙った。
「それも、蒸気で動くのですか?」
「…………そこ?」
雨は少しずつ強くなり、池へ落ちる無数の雫が、月も空も映せないほど水面を細かく揺らしていた。
コメント
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うわ、これは面白い流れですね。新型投影箱で双方向通信が可能になった世界——そこに閉じ込められた小依の無意識の渇きが、「塀を越える」という形でついに物理現象として訪れた感じ。扇子の下に隠れた別の線(符牒? 秘密の通信路?)は絶対に伏線ですよね。そして雨の中で「上」としか言わない青年との邂逅。設定の密度と情感の静けさのバランスがとても好みです。次が待ち遠しいです。